どこかのT大生の思考

不定期です。旅行と考えることが好きなT大生が、たまーに駄文を公開します。自身の生に関する思いを述べる「自省」、旅の思い出を記す「旅記」、社会に対して言いたいことを唱える「主張」、人間関係の悩みを書き散らす「拗人」、その他自分の姿や趣味などを自由に語る「特筆」の5つ。

[拗人8]「誘いづらくなる」ということ

くそ。もともと誘うの苦手なくせに、さらに状況悪化しやがって。

 

 

COVID-19流行の落とした、1つの影

 

先日最後のレポートが終わり、私もついに夏休みに突入した。Sセメスターで書いたレポートは総計20本以上、字数の合計は80,000字以上。我ながらお疲れさまでした。

さて、ここで夏休みに突入したため「遊び」をしたくなるものである。もう巡ってくることがそうそうない、貴重な長期休暇である。COVID-19感染が懸念されるところではあるが、私自身は「三密対策」「至近距離でマスクなしに話さない」を徹底すれば遊んでもさほど問題でなく、それでもかかってしまったら「運が悪かった!しょうがない!」と思うほかないと考えている。だから、夏休みは正直遊びたい。……え、某活と某某試験はどうしたって?うるさいねえそれはちょっと置いといてよ。

 

だが、ここで大きなハードルが立ち塞がる。それは

「人を誘いづらい」

ということである。

 

昨今の状況により、外出や遊びを巡る各人の対応は異なってきている。平然と友人との会食を行う人もいれば、一人旅で遠くに行く人もいれば、一方で買い物などを除く外出を一切していない人なんかもいる。なお私の立ち位置は「感染防止策を十分に講じれば外出や遊び自体は問題ないが、それでも多すぎると望ましくないし三密だけはアカン」というものである。

大学生ゆえ、どうしても親の見解に従わざるを得ない人は多いと思う。私の場合、当初は換気対策の観点から公共交通機関を用いる一切の旅行が親に禁止され、「いや移動自体が問題じゃない」「むしろ飛行機や新幹線はめちゃくちゃ換気してる」と反論したことで何とか折れてもらったところだ。うちの場合はまだ折れてくれたから良かったが、聞き耳を持たないコロナ脳(この言い方はあまり好きじゃないが便宜上使う)の親だったらもっと大変だろう。

 

そうやって、個人によってコロナ禍における対応が異なる中、迂闊に人を誘うことが難しくなっている。

だって、自分の基準で人を誘ったらその遊びは相手の基準的にはアウトだった、なんてことも起こるのだから。そうなったら、お互い気まずくなることだろう。仕方ないことだけど。

 

しかも厄介なことに、多くの人の「基準」は外から発見しづらい。堂々と「三密はダメよ」って基準を書いている私なんて、よっぽど特殊な方でしょ。だいたいみんな、基準がわからん。

 

 

断り/断られやすくなるし、本当の理由か分かりづらい

 

誘った時、「自粛の基準的にアウトだから仕方なく断る」ってことをされる。これだけならまだいい。

でも、現実はもっと残酷である。

 

「自分の基準的にはオッケーだけどお前は嫌だからってことで、とりあえず自粛を理由に断る」

とかいう事態だって起こりうる。

つまりまあ、コロナのおかげで、相手にとってはそれっぽい理由をつけて断りやすくなるし、自分にとってはそれっぽい理由をつけられて断られやすくなるってことだ。

 

これ、地味にしんどくね?

もしその人がSNSとかで遊びの写真あげてたら、つまり自粛してるってのが嘘だったらさ、自分にだけは嘘つくほど会いたくなかった、ってのが露骨にわかるってことでしょ?

自分はその人にとって、平然と嘘ついてまで断るような相手ってことでしょ?

そんなん絶望やん。

……え、陰キャの被害妄想キモいって?おうそうかいなんとでも言ってやれ。

 

でも、そうやってSNSで嘘を見抜くとかしない限り、ガチで自粛ゆえに断ってる場合と見分けつかないことね?

相手が本当に自粛ゆえに渋々断ってたとしても、自分が勝手に「ああこいつは自分に会いたくないんだなそうかそうか」って解釈しちゃうかもしれん。単なる勘違いと自爆。

逆も然り。誰かに誘われた時、本当に自粛ゆえに渋々断ったとしても、相手に勘違いされるかもしれない。チガウソウジャナイ、ホントニワタシノコウドウシシンテキニアウトナダケナノ、コロナナカッタラヨロコンデサンカスルノニ。

……え、陰キャの被害妄想やっぱキモいって?おうそうかいなんとでも言ってやれ。このブログ読んでる時点で覚悟しろ。

 

真面目な話、いつもの断り文句「明日朝早いからー」「バイトあるからー」「犬の散歩があるからー」「ちょっと地球救ってくるからー」とかと比べ、汎用性が高い上に個人の信条ゆえ真偽の判断がしづらいから、地味に厄介である。

 

 

「え?こんな時期に誘ってくるの?やったー嬉しい」

 

緊急事態宣言発令も4ヶ月以上前のこととなり、今や日常が戻りつつある。

しかしながら、陽性者数が増加しているのもクラスターが発生しているのも事実だし、やはり「会食」「遊び」が昔のように気軽にできる状態には程遠い。

 

だからこそ、この時期において「誘う」という行為は、ある種特別性を孕むのかもしれない。だってよ、この夏は「特別な夏」なんだぜ? めちゃくちゃ青春っぽいフレーズやん。

気軽にできないけど、それでも誘う。それは、それだけ特別な人だから。

そして特別な人だからこそ、相手のコロナ禍に対する考え方は尊重する。もし相手が行動指針をもとに断念したとしても、その判断に不満は言わない。

(ちなみに、そんなんお構いなく否応なく誘ってくるやつがいたとしたら、自分が「特別な人」だと思われてるのはまあ事実だけど悪徳商法か宗教か単なるメンヘラなので、とりあえず警戒。)

 

こうやって会食とか遊びとかが憚られる時代だけど、それでも俺はお前と会いたかったんだよ、それだけお前は俺にとって特別なんだよ。

……は?そんなん誘われて嬉しいに決まってんだろ。そこまでして会いたいのかー仕方ないなー照れるなー。でもな、悪いけどこれだけは守って欲しいんだ。

……おう、当然だろ。誘ったのはこっちの側なんだし、お前の考えを大切にするぜ。

……って感じ。

 

誘われるってことは自分に存在意義があること、それを知れるのはクソ嬉しい、ってのはいつかの記事で書いたかもしれんけど、今その性格は特に強まってるように思える。

誘うってことはその人が自分にとって必要な人、それを伝えるってことで緊張する、って側面もあるかもしれんけど、今その性格は特に強まってるように思える。

 

だからこそ、この時期に相手の考えを尊重しつつ(ここ大事)誘ってくるような人は大切にすべきだし、大切な人はこの時期にとりあえず誘ってみた方がいいのかかもね。

この、全面自粛でも全面解除でもない、絶妙なタイミングだからこそ。

 

 

「え?こんな時期に誘ってくるの?やめて気持ち悪い」

 

しかし、現実はそう単純じゃない。

 

そもそも「今誘うってのはある種特別だよね」っていう私の考えに対して「は?自意識過剰キッツ」って思われても何らおかしくない。私の見ている世界が特殊なだけで、陽キャの皆さん(あ、ガチ陽キャはこんなブログ読んでないか!w)は通常通り人を誘っているのかもしれない。はい、自意識過剰陰キャですんません。「友達」って言葉を見るだけで身構える社不適ですんません。

 

あと、誘ってどう思われるかって点。単に話がしたくて誘ったとしても、「いやなんでこの時期なの???お前はそこまでして私に会いたいの???キッモ」「え?それってもしかして誘ってるんですか?ごめんなさいちょっと今そういう気分じゃないです」「私のこと特別視するなんて、もう少し立場を弁えろ」とか思われるかもしれない。……え、陰キャの(以下省略)。

例えば私には小学校時代の友人(って言ったら向こうが心外な顔するかもしれないけど)がいて、昨年突然連絡をもらってからずっと「暇ができたら会いたい!!!!!」って思ってたんだけど、いざ暇になったのは今年3月の終わりだった。一切誘う勇気が出ない。向こうにどう思われるか怖い。異性だから尚更である(なお私のことよく知ってる人なら理解してくれると思いますが恋愛感情はありません、あでも私は異性に会うだけで喜ぶ変態人間だからそういう心持ちはあるかもしれませんが)。

……しんどいわね。オンラインにしても、ずっと会えてなかった人といきなりオンラインってのは難しいからね。

……あ、ちなみに私は誘われたら問答無用で「やった!!!!!自分の存在価値ある!!!!!」ってなる人間なのでお構いなく。むしろ自分でいいのか謎に不安になるレベル。

 

てか、普通に恋愛の成就が難しくなってることね?ってのは思う。

私は今恋愛的に好きな人とかガチでいないからよくわからんけど、意中の人を誘ってきっかけを作るのが難しいやん。片想いだと「相手は嫌がらないかなあ」とか心配になるだろうけど、この状況じゃ平常時以上に心配になるやん。

恋愛は頭脳戦だけど、なんと不戦敗。それどころか会場までたどり着かない。

 

はあ、「特別」ってのが自明だから遊びに誘うのが憚られない、そういう意味での「恋人」がいたらよかったのになあ(小声)。

 

 

「コロナ終わったら会おうね」って言葉の怖さ

 

「コロナ終わったら会おうね」

この言葉ほど怖いものはない

 

ガチなのかお世辞なのか断り文句なのかわからない

本心からの言葉ならまだいい。でも、お世辞かもしれない。もっと悪いことには、単なる断り文句かもしれない。「コロナ終わっても会うわけないだろお前は一生引っ込んでろ」って意味かもしれない。

おかげさまで、自分がこの言葉を言う場合でも「お世辞じゃないから!嘘じゃないから!ガチで会いたいの!」って補足しなきゃいけない。

 

②フラグか?????

「〇〇したら××しようね」なんてめちゃくちゃ死亡フラグやん。え、あんた死ぬの……? それとも私が死ぬの……? 世界滅亡が先……?

 

③いつ終わるんすか

冗談じゃなく、いつ終わるのかガチでわからない。てか終わるってなんだよ。ウイルス感染症が根絶されるなんて、途方もない話だぜ?

 

ここで「コロナ終わってなくても会おうぜ!」とか言うと相手に気持ち悪がられるパターン。

 

 

「待つ」戦略

 

なんかもう、誘うって行為が怖くなってきちゃった。

でも人と遊びに行きたいし、人と話したい。

 

いっそ「私は三密回避できる限り大歓迎っすよ」って示しといて、誘われるのを待つのが無難なのかもしれん。

待つわ。(いつまでもとは言わないけど)待つわ。いつも金欠の私だけど今は10万のお陰で潤ってるし、いつも多忙アピールってゴミ行動している私だけど今は結構予定空いてるし。

 

……ってことで、リアルの私を知ってる皆さん(ごめんこの条件も譲れない)、ぜひ誘ってね。待ってるよ(他力本願)。

[拗人7]拗らせ未リア二十歳男性、恋愛と性欲について物申す

今回の文章は特に過激かつ気持ち悪いので、覚悟してくださいな。

特に女性の方がご覧になる場合。

本当に覚悟してくださいな。

 

※最初に断言しておくが、以下述べるのはあくまでも「クソ拗らせた男1人の偏見にまみれた考え」である。なお私自身は肉体的にも精神的にも男性を自認しており、また恋愛対象・性欲対象は異性であると自覚しているが、恋愛に要するハードルが高い。ヘテロロマンティック・デミロマンティック・ヘテロセクシャル。そこだけはどうかご了承いただきたい。

 

 

 

命題「私は変態である」

 

命題「私は変態である」

 

この「変態」とは、ここでは「異性への態度や考えにおける指向」とでもしておこうか。

……いささか突然だが、今回はこれの真偽を確かめてていくこととする。

 

 

私という男のこれまで

 

まあまずは、私という男がこれまでどのような「同年代女性との関係」を有していたかを辿る必要があるだろう。

(あなたが読んでも何のメリットもないので読み飛ばしてくださいこれは私の整理のためだけですので)

 

幼稚園時代。男子の友人すら1人しかおらず、しかも彼は引っ越して行った。何かのきっかけで女子の友人(いや向こうは自分のことを友人とは思ってなさそうだね残念)ができたが、彼女も引っ越して行った。草。

小学校低学年時代。相変わらず友人は男子ですら4人くらいしかいなかった。なんか親同士仲良かった女子の家に行ったことがあるらしいけど、何やったかは覚えてない。てか当時性別なんて意識しておらんわ。加えて、習い事の関係で(主に母親間のつながりをもとに)女子の友人ができたっぽいが、あまり会うことはなかった。女子への接し方は男子と特に変わらず。

小学校高学年時代。ぼっちの私にも徐々に「親しい人」ができてきた。なんか小学校のクラス内に存在する「会社」の会合のために女子の家に行った。よくわからんボードゲームで遊んだ。当時「好きな人」がいたらしいけど、今考えりゃ何でその人だったのか皆目見当がつかぬ、あの好意は偽りのものだったようだ(なおその人とは中学卒業以来会っていない)。それ以外の女子は男子と同じようなものだと考えてた。とある女子への嫌がらせ的なことをしては「〇〇くん嫌い」と言われた(なおその人とは中学で離れて以来会っていない)。

中学時代。1年の時の林間学校で「夜の告白イベント」が発生したが、自分には一切の関係なし。3年の頃に性欲が芽生えたが、なぜか「実在の知り合いの女子」は妄想の相手にならなかった。なぜか知り合いの女子は一切の恋愛対象にならなかった。とはいえ女子とは普通に接していた。あ、そういや1回けいどろで女子を助けようと思ったらめちゃくちゃ「は?何この変態」みたいな顔で見られたことがあったな。それと、隣の部活の先輩が初めて「怖い女性」として認識された。

高校時代。中学同期を除く「女子高校生」と30秒以上話した回数、3年間で1桁(ガチ)。もちろん何かか起こるはずもなく。3年の文化祭のフォークダンスで女子高生とペアになったが、連絡先の交換すらせず、かつ何の後悔もなかった。でも通学の電車の中で見知らぬ女子高生を見ては「可愛いな」など思っていた。この中途半端なスケベが。

 

大学時代。高校時代と比べて女性と話す回数は100倍以上になった。フィクションのラブコメなどを見る回数が激増し、恋愛に憧れるようになった。「カップル」という存在が突然身近なものになって、「彼女欲しい」と思いはじめては突然「出会い」を求めるようになり、それもあっていろんな団体に所属するようになった。「そのうち彼女とかできるんじゃね?」とか最初は思っていた。

現実は残酷だった。1年の7月頃に女性に「〇〇くん、最初は何言ってるのか全然わからなかったけど、今なら話が通じるようになった」って言われる(ガチ)くらいには最初は女性との接し方に慣れてなかった。さすがにそのうち慣れ、2年の頃には人生で初めて恋愛感情を(実在の知り合いに対して)抱いたが、何故か1ヶ月で消滅した。以降、女性の知り合いは多数いるにもかかわらず、恋愛感情は一切生じていない。あと「心を許せる女性の友達」ってのは非常に少ない。

性欲に関しては相変わらず、実在の知り合いを相手として考えることはできず、妄想の相手は「誰かよくわからない人」に限定される。「出会い」を少なからず期待して新たな女性の知り合いができても、いくら美人であれ話した瞬間に性欲対象から除外される。でも高校時代と変わらず、制服着た女子高生を見てはドキドキするどスケベ(ただし痴漢とかは死んでもしません犯罪者にはなりませんのでそこだけはご了承ください)。最低。

あと、サークルやバイトで「怖い女性」と認識する同年代女性が複数登場した。

……女性から告白された経験?無いに決まってんだろアホが。なんか男性の友達2人から「自分が女性だったら付き合いたかった」とかいう謎の告白をされたことならあるけど。

 

こうして彼女いない歴=年齢の二十歳が形成された。はいここテストに出ます。

男子校の高校時代を通して女性が「男性と異なる存在」として認識されたのが、女性観の大きな転換となった。これ以降「出会い」を求めるようになった。とはいえどうしても実在の知り合いは性欲対象にならなかった。でも「制服を来た女子高生にドキドキする」とかいうド変態思想は大学生になっても変わらなかった。

 

……いや「女子高生」の時点で変態確定じゃんこんなの。何なのお前。

 

まあでも一応、このあといろいろ整理してって改めて「変態かどうか」を考えてみるよ。

まずは、デミロマンティックの私が世間一般の「恋」に対して物申したいこと2点でも書いておこうか。その後に、私の特質を書いておこう。

 

あ、ちなみに私は「恋愛」も「性欲」も実在するものだと思ってるからね。ある友人が「恋愛なんて幻想」って言ってるのを聞いたことがあるけどこれには必ずしも同意できなくて、私は「その人と一緒にいたいっていう感情は実際に存在するんじゃないのーーーーー?????」って思ってるからね。

 

 

 

「優しくしてくれた女子に対して勘違い」とか言うけどさ

 

よくあるよね。消しゴム拾ってくれたとか帰り道付き合ってくれたとか「優しくしてくれた」って経験から「もしかしたらあの子は俺のことが……?」って考えちゃう、勘違い系残念男子。

フィクションでは当然よく見かけるし、現実でも恋愛経験ゼロなイカ東男子がやらかしてる気がする。

 

……いや、そもそも女性がイケメン以外の男性のことを「好きになる」ことなんてほぼ幻想なことね?????

私はこんな勘違いはしませんよ。だって真面目な話、低身長で顔も良くなくて体力も高くない奴なんて誰が相手にしてくれるのさ(拗らせの炸裂)。

むしろ「優しくしてくれた」と思う場合、私は同時に「まあどうせ他の人に対しても同じでしょ」って思って終わるのみよ。よく考えろ、どういう場面で女性が私のことを特別に扱ってくるん? それって「単に都合がいいからであってお前に対する恋愛感情なんか関係ない勘違いするんじゃねえアホが」じゃないの? 女性も言ってるぞ、「興味のない人から向けられる好意ほど気持ちの悪いものってないでしょう?」って(『クズの本懐』安楽岡花火の台詞)。お前に特別な感情を抱く異性なんていねえし、勘違いしたら向こうが傷つくだけなんだよ(拗らせの炸裂)。

 

……ん、あれ? 私ってそもそも女性から「優しくされた」経験なんてあったっけ?

だいたいお前、女性からは「他の男子の劣化版」として扱われるのが常じゃなかったか? なんか距離を取られてることがほとんどなんじゃねえか? 世の中には「楽しそうにちょっかいを出し合ったりスキンシップをとりあったりしながら話す男女」ってのが現に存在するけどよ、お前そんなこと経験したこと一切ないだろ? 「勘違いさせちゃう系女子」ですらお前は眼中にねえんだよ。

……なんか悲しくなってきたわ。泣きそう。恋愛感情云々以前に、お前に深く関わろうと思ってくれる異性なんてガチで存在しないってか。ここで天の声に「当たり前だろ?」って言われて終わる。当たり前なんだよなあ。

言い忘れてたけど、大前提として私は「自分の能力」に関しては自己肯定感の塊なのに対して、「自分の人間関係構築力」に関しては自己肯定感が一切ないのである。そりゃこれまでの生き様があーだったらこうなるわな。

 

これね、また別の面白い現象が起こるんですよ。それは「アイドルを不気味に感じる」ってものなんですよね。

どういうことかっていうと、アイドル(特に坂とかかな?)ってしばしば「視聴者に語りかけてくるような仕草」を動画とかで見せてくるけど、私レベルになるとそれも違和感しか感じないってことなのよ。だいたい女性から特別に扱われた経験がないから、そういうのは奇妙なわけよ。むしろ怖いわけよ。慣れてないから。

私が3次元アイドルを好きになれないの、実はこういう要素が絡んでいるのかもしれないよ。

 

さて、今度は人間の男女の恋愛に関する不均等について書いてみようか。

(ここから早口)だいたいヒトっていう種は、基本的にオスの方からメスにアプローチする生物じゃんか。メスがオスにアプローチするなんて幻想よな。それにメスの方は「妊娠出産」とかいう苦難を経験するんだから、生物的に優れたオスを選ぶのなんて当然よね。それに一夫多妻制も存在するくらいには「イケメンの独り占め」が起こっちゃうわけだし。そもそもルックスか結婚率に影響する傾向は女性より男性の方がよっぽど甚だしいらしいし、精神疾患を有する方だって女性なら「理解ある彼くん」が登場するのに男性なら孤独死ルートだし。実在の知り合いに恋愛感情とか性欲を抱けず、かつイケメンですらないオスは、まあそりゃ淘汰されるばかりだよね。しょうがないよね。(ここまで早口)

 

じゃあなんで、世の中の男子共は勘違いするん?????

……それってさ、たぶん心の奥底に「そうあって欲しい」って想いが存在するから、すなわち「その人と一緒になれたらいいのにな」って思ってるからじゃん。それをさ、「その人が自分に優しくしてくれた」ってことで勝手に根拠づけてさ、それで突入するんでしょ?

 

相手の真の思いを理解しようともしないで勘違いして付き合おうとするってのは、(特に男子にとっては)もはや下心の現れでしかないのでは。

○○とか○○○○するだけなら許容範囲は広い(から勘違いの相手も範囲に入る)かもだけどさ、「真摯なお付き合い」「肉体関係だけじゃないお付き合い」をするとなったらどうしても相手のことをよく理解する必要があって、勘違いなんてしてらんないんじゃないの? 勘違いしたまま突っ込む時点で「真摯なお付き合い」を求めてるのとはちょっと違うと思うんだけどなあ。

こうやって、その人のことをよく見てないで勝手に「俺のこと好きなんじゃね?」って思って突入しちゃうのこそ、その人に対する下心が見え見えで変態じゃないのかね(過激発言)。

 

私は「勘違い」しないから、そういう意味の変態ではない。これは断言しておく。

 

 

 

一目惚れってなんなん?????

 

人ってなぜか、一目惚れするんだよね。相手のことをほぼ知らないくせに「好きです!付き合ってください!」ってなるやつ。

フィクションでは当然よく見かけるし、現実でも「オリ合宿で付き合い始めた」とかいう「明らかに出会ってから付き合うまでが短すぎる例」ってのが観測される。

 

……いや、どうやったら一瞬でその人の判断ができるん?????

私は一目惚れなんてしませんよ。だって可愛い人なんてごまんといるのにさ、なんでその中で「この人こそ俺の運命の人だ!」って確信が持てるわけないっしょ?????(そっち?)

一目惚れってのは、一時の心の迷いに任せて「もっといい相手を見つける」可能性を捨てる行為なんだよ。「じゃあもっといい相手を見つけたら現恋人と別れりゃいいじゃない」は?お前にとって恋人ってのはそんなに軽い存在なのかよ。軽薄に付き合っちゃう人のまあ多いこと。私ゃ「恋愛」「お付き合い」ってのをほぼ経験したことないからよくわからんけどさ、それってそんな軽いものだとは思わんかったよ。私だってそういう奴らみたいに軽いものと思えてたらもっと楽だったかもしれないのにな(ほんまか?)。

 

じゃあなんで、世の中の男子共は一目惚れするん?????

……それってさ、たぶん心の奥底に「とりあえず美人の女性と付き合いたい」って想いが存在するから、すなわち「誰でもいいから恋人が欲しい」って思ってるからじゃん。それをさ、「一目惚れした」ってことで勝手に根拠づけてさ、それで突入するんでしょ?

 

相手の外見と僅かな内面を見ただけで付き合おうとするってのは、(特に男子にとっては)もはや性欲の現れでしかないのでは。

だいたい「誰でもいいからとりあえず恋人が欲しい」って思ってなきゃ、会ったばっかの人に突入なんてしないでしょ。んで「誰でもいいから恋人」って思ってる場合、それって目的は「一緒にいて幸せな人と一緒にいること」ってよりかは「○○や○○○○で肉体関係を持つ」じゃないの??? そりゃナンパと一緒じゃん。

こうやって、その人のことをよく知らないくせに「一目惚れ」って突入しちゃうのこそ、性欲が見え見えで変態じゃないのかね(過激発言)。

 

私は一目惚れしないから、そういう意味の変態ではない。これは断言しておく。

 

 

 

とはいえ私も性欲はあります、しかし

 

こんだけ「下心が見え見え! 性欲が見え見え! 変態!」とか言いながらも、私だって異性に対する性欲は存在する。一般の男性がどれくらいなのかは知らんけど、少なくとも人並み、もしくはそれ以上にはあると思う。

 

ただ、私の場合その性欲は「実の知り合いでない存在に向かう」「捌け口がないが風俗通いや性犯罪には繋がらない」のである。

後者はまあ「初体験を疎かにしたくはないよね?」っていう謎の頑固さと「犯罪はアカン」っていう当然の常識ゆえである。問題は前者である。

 

私は、見知らぬ女性の制服姿にドキドキしちゃうらしい。これはまあ性欲の現れなのかもしれない(世の中の女性の皆さんこんなスケベ野郎が社会に存在して本当にごめんなさいでも犯罪は起こしませんのでそこだけはどうかお許しいただけると幸いです)。「出会い」を求めたがるのも同様である(まじで私がこんな奴で本当にすみませんでしたですが女性問題など一切起こしていませんのでどうかご慈悲を)。

しかしいざ知り合いになった瞬間、その性欲は消えてしまうようだ。それどころか、知り合いとの○○○○を想像でもしてしまったら罪悪感に苛まれるのみである。まったく不思議なものである。

 

理由であるが、とある男子校出身の友人が「AVの見過ぎ」と言ってきた。これは事実かもしれない(はいすみません、暴露すると私は着衣のAVを見ることが少なくないのです本当にすみません、個人の嗜好なのでどうか口出ししないでくださいお願いします、犯罪は起こしませんのでどうかよろしくお願いします)。

おそらく「肉体関係を持つ相手」と「友人」が区別されるのだ。「話」という接点を持った以上は私は男性であれ女性であれ「友人」というベクトルを目指すので、そこが分岐点なのかもしれない。あと「友人」に自分のデリケートゾーンを見せるのは非常に憚られる。そしてどうせ「友人」であれ女性が私を積極的に求めてくることはないと思っているし、そう勘違いするのは「友人」としての相手に対して失礼極まりない。

 

その上で、恋愛感情ってのは知り合いすなわち「友人」に向かう。私はデミロマンティックなので、相手のことをよく知らずに好きにはなれない。これは先ほど物申した通りである。

だから、よく知らない人と「○○○○のために付き合う」ってのはそれこそ性欲の現れそのものなので論外である。ま、だいたい○○○○までにいくつものステップがあるのが普通だし。

 

……え、これ詰みじゃね?

恋愛結婚において、相手ってのは恋愛対象かつ性欲対象であることが大前提じゃん。結婚相手(恋愛対象)は知り合いなんだから、そこで性欲沸かなかったら結婚生活破綻だし、そもそも私は恋愛結婚の相手を確定させることすらできないじゃん。ああ私が結婚できるって思い込んでいること自体が誤りでしたかどうもごめんなさいね。

 

はい、だからこそですね、強制的に結婚相手が決まる「お見合い」が私にとっては望ましいわけですね。あんまり深く知り合っていない状態で結婚するってのも、実は良いのかもしれませんね。後述するように、私の女性評価の基準はクッッッッソ低いですしね。

 

 

 

恋愛感情を抱いたことはあります、しかし

 

とりあえず[拗人1]と[拗人6]でも読んどけ!!!!!!!!!!

utok-travelandthinking.hatenablog.com

utok-travelandthinking.hatenablog.com

 

 

 

え?「そこにいるだけ」でいいの?

 

ここで面白い話をひとつ。

 

私という未リア二十歳男性、なんと「知り合いの女性と同じ場所で話しているだけで楽しい」らしい。しかもその人の彼氏の有無は問わないらしい。どうやら最初から恋愛対象たることを無視して「女性である」それだけで、かつ状況を細かく指定せず「話す」それだけでいいらしい。

どうだ。これが男子校3年間で1桁回しか同年代女子と喋らなかった人間の成れの果てだ。

 

こういうのは、性欲から来ているのかもしれない。でも前述の通り、私が知り合いに対して性欲本体を感じることはほぼない。よくわからぬ。

なんか、「異性から自分の価値を少なからず認められている」って自覚できるのがいいのかもしれないね。恋愛ってなんすかwwwwwみたいな人生を送ってきた人間として人間関係(特に異性との関係)に関しては自信の一つもないから、そこで少しでも自信を得たかったのかもしれないね。仮に私に好きな女性ができたとして、その女性から価値を認められる可能性もある、ってのがとりあえずわかるのがいいのかもしれないね。

 

そういや男性が女性を評定する(この言葉クッッッッソ嫌いなんだけど便宜上使わせて)「アリ」「ナシ」って基準があるけど、「可愛い」って基準に則れば私にとっちゃ殆どの女性が「アリ」になるよ(まじで女性の皆さまごめんなさい誤解を招く表現となってしまいましたがどうかご承知を)。

私における「可愛い」の基準はクッッッッッソ低いのさ。だから大抵の女性と話すだけで、私は幸せになれる。いや自分で言うのもなんだけどピュアピュアやん。

 

……ってなわけで、私はめちゃくちゃちょろいらしいよ。

……まあこんなこと言ってもどうせ私のこと(略)だし意味ないはずだけどね。

 

 

 

「男らしさ」の喪失

 

とある女性の友人に「○○くんって中性的だから話しやすい」と言われたことがある。

この言葉、褒め言葉のはずなのだが、私は色々と考えたものである。

 

ヘテロ女性が交際相手として許容してくれるのは、「男らしさのある人」だと考えている。そりゃだってさ、よくわからんけどさ、生物学的にも「オスっぽさ」のアピールが有効になるわけじゃん。だからこそ自分が「中性的」ってのは要は「男らしさ」を失ってるってことで、つまり女性側に許容される確率が低いってことで、なんか悲しいのよね。

ちなみに「男らしさ」「女らしさ」の是非についてはまた別の記事な。

 

とはいえ「中性的」ってのは、要は男性にありがちなホモソーシャル的なアレがあからさまに出ないということである。つまり、女性から見る「人に見せるための私」は変態ではないってことさ。

 

 

 

なーにが「あなたを守りたい」だよこの野郎
 

もう一個、物申したいことがあったわ。

 

なんか告白の台詞でさ、「あなたを守りたい」的なやつあるじゃん。男性から女性に言うやつ。

 

……なーーーーーにヒーロー気取りしてるんだよ?????

お前は女性を勝手に自分に隷属させてるのか?????

付き合い始める前のくせに「俺はこいつを守れる」とか思うんか?????

それもそれで「変態」じゃないのか?????

てか「彼女がいるというステータスによりホモソの中で守られる」のはむしろお前の側だろ?????

自分の立場を弁えろ?????

 

 

 

命題「私は変態である」

 

私も制服(略)くらいにはスケベで変態だが、同時に変態でないという側面も「勘違い系男子でない」「一目惚れをしない」「話すだけで幸せになるくらいにピュア」「ホモソーシャル的な要素が強くない」「自分の立場を弁える」って感じで5つほど存在する。

 

結論「部分的に真だが、部分的に偽。」

……なんか中途半端な終わり方でごめんなさい。

[自省10]「物語」の呼び起こす、心のざわめき

「物語」と、それに伴う時間の不可逆性の自覚が、不思議な心のざわめきを引き起こす。

 

 

心のざわめき?


最近、心のざわめきが何かと止まらない。


とはいっても、「胸騒ぎ」のように何か心配ごとゆえに不安が高まっているわけではない。でもだからといって、自分の将来に関する懸念とも、いつぞやに抱いた恋愛に関係する思いとも、もっと普遍的に人を恋しく思う感情とも、死への恐怖ともちょっと違う。

これまで私は、いろいろなことを考えては悩んでいたものである。[拗人1]を書いた昨年の初夏には恋愛という行為について思い悩み、[拗人6]を書いた今年4月には自身の恋愛不能を嘆いた。

utok-travelandthinking.hatenablog.com

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今年4月にはそのほかにも、[随想7]のように自身の感情そのものを問い、また[拗人5]のように人との接触機会減少を嘆いていた。

utok-travelandthinking.hatenablog.com

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でも今はたぶん、それらよりもっと根本的なことを考えてしまっている。たまにぼーっとして、勉強も手につかなくなってしまう。


この心のざわめきは、何かが違う。

 

 

ざわめきの現れる共通点


このような心のざわめき、これまでに経験したことがないわけではない。

高校生時代にも、たまに感じることがあった。大学生になってからだって、些細なきっかけで同じような状態になることがあった。

そして今だって、この心のざわめきはたぶん、当時と大まかには同じきっかけから生じている。

では、それは何か。


このような心のざわめきが激しくなるのは、決まって「他者の物語に心を動かされたとき」「自分の過去を振り返るとき」「自分が長らく思い描いていたことが実現しそうなとき」の3パターンのいずれかである。

思えば、自粛期間で私は従来の10倍以上の頻度でアニメやweb漫画(物語)を見るようになり、また「5年前の日記をつけてみる」という無謀な取り組みのもとで過去を振り返るようになり、そしてこの夏にはとある希望が実現しようとしている。現在というのはこのように、まさにこの心のざわめきが現れやすいタイミングらしい。


考えてみると、これらにおいては共通して、「物語」がプラスな感情とともに「時間の不可逆性の自覚」を私にもたらしてくる。これが、心のざわめきに繋がってくるのだろう。


これらは決して私にとって悪いことではなく、むしろ私が楽しんでいる事ばかりである。いくら心のざわめきが生じようと、その行為をやめようとは思わない。

でも、やっぱりざわめきは止まらないものである。

 

 

「他者の物語」による影響


人間は、前世の記憶を確と持って生まれてでもいない限り、無知の状態から自らの生を始める。その中で自身の生きる道の参考となっていくのは、他者が「物語」という形で提供する「他者の生き方」である。

それを提示してくれるのは、最初は親という最も身近な存在であり、そのうち先生や友人や先輩や著名人、ひいては歴史的人物やフィクションにおける登場人物にさえなる。このとき、その物語を語る他者と、その物語で語られる他者は必ずしも同じとは限らない。

だからこそ、他者により語られる「他者の物語」を見ては「かっこいい」「こんな生き方をしたい」と思うものだ。幼い頃の私だって、武田信玄の伝記や斎藤道三の生い立ちを読んでは「かっこいい」と思ったものである。

口伝や伝記・フィクションという形で語られる「他者の物語」は、自分の生を豊かにしてくれる。この中でも、その人物をありありとイメージしやすい作品だと、感情移入ができるからなおさらであろう。「他者の物語」は単に娯楽として消費されるのみならず、自分の生に否応なく関わってくるのである。


しかし「他者の物語」が受け手としての自分にもたらすものは、「かっこいい」「こんな生き方をしたい」という素直な思いだけでない。もちろん、真逆の「かっこ悪い」「こんな生き方をしたくない」という思いだけでもない。

むしろ厄介なのは、「こんな生き方をしたいけれど、自分にはどうしても難しい」という思いである。

「こんな生き方をしたい」「こんな生き方をしたくない」については、そこで抱いた思いをこれからの自分の人生における指針とすれば、それだけで済む。しかし「こんな生き方をしたいけれど自分にはどうしても難しい」は、これからずっとその生き方に憧れつつも絶対に成就することはない、という絶望的な状態になりかねない。


私は前回の記事[特筆13]を書いたくらいにはアニメや漫画、それも設定が複雑すぎないものが好きである(設定が複雑すぎると面倒くささが勝って視聴する気が起きない)。

utok-travelandthinking.hatenablog.com

まあその分野に関する知識はまだ浅いけれども。そしてアニメや漫画はフィクションであるとはいえ、名作なら生きる上での指針を与えてくれることが多い。

ところで現代の理解しやすいアニメ作品・漫画作品においては、主要な登場人物が10代であることが多い。主人公が高校生である割合がやたら高い。主要な対象年齢とか物語の作りやすさとか考えると、まあそれもそのはずなんだけど。ところが私は大学受験が終わってからハマった人間であり、今やもう20歳である。

さて、この年齢差が「こんな生き方をしたいけれど自分にはどうしても難しい」という悲劇を生む。これは、ファンタジー世界でなく日常世界を扱う作品でだって十分にあり得る。当然ドラマでも小説でもあり得る。

例えば、共学高校におけるドタバタを語った作品(こんな作品は腐るほどある)については、その作品における登場人物の生き方に憧れたとしても、男子校高校卒業者である私にとっては大体不可能である。また、高校生・大学生のアルバイトにおけるドタバタを語った作品(こんな作品もごまんとある)についても、大学3年生ゆえにアルバイト開拓の可能性が著しく低い私にとっては、その真似はほぼ無理に近い。それに、恋愛模様を語った作品(こんな作品も当然とんでもない数ある)については、(私の過去の記事をお読みの方ならお察しの通り)相手が存在せず憧れるのみで終わる。だいたい私はもう成人しており、10代の繰り広げるピュアなやりとりなんてもうできない。

それだけでない。大学3年生にもなると、この後の人生においてできることがどうしても限定される気がしてしまい、たとえその作品で語られる「他者の物語」が成人であれ実現可能なものだとしても、実現が困難に思われてしまうのである。例えば理系研究者を扱った作品(まあこんな作品も結構あるでしょ)なんかだと、文系の私が今後それを目指すことは困難に他ならない。某人気ドラマは銀行員を扱うわけだが、某活中の今の私ならまだ可能性があるにしろ、もう少しすると仮に銀行員に憧れたとしても目指すことは難しくなる(まあ私は銀行の良さがかけらも理解できないが)。

(ちなみに本筋からは外れるが、演劇などにおける「演技」を通してのみ、唯一この「こんな生き方をしたいけれど自分にはどうしても難しい」を解決することができる。だからこそ他者になりきって「他者の物語」を演じることができる演劇は、魅力的だ。)


私は「青春コンプレックス」を抱えている、と自覚している。すごく気持ち悪いようだけれども。

別に自身の過ごした中高時代を激しく後悔しているわけでもなく、むしろ正しい過ごし方だったと思うくらいであるのだが、自身の青春時代に経験できなかった「物語」を提示された瞬間、どうしても「それ自分もやってみたかった」と思ってしまうのである。出身高校(男子校)に対する愛着は誰にも負けないと自負しており、この高校を選んだことを最高の選択だと思って今も生活しているが、それでも男子校コンプレックスは消えない。これまでの人生における重要な選択はほとんど意味があったと思いつつも、「別の選択肢を選んだ場合」を考えずにいられない([主張21]参照)。

utok-travelandthinking.hatenablog.com

他者の物語が提示してくる「憧れるけれど自分にはもはやできない/できなかったこと」こそが、自分の心を痛めつける。ここにおいて、時間は不可逆であるという残酷な真実を突きつけられ、それを前にして自分は何もできなくなる。ただ憧れの生き方がそこに存在しながら、自分にはそれを実現するにはもう遅いという事実。


それが、羨望と時間の不可逆性の自覚による絶望感・無力感が混ざった、あの心のざわめきのような妙な心的状態を呼び起こす。

 

 

「自己の物語」による影響〜過去の出来事から


「こんな生き方をしたいけれど自分にはどうしても難しい」という悲劇は、必ずしも「他者の物語」に限らず、自分の過去の振り返りすなわち「自己の物語」においても生じ得る。

(前提として、私は恵まれた少年時代・青年時代を過ごさせていただくことができた。親には感謝してもしきれないところである。)


「5年前の日記を書く」なんてたいそうな事業を行わなくても、ふとした瞬間に自分の過去は思い起こされるものだ。

写真フォルダをぼんやり眺めては、過去の旅行の写真が出てきて思い出す。「去年の今日って何やってたっけ?」と思って手帳を見返しては、その日およびその日近辺にあった楽しい出来事を思い出す。掃除中に古いものを見つけては、それの存在とともに当時を思い出す。

ここで、「他者の物語」が「自己の物語」をふと思い出すのに寄与することもある。例えば友人との会話中に過去の思い出が登場すれば、その思い出と当時の日常を否応なく思い出すだろう。作品中に遊園地に関する感動的な物語が登場すれば、自身の遊園地に関する記憶を思い出すだろう。


このようにして過去を思い出すことすなわち「自己の物語」を再構築することは、当時の自分の行為を改めて見つめることにつながる。例えば自分の注意不足によるインシデントがあったとすると、「当時の自分に忠告したい」となるものである。自分の努力による成功体験があったとすると、「当時の自分を褒めたい」となるものである。

当然それだけでない。楽しい思い出であればそれを懐古し、場合によっては追体験しようとさえすることだろう。ここで「当時は楽しかった」となるのだが、それは「それに比べて今は……」「当時の自分にはもう戻れないのだな」という悲観的な考えにもつながりかねない。

これこそ、個人の内部における「こんな生き方をしたいけれど、自分にはどうしても難しい」の現れである。


「自己の物語」であれば記憶が存在するがゆえに、「他者の物語」以上にその生き方の「良さ」が感じやすいことだろう。だからこそ、「自己の物語」における「こんな生き方をしたいけれど自分にはどうしても難しい」は、より残酷となる。そしてれっきとして「過去」であるから、再現は「他者の物語」以上に難しい。感染症が蔓延り「密」が避けられる世の中、「密」ゆえに楽しかったいろいろな出来事は封印され、少なくとも今後2年の「若い間」に再現することは困難にほかならない。

そうして、時間の不可逆性が「こんな生き方をしたいけれど自分にはどうしても難しい」という悲劇を生む。

例えば、高校時代の写真をふと見つけることで、部活仲間(?)と過ごした非常に楽しい時間を思い出す。自分で経験したことだから、その楽しさすなわち「良さ」が鮮烈に感じられる。しかし今や大学・学年はバラバラになり、かつてのように毎日集まるなんて不可能である。それに彼らには今や「友達より大事な人」が存在するし、この先大学を卒業して社会に出たら一層集まりづらくなる。その集まりが「密」であったら、それはしばらく再現不可能だろう。ゆえに、その楽しい時間を完全な形で再現するのはもはや困難に近い。


「あたりまえの温もり 失くして初めて気づく」(合唱曲『証』より)

まさにその通りである。過去は取り戻せない。その幸せはその時にしか感じることができない。時間が経過して初めて、社会が変容して初めて、その幸せの真の価値に気づくことができる。だけれどもその時にはすでに「こんな生き方をしたいけれど自分にはどうしても難しい」となっており、どうすることもできない。

自分の過去に根ざす「楽しかったけれど自分にはもはやできないこと」が、自分の心を痛めつける。ここにおいて、時間は不可逆であるという残酷な真実を突きつけられ、それを前にして自分は何もできなくなる。ただ楽しかった生き方がそこに存在しながら、自分にはそれを再現するのは困難だという事実。


それが、懐古と時間の不可逆性の自覚による絶望感・無力感が混ざった、あの心のざわめきのような妙な心的状態を呼び起こす。


だから、今をめちゃくちゃ楽しめ。幸せを享受しろ。

……自戒を込めて。

 

 

「自己の物語」による影響〜過去の語りから


「自己の物語」は、今の自分が過去を振り返って語るもののみならず、過去の自分が未来を想像して語るものも存在する。

それはいわゆる「将来の夢」であり、いわゆる「高校でやりたいこと」「大学でやりたいこと」である。これは日記や文集を見返すことで思い出される。


過去の自分が語る「自己の物語」が実現している場合、それは満足という形で現れる。目標が達成されているわけだから。

一方でそれが実現していない場合、厄介にほかならない。過去の自分が想像して憧れた「未来の自分」は実現されないまま、もう実現されずに永遠に葬られるのだから。

これこそ「こんな生き方をしたかったけれど、今の自分にはどうしても難しい」である。


例えば、私は中学時代よりずっと、「若いうちに恋愛を体験してみること」を夢見て生きてきた。しかしそれは実現することなく、今までずっと恋人居ない歴=年齢を貫いてきた。また高校時代の私は、「大学において完璧な人間関係を築くこと」を夢見ていた。しかし大学の人間関係は、高校時代と比べて「成功している」と断言するのはいささか難しい。

そして1年半前くらいより私は、「ある地域に密着して第二の故郷を作ること」を夢見てきた。しかし今や感染症流行(とそれに伴う市井の懸念の増幅)に伴い来訪を拒まれ、それはこの夏においても実現することはない。学部生活における長期休暇なんて残り4回しかないのに、その4回とももはや絶望的である。


「あの時頑張っていたら実現していたかもしれなかった」それは今や無意味である。そしてそれは未来永劫実現することがない。

自分が過去語った物語が提示する「希望したけれど今の自分にはもはやできないこと」が、自分の心を痛めつける。ここにおいて、時間は不可逆であるという残酷な真実を突きつけられ、それを前にして自分は何もできなくなる。ただ目指していた生き方がそこに存在しながら、自分にはそれを再現するのは困難だという事実。


それが、希望と時間の不可逆性の自覚による絶望感・無力感が混ざった、あの心のざわめきのような妙な心的状態を呼び起こす。


だから、その「自己の物語」の成就に向けて、今できるだけの努力をしろ。後回しにすると、社会が変わってしまって実現できなくなるかもしれない。

……自戒を込めて。

 

 

「自己の物語」による影響〜未来の想像から


先ほど「今をめちゃくちゃ楽しめ」と書いた。

しかしながら、いくら今を楽しんだところで、その楽しい「今」は二度と戻ることがない。今努力を怠って「自己の物語」が実現できなくなったとき、その後悔対象となる「今」は戻ってこない。

この事実は、過去でなく未来について考えるにあたっても、心に響いてくるものである。


「自分が長らく思い描いていたことが実現しそうなとき」、心は希望と楽しさで満たされる。だって「自己の物語」が実現しそうなのだから。

しかし残念ながら、それだけにとどまらない。その「長らく思い描いていたこと」が実現したところで、やがてそれも過去の出来事となり、結局その先においては「楽しかったけれど自分にはもはやできないこと」となる。ふとそれを考えてしまうと、そのことを純粋に楽しむこともできなくなる。

これこそ「こんな生き方をしたいけれど、それが終わると再現が難しくなる」である。


楽しい出来事は長くは続かない。終わりが近づくにつれ、「終わってほしくない」という思いが現れてくる。でもどうしようもできず、終わりは確実に到来する。そしてその終わりが到来した瞬間、「楽しかった」という思いとともに激しい虚脱感に包まれる。

例えば、私は国内の旅が好きである。「ここに行きたい」と考えて計画を立て、それを実行に移すことで、自分の希望が成就しようとする。しかしいざそれが始まると、目標の完全な成就とともに完全な終焉に近づくのみであり、だんだんと虚脱感に苛まれていってしまう。そしてそれが完結すると、もう「過去の楽しかったこと」として記憶に残されるのみとなり、取り戻すことはできなくなる。


楽しいことが実現することは、非常に楽しくて心が躍る。でもそれはどうせ「過去の楽しかったこと」になる。

自分が現在語る物語が成就するとき、やがて「楽しかったけれど自分にはもはやできないこと」が現れるという想像が、自分の心を痛めつける。ここにおいて、時間は不可逆であるという残酷な真実を突きつけられ、それを前にして自分は何もできなくなる。ただ楽しいだろう生き方がそこに存在しながら、それには必ず終わりがあり、その先の未来における自分にはそれを再現するのは困難だという事実。


それが、楽しみと時間の不可逆性の自覚による絶望感・無力感が混ざった、あの心のざわめきのような妙な心的状態を呼び起こす。

 

 

でも「時間の不可逆性」が人生を面白くしてくれる


他者のものであれ自己のものであれ「物語」に触れることで、羨望・懐古・希望・楽しみといったプラスな感情を抱く一方で、時間は不可逆であるという事実を感じてしまい絶望・無力というマイナスな感情を抱く時、この心のざわめきが生じる。

物語に触れて「これはめちゃくちゃ良い生き方だ」「これは絶対楽しい」そう思う。……でも時間を巻き戻すことができないから、それを実現させることはもうできない。


タイムリープできれば良いのにな。タイムトラベルじゃなくて、意識が過去の自分に乗り移るタイムリープの方。某お笑いコンビのツッコミ(?)が「時を戻そう」とかいうけれど、本当に時を戻せたら良いのにね。あとタイムリープものはフィクションでも多数見られるけれど、現実でもそれができたら良いのにね。


……でも実は、「物語」に触れることで実感するこの残酷な「時間の不可逆性」こそが、人間生活を面白いものにしてくれるのかもしれない。

 

今を逃すと実現できないかもしれない危険性、今楽しくてもその楽しみには終わりがあるという事実、やり直しのきかない恐怖、これを自覚することこそが人間生活を実りある豊かなものにしてくれるのかもしてない。

その過程で「実現できない絶望」による心のざわめきが生じたとしても、それまた人生における一興。というかこの不思議な心のざわめきは、決して悪いものではない。

 


20歳の今ですら、この有様である。この先年齢を重ねて元気とか可能性が縮小するにつれ、この心のざわめきは拡大していくことだろう。

どうか、この心のざわめきと付き合いながら生きていきたい。自身の生き方を広げてくれる「物語」に触れることを楽しみながら。

 

夏が始まる。

夏というのは「物語」に富む季節なので、心のざわめきも大きい。

今、例年と比べて非常に制限されてはいるが、「物語」に影響された夏を思いっきり楽しみたい。

[特筆13]観たものをひたすら述べていく①

今回はオタクによるクソ記事(?)なのでご了承を。

 

 

 

どうやら、自粛が始まって3ヶ月が経ったらしい。

もうこの生活にもとっくのとうに慣れてしまった。もう前の生活には戻れないかもしれない。オフラインの1限にはもう出られない。

 

 

さて、ずっと家にいると、常にインターネットと自分専用の机があることになる。そのため、パソコンで映像を見ることが非常に楽である。

それでどうなったか……というと、マルチタスク大好き人間である私は「なにか作業をする際にはパソコンで映像作品を流しておく」ということを徹底し始めた。具体的には、パソコンの画面の左側に作業用ウィンドウを表示して、右側にPrime Videoを配置するような感じである。この際「脳死で見られる映像作品」である方が、脳の処理能力を食わないので望ましい。

世の中にはあまりにも映像作品が多く存在し、時間さえあればできるだけ多く見ておきたいものである。その矢先、この環境は映像作品の視聴に非常に適していた。

 

 

結果、3/28の外出自粛開始から本日7/5までの間で、多くの作品を観ることになった。

なおほとんどはアニメである。だって変なドラマとかと比べて、作業しながら視聴するのが楽なんだもの。頭を空っぽにして観られる日常系アニメほど良いものはないぞ。ちなみにアニメをちゃんと観るようになったのは受験が終わってからである。

もう2020夏アニメが始まるらしく、時の流れの速さに衝撃を受けている。

 

 

とりあえず、3/28から7/5までに観た50作品(え?)について、以下「頭空っぽにして見られる度」「心えぐり度」と感想を述べていこうかと思う。完全に主観。ネタバレは極力避ける。あと3ヶ月前なので意外と忘れてる。

「心えぐり度」ってのは要は「青春コンプとか拗らせとか旅したさとかにどれくらい影響してくるか」ってところである。

あと順番は適当。

 

 

1. 恋する小惑星(2020冬)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆

心えぐり度…☆☆☆☆

恋アス。頭空っぽにして観られるけど、ある目標に向けて頑張る女子高生ほど眩しいものはない。これを観て「ああ、青春だなあ……」と思うほどには私は歳を取った。地学って素敵だよね(実は私は理科では地学が一番好きである)。地味に心がえぐられる。

 

2. へやキャン△(2020冬)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆☆

心えぐり度…☆

作業中に流すものとしては至高。まあ「へや」じゃないってことは置いといて。ちなみに犬山あおいが一番の推し(?)である。かちかち山の話(全然正しくない)好き。

 

3. 理系が恋に落ちたので証明してみた。(2020冬)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆☆

心えぐり度…☆☆

こういうバカみたいな恋愛模様、大好き。なんか「実際の理系はこんなんじゃない!」って批判とかもあったけど、ここで描かれてるのは「極端な理系」なんだからいいじゃん。ちなみに「証明したくなる」のは決して理系だけじゃなくて、ひねくれた心理学・社会学系の文系も説明したくなるじゃね?(偏見)って思った(自分がそうなるかもしれない恐怖)。

 

4. 鬼滅の刃(2019春〜夏)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆

心えぐり度…☆

ここにきてようやく視聴。何故あれほど流行ったのかよくわからなかったが、確かに面白かった。かっこいいんだよね、炭治郎。そして紅蓮華は名曲。ちなみにWikipediaの記載がめちゃくちゃ充実してる。

 

5. PSYCHO-PASS(2012秋〜2013冬)/PSYCHO-PASS2(2014秋)

頭空っぽにして見られる度…☆

心えぐり度…☆☆

脳死で観ようとした自分が間違いだった。でも面白い。めちゃくちゃ深い。余計なことだが、某活中にこれを観ると「現実でもシビュラが職業適性診断くれたらどれだけ楽だっただろう」と考えてしまうという副作用が生じた。そういや社学のとある先生が、社会学的概念が出てくるからって推していらっしゃった。ちなみに3期はまだ観てない。

 

6. ガールズ&パンツァー(2012秋・2013/3)/ガールズ&パンツァー これが本当のアンツィオ戦です!(2014/7)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆

心えぐり度…☆☆

この作品、むしろ細かい設定を考えてはならない気がする。私は最初に「なんでこの人たち怪我しないの?」ってなってしまった。……フィクションだからいいんだな。OP映像の構成が個人的に好き。

 

7. 化物語(2009夏)/偽物語(2012冬)

頭空っぽにして見られる度…☆☆

心えぐり度…☆

最初観た時は抵抗があったが、まあ面白い。ただし観るのにエネルギーを使う。化物語のどこかの次回予告(という名のもの)で「今は100年に一度の大不況!」とか言っててビビったが、そういや放映当時リーマンショック後の大不況だったか。

 

8. やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。(2013春)/やはり俺の青春ラブコメは間違っている。続(2015春)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆

心えぐり度…☆☆☆☆

俺ガイル。タイトルをはじめて聞いたときには「どーせ変なラブコメなんだろうな」って思っていたら、予想外の方向で「変なラブコメ」だった。だが下手なラブコメより圧倒的に名作。めちゃくちゃ名作。「友達」についてとか色々考えさせられる。八幡みたくなりたくはないけど、八幡はなんか格好いい。それに文化祭とか、なんだかんだ「青春」なので心がえぐられる。あと1期OPの材木座が好きなんだけど、誰かわかってくれますか。そしてなんと言っても主題歌が名曲中の名曲。『春擬き』こそ名曲と言われるだろうけど、それはもちろんながら『ユキトキ』もなかなかでしょう。あと、登場人物の名字が三浦半島周辺なので、ニュースで「三浦郡葉山町一色」と聞いたときは真っ先に俺ガイルを思い出してしまった。3期にめちゃくちゃ期待。

 

9. クズの本懐(2017冬)

頭空っぽにして見られる度…☆☆

心えぐり度…☆☆

恋に恋する人間に現実(?)を突きつけてくる作品。ドロドロ。恋愛って怖いものである。だが、恋愛経験ない私の心はそれほどえぐられなかった。私には関わりのない世界なのだから(ここで謎の拗らせ)。

 

10. らき☆すた(2007春〜夏)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆☆

心えぐり度…☆

日常系の元祖。適当に見るべき作品だと思っている。某クソアニメほどではないが色々とパロってるのが面白い。でもネタが古い。ちなみに母校に関するネタの1つである(意味深)作品。

 

11. Re:ゼロから始まる異世界生活(2016春〜夏)/Memory Snow(2018/10)/氷結の絆(2019/10)

頭空っぽにして見られる度…☆☆

心えぐり度…☆☆

安易な転生モノは好きじゃないけど、リゼロは良作だと思う。てか転生じゃなくて召喚だ。昴はキモい(?)けどなんか格好いい。エミリアは可愛い。あとOVAは本編と比べて平和すぎて、観ていてなんか安心したまである。ちなみに最初はナツキ・スバルの姓名が逆かと思っていた。すばるなつき。

 

12. エロマンガ先生(2017春)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆

心えぐり度…☆

タイトルからは想定しなかった内容(それはそう)(というかなにかを期待していたわけではない)。しかし意外と内容が重いのが良い(?)。EDの映像が可愛い。

 

13. 寄宿学校のジュリエット(2018秋)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆

心えぐり度…☆☆

すこ。めちゃすこ。可愛い。設定が現実離れしてるおかげで、青春ラブコメなのに心をえぐられないのが良い。ギャグとシリアス(?)のバランスが良い。ちなみにかぐや様(古賀葵)がモブで1回出てくる。たぶん声優陣が豪華。あと、これもガルパンと同じく、細かい設定を考えてはならない気がする。イチ押しの作品なのでみんな観よう。

 

14. NEW GAME!(2016夏)/NEW GAME!!(2017夏)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆☆

心えぐり度…☆

今日も一日がんばるぞい! 仲良い職場って羨ましいよね。あとひふみんが可愛い。可愛い。

 

15. Dr.STONE(2019夏〜秋)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆

心えぐり度…☆☆☆

唆るぜ、これは……! 痺れた。少年漫画らしく、みんなめちゃくちゃ格好いい。本当に格好いい。なんといっても親子の絆が素敵すぎる。てか科学の力を思い知らされる。これ昔に見てたら自分も理系になっていたのかもしれない。これを機に科学少年が増えるんじゃね……?ってレベル。第2期に期待。

 

16. ダンベル何キロ持てる?(2019夏)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆☆

心えぐり度…☆

はいっ、サイドチェストォォォォォォォォォ!!!!! 筋トレモチベが少しだけ高まった。いつかこれを参考にして筋トレする(いつだよ)。あと原作者の名前が「サンドロビッチ・ヤバ子」ってのが少しじわる(web漫画にありがち)。

 

17. 宇宙よりも遠い場所(2018冬)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆

心えぐり度…☆☆☆☆☆

よりもい。『ゆるキャン△』『からかい上手の高木さん』『ポプテピピック』『恋は雨上がりのように』『スロウスタート』『りゅうおうのおしごと!』『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』など名作(?)が重なった2018冬の中でも、1番の覇権だと思ってる。真の名作。神作品。号泣必至。軽く死ねますね。心にとてつもなく刺さる。音楽も最高。本当にこの作品に出会えてよかった。本当に神作品なので観てない方は絶対観てください。大きな夢を、諦めてしまってはないか。実現が難しいからって、不安だからって、苦労が伴うからって、挫けて終わっていないか。「何かやろう」と思っていても、行動に移せず終わっていないか。「友情」と見せかけた依存になってないか。「ざまあみろ」の思いを忘れていないか。友達を真に思って、物怖じせずに行動ができるか。自分の行動の理由を、自分以外の人に求めていないか。本物の友情とは何なのか。本物の友達との旅がいかに素晴らしいものか。一生モノの約束ができるか。「青春」とは何なのか。……「大きな夢」を忘れてしまった私たちに、大切なことを思い出させてくれる。

 

18. しろくまカフェ(2012春〜2013冬)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆☆

心えぐり度…☆

心が荒んだときに真っ先に見るべき。観てて全然イライラしない。癒しだけど、よく考えたら結構シュールなアニメ。そして普通に面白い。やりとりがいちいち面白い。それと効果音が充実してて、地味に大好き。あと次回予告も毎回面白すぎる。ちなみにパンダくん・ペンギンさん・ラマさんが『WORKING!!』の小鳥遊宗太・相馬広臣・佐藤潤と同じ(声優)なので、それを考えながら観るとちょっとじわる。

 

19. 邪神ちゃんドロップキック(2018夏)/邪神ちゃんドロップキック'(2020春)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆

心えぐり度…☆

だいぶ際どい作品。某クソアニメには敵わないが、突っ走る感じが面白かった。2期になってようやく世界観が分かるっていう。でも浅いギャグアニメでは終わらない面白さがある。

 

20. 乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転載してしまった…(2020春)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆

心えぐり度…☆☆

はめふら。タイトル長すぎ。こういう平和(?)な転生モノ好き(最後はシリアスだけど)。カタリナの脳内会議好き。可愛い。2期に期待。

 

21. かくしごと(2020春)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆

心えぐり度…☆☆☆

かくしごとの可久士とひめごとの姫。面白い。初見では想定しなかったほどに深い作品。一見ギャグアニメ風ながら各回の最後がシリアスなのが良い。最終話の終わり方はめちゃくちゃ【ここはネタバレなので隠す】。それにしてもKTMCMCとかどうやったら思い浮かぶんだよ。EDが大瀧詠一の「君は天然色」なのが痺れる。『甘々と稲妻』(2016夏)もそうだけど、シングルファザーと少女の話は個人的に推している。

 

22. かぐや様は告らせたい?〜天才たちの恋愛頭脳戦(2020春)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆

心えぐり度…☆☆

不器用すぎかよ。可愛すぎかよ。普通に下ネタが出てくるのも推せる。全体の中でも特に石上会計の回が大好き。

 

23. 放課後ていぼう日誌(2020春→夏)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆

心えぐり度…☆

3話しか観られていないのでまとまった感想はないけど、続きにめちゃくちゃ期待してます。これも「制服で釣りするな!」とかいうのはナンセンスな気がする。

 

ここまで、プライムビデオで観たアニメ。ここから、それ以外で合法的に観たアニメ。

 

24. 僕は友達が少ない(2011秋)/僕は友達が少ないNEXT(2013冬)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆

心えぐり度…☆☆☆☆

はがない。まあハーレムみたいなもんだけど、「友達」について問うてくるので深い作品である。とはいえ皆残念すぎる。残念系隣人部。アニメとしては珍しく、主人公の髪色に説明を付与しているのが個人的に好感。あとこの作品のせいで「肉」と聞くと柏崎星奈を思い出すようになり、厨二病の表現として「クックック……我が眷属よ……」がすぐに思い浮かぶようになった。なんで。

 

25. WORKING!!'(2011秋)/WORKING!!!(2015夏)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆☆

心えぐり度…☆☆

たぶん日常系。頭空っぽにして観られる。変人しかいないけど小鳥遊母が一番やばい。こんな仲良しなバイト先が羨ましい限り……と言おうとしたが殴られるのは勘弁である。『しろくまカフェ』と合わせて観るとおもしろい(前述)(適当)。

 

26. アニメで分かる心療内科(2015冬〜春)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆

心えぐり度…☆

真面目な内容のくせに変人と下ネタばかり出てくる。でも内容は真面目。役に立つか…と言われると微妙かもだけど。ちなみに我が家には漫画(マンガで分かる心療内科)がある。これを小学生に堂々と見せていた我が母親氏よ。

 

27. SSSS.GRIDMAN(2018秋)

頭空っぽにして見られる度…☆☆

心えぐり度…☆☆☆

ロボットアニメ。こういうのを観ることはなかなかなかったけど、ロボットアニメなのにストーリー性とヒューマンドラマが入っているのが良い。かっけえ。

 

28. となりの怪物くん(2012秋)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆

心えぐり度…☆☆

少女漫画。別に少女漫画はそれほど好きってわけでもないけど、これはだいぶ面白い。「変人がなぜかめちゃくちゃ頭いい」やつ。OPが好き。

 

29. となりの関くん(2014冬〜春)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆☆

心えぐり度…☆

「となりの◯◯くん(さん)」って作品多いのよな。山田くんとか山田さんとか柏木さんとか吸血鬼さんとかトトロとか(ちなみにとなりの吸血鬼さんはいいぞ)。関くんは観てるだけでなぜかヒヤヒヤする。でもいちいち楽しそう。OPの最後(横井さんが「やめて」と入れるシーンで関くんがOK/録り直しを示すところ)が回によって違うのが推せる。

 

30. ブレンド・S(2017秋)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆☆

心えぐり度…☆

日常系……? 癒し。でも店長は変態。どうでもいいが、OP映像の"Service"(6回目のS)のところを小池百合子と"Social distance"にして、その後に小池百合子が「密です!」と言うコラ映像があって、それがめちゃくちゃツボった。

 

31. 徒然チルドレン(2017夏)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆☆

心えぐり度…☆☆☆☆

尊死。叫びたくなるレベル。青春が眩しすぎる。観ながらニヤニヤするキモオタクになってしまった。剛田がイチオシ(?)。

 

32. アホガール(2017夏)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆☆

心えぐり度…☆

うるさい。アホ。バナナは夜食。

 

33. 魔法少女まどか☆マギカ(2011冬)

頭空っぽにして見られる度…☆☆

心えぐり度…☆☆

まだ全話は見られていない。噂は聞いていたので覚悟していたが、予想を遥かに超えて衝撃的な内容だった。一部シーンがトラウマになりそう。

 

34. さんかれあ(2012春)

頭空っぽにして見られる度…☆☆

心えぐり度…☆☆

まだ全話は見られていない。ゾンビの書き方が絶妙に生々しい。果たして「ゾンビ少女」ってのは本当に可愛いのだろうか……? OPが割と名曲だと思っている。

 

35. バカとテストと召喚獣(2010冬)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆☆

心えぐり度…☆

バカテス。たぶんある程度バカになって観ないと面白さがわからない。設定とか考え出したら終わり。段ボール箱で授業なんか受けられるんですかねえ……? あとたまにちゃっかり義務教育以上の内容が問われてたりする。

 

36. とらドラ!(2008秋〜2009冬)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆

心えぐり度…☆☆☆☆

綺麗であり、かつ深いラブコメ。「青春」を感じられる。川嶋亜美が自販機の間に座っている姿が可愛い(?)。

 

37. さくら荘のペットな彼女(2012秋〜2013冬)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆☆

心えぐり度…☆☆☆☆

日常系で、ながら観にぴったり……と思っていたら意外と重い内容。変人だらけだけど青春。夢を追って頑張る姿と、それが叶わず挫折する姿、叶わぬ恋愛に心が痛めつけられる。裸が出てくる(?)ためかPG-12指定らしい。

 

38. とある科学の超電磁砲S(2013春〜夏)

頭空っぽにして見られる度…☆☆

心えぐり度…☆☆

ジャッジメントですの! 「最弱」と書いて「かみじょうとうま」と読む回があった。3期はまだ観ていない。

 

39. とある魔術の禁書目録II(2010秋〜2011冬)

頭空っぽにして見られる度…☆

心えぐり度…☆☆

とあるシリーズ、登場人物が多すぎてながら観してるだけだと覚えられないんだよな……。一方通行&打ち止めが推せる。3期はまだ観ていない。

 

40. 可愛ければ変態でも好きになってくれますか?(2019夏)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆☆

心えぐり度…☆

特定の性癖の人間に刺さりそう。主人公が最もまともなハーレムもの(?)ってのは珍しい。もはや変態すぎて羨ましくもない。

 

41. はたらく魔王さま!(2013春)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆

心えぐり度…☆

魔王がめちゃくちゃいい奴な作品。魔王がボロアパートに住むとか、謎に生々しい作品。転生モノにありがち「転生元と転生先で音声言語が同じという不可解な事態」を解決している。カツドゥゥゥン。

 

42. ノーゲーム・ノーライフ(2014春)

頭空っぽにして見られる度…☆

心えぐり度…☆

転生モノかー……ってなったけど普通に面白い。でも世界観がたまによくわからなくなる。ドラちゃん(ステフ)が推せる。1回ED映像にノイズが入って空が消える回があるけど、あれは軽いトラウマになる。

 

43. ゆるキャン△(2018冬)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆☆

心えぐり度…☆☆

富士山見にいきたい。キャンプ飯を楽しみたい。身延まんじゅう食べたい。温泉行きたい。絶景の夜景を見たい。

 

44. のんのんびより(2013秋)/のんのんびよりのりぴーと(2015夏)/のんのんびより ばけーしょん(2018/8)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆☆

心えぐり度…☆☆☆☆

頭空っぽにして観られるけど、地味に心をえぐられる気もする。純粋な小学生時代とか、田舎での自然に囲まれた豊かな暮らしとか、大人になって「忘れてしまったもの」を思い出させてくれる。特にばけーしょん、一夏の旅行で友達ができるけど別れを惜しまざるを得ない、心にくる。ちなみに2年前に最初に視聴した時はニコ動のコメントを見ながらだったのだが、セミの「死ね死ね死ね死ね死ね」とかBGM一部の「チンポロリン」とかがそれにしか聞こえなくなってしまった。

 

45. 五等分の花嫁(2019冬)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆

心えぐり度…☆

変換で一発で出てこない作品、ナンバーフォーくらい。面白いけど、この作品のオタクがやたら多かった(?)のは結局なんでなのかよくわからん。個人的には三玖派である。

 

46. まちカドまぞく(2019秋)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆

心えぐり度…☆

これで勝ったと思うなよー。日常系に近いが、設定は普通にシュール。てか魔法少女に借金とかする魔族とか謎でしかない(褒め言葉)。あとEDの映像がもはや一世代前。

 

47. 生徒会役員共(2010夏)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆☆

心えぐり度…☆

清々しいほど下ネタをぶっ込んでくる。中学生が喜びそうな内容(偏見)。これが秀知院の彼彼女らと同じ「生徒会」なのが……。来年映画の2本目を上映するってのがウケる(?)。

 

最後にアニメ以外も申し訳程度に。

 

A. 勇者ヨシヒコと魔王の城(2011夏)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆☆

心えぐり度…☆

クソドラマ(褒め言葉)。低予算でここまで面白さが出るのがすごい。メレブですら常識人なのがおかしい。個人的には仏が推し。

 

B. ゆるキャン△[ドラマ](2020冬)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆☆

心えぐり度…☆

なんか批判もあったけど、実写化では成功した方だと思います。なでしこが完全にヤバい人だけど、まあそれは別に。「うわ何をするくぁwせdrftgyふじこlp」の再現度とか、大垣千秋のベストキャスティングとか。

 

C. ローカル路線バス乗り継ぎの旅

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆

心えぐり度…☆☆

おでかけしたくなる。めちゃくちゃおでかけしたくなる。太川蛭子コンビが名コンビすぎる。ああおでかけしたい。路線バス乗りつぎしたい。鳥取とか関門トンネルとか木曽路とか室戸岬とか行きたい。旅テロ。

 

 

以上50作品。

変な記事を失礼しました。

 

来週からはまたまともな記事に戻る。

[主張23]「科学」への所感

科学って、何を目指して存在しているのだろう。自分は何を学んでいるのだろう。

「社会科学」「社会学」を学ぶしがない学部3年生なりに、思ったこと。恥ずかしながら科学哲学については無知なので、その点はご了承を。

 

 

「科学」の意味

 

私が専攻しているのは社会学、「社会科学」や「行動科学」の1つに数えられることがある学問である。

 

そもそもこの「科学」ってのは、一体なんなのだろうか。だいたい「科学」って言葉だけだと理科みたいなものを指すけれど、それなら「社会科学」ってどういうことなのだろうか。「科学」というくくりに纏まっているのは、どういうことなのか。「科学」の存在意義は何なのだろうか。

基本的なことだが、改めて自分なりに考えてみた。

 

「科学」という言葉をデジタル大辞泉で引いてみた。

一定の目的・方法のもとに種々の事象を研究する認識活動。また、その成果としての体系的知識。研究対象または研究方法のうえで、自然科学・社会科学・人文科学などに分類される。一般に、哲学・宗教・芸術などと区別して用いられ、広義には学・学問と同じ意味に、狭義では自然科学だけをさすことがある。サイエンス。

こう書いてある。どうやら「科学」というのは「種々の事象を研究する認識活動」「体系的知識」らしい。

そして多くの解説において、哲学は「科学」に含まれない。

 

さて、ここには、決して「現状の改善に用いる」といったニュアンスは含まれない。

科学の存在目的は、明記されていない。

 

そうだ。科学ってのは、本来何かを改善するために存在するのではなく、単に現実を究明するためにあるのではないか。

自然科学は人間の外にある事象、社会科学は複数の人間により構成される事象、人文科学は人間そのものや人間の産物としての事象を、究明する。

 

どうやら"science"というのはラテン語の"scientia"が語源で、これは「知る」という意味の"scio"の派生語らしい。科学とは「知る行為」、それだけ。「知る」という人間的な営みが刺激的で、研究を進めていき現象を解明していく、それだけ。

「知るって、面白い」それこそが科学の原点だろう。

 

物理学、化学、生物学、自然地理学、天文学環境学、薬学、医学(研究)、数学、経済学、社会学政治学、心理学(研究)、人類学、民俗学言語学、宗教学、歴史学、人文地理学とか。

 

 

科学と実学

 

だからこそ、科学に「現状の改善」などといった目的を求めるのは、根本的に異なる気がする。

「そんな研究やって何の意味があるの?」など聞くのは、科学に対する態度として必ずしも適切ではないのでは。だって、科学の意味は「現実を究明する」それに限るから。

その上で成果が得られたら、「技術」や「政策」(≠科学)という形で社会に還元する。そこまでは科学の役割ではない。

それゆえ、「現状を改善したい」と思ったら「科学」を学ぶのは遠回りだろう。科学を学んで「何も問題解決に結び付けられない……」と思うのは、それは仕方ないだろうって感じだ。

 

直ちに問題を解決したかったら、「実学」(≠科学)を学ぶべきなのではないか。「技術」のための工学、「教育」のための基礎教育学・教育政策学・教職課程、「法運用」のための法学、「政策」のための政策学、「経営」のための経営学マーケティング、「医療」「ケア」のための医学(臨床)・看護学・心理学(臨床)、「宗教的実践」のための神学。

これらは実践の前の分析において「科学」を含むこともあるが、「解決策」を提示する以上は純度100%の「科学」ではないと思う。でも実学って、そういうものだと思う。

 

科学によってその問題のメカニズムを究明した上で、実学を適用して問題を解決する方が、確実ではあると思う。でも一方で実学がないと、人々は科学が解明してきたことによる恩恵を受けられない。

「科学」も「実学」も必要。どちらが上とかそういうのは無い。

経済学者も社会学者も医学者(研究者)も必要だし、政策のプロも設計のプロも医療のプロも必要。そして前者「専門家会議」と後者「政府」「実践者」において役割分担がしっかりなされてこそ、最大限の力が発揮されると思っている。経済学者が政策のことを考えすぎるのも、政府に「医学的事実こそがすべてだ!」と迫るのもナンセンスではないか。

……大学において「科学」と「実学」の両方を十分に学べないのは、まあ残念ではある。(ちなみにもし院進するとしたら私は実学を学びたい。)

 

ところで、社会学の授業においては、たびたび都市計画や建築の話が登場する。また、社会学において語られるコミュニティ論については、交通政策の面からも捉えられる。

バリバリ文系学問である社会学社会心理学と、理系に分類される都市工学・土木工学(社会基盤学)・建築学ってのは、「科学」と「実学」という軸において非常に近い存在だと思っている。「人間生活」という共通対象に対して「分析重視」か「デザイン」か、という違いのみだろう。(ここで、私が進学選択において工学部建設系3学科と文学部社会学専修・社会心理学専修で迷いまくったことも説明がつく。)

……じゃあ、なんで都市工学・土木工学・建築学って日本では理系に分類されるんだろう。構造力学とか物理の知識が必要なのはわかるが、社会科学的視点もとてつもなく重要だと思われる。これらと電気電子情報や応用化学が同じ「工学部」「理系」として括られているのも、なんか自明とは言えない気がする。

 

「人文科学・社会科学・法学・政策学・経営学・哲学など」

「自然科学・工学・医学」

という形の「文系」「理系」の対立より、

「人文科学・社会科学」

「人間相手の実学

「自然科学」

「自然科学の成果を活用する実学

という対立の方が、本質な気がした。

これに則ると、建設系工学は「生活のデザイン」という側面で政策学や経営学に近いのかも。一方、医学なんかは下3つすべてにまたがりそう。そら大変だわ。

 

 

科学とイデオロギー・倫理

 

また科学は、イデオロギー的主張のために存在することも、特定のイデオロギーに基盤を置いて存在することも、適切ではない。研究倫理を除く倫理とも、できるだけ独立である必要があると思う。

科学は本来、価値中立であるべきだろう。「現実を究明する」だけなのだから。それが「この科学的事実が存在するがゆえにこれは善いことである」「これは強化されるべきだ」となった瞬間、それは自然主義的誤謬に他ならない。「事実」と「適切不適切」「善悪」は全くの別物。

 

最近、某政党がダーウィンの進化論を持ち出して「だからこそ憲法改正が必要である」とほざいていたが、まあ不適切極まりないだろう。無学な文系大学生の私だって、この言い方が許されてはならないってわかる。進化論自体を誤解していたのは言語道断だが、たとえ正しい意味で用いていたとしても、科学的事実を価値中立でないイデオロギー的主張において用いるのは許されるべきではない。だいたい、自然科学由来のダーウィニズムとかを政治において用いることがいかに危険か。優生学につながる。「生産性」とかいう指標を持ち出して、障がい者とか同性愛者を排除することにつながる。いやまあ今の社会でそんなの許されるわけないでしょ。

社会科学や人文科学についても同様。階級対立というイデオロギーを前提としたマルクス経済学と社会主義、これらは100%適切と言えるか。国語学で「ら抜き言葉」の存在が説明されたからといって、ら抜き言葉は直ちに廃止されるべきなのか。

 

倫理については、科学に影響されて一般的倫理が変わってしまっては不適切だろう。私は倫理については無学なので確実なことは言えないが、例えば「科学はこのような成果を生んできて素晴らしいので、科学の成果は無制限に適用されるべき」となってしまうのは安直すぎる。倫理は科学およびその成果に影響されすぎず、存在する必要があると思う。

逆に、倫理を理由にして科学が制限されるのは一定程度までは必要だろうが(研究倫理とか)、制限されすぎるのも問題だろう。例えば「動物の権利」を理由に動物実験が完全に禁止されて生物学が停滞する、「被験者の権利」を理由に治験ができず薬学が停滞する、といったものは望ましくない。社会科学や人文科学も同じで、「被調査者の権利」を考えすぎると何も生まれない。

倫理を理由に「実学」が制限されるのとは訳が違う。確かに、政策や技術などの実学は倫理と向き合わないといけない。でも、事実を究明する科学の場合、「究明」において倫理に影響されすぎるのはどうなのだろうか。

 

科学的事実・成果を政治的主張に持ち込むこと自体が批判されるべきかというと、私はそうは思わない。自然科学によって解明された災害可能性、社会科学によって解明された人口減少とそのメカニズム、人文科学によって解明された日本の文化構造、これらは確かに政治的主張に還元されるに値する。

ここにおいては、科学の「使い方」と「イデオロギー性」こそが問題となるのだろう。「科学によって存在が明らかになった問題点を政治的に解決する」それだけなら、恐らく問題ない。「科学的事実がイデオロギー強化のために恣意的に用いられる」「特定のイデオロギーを前提として科学が構築される」「科学と倫理が干渉しすぎる」ことこそが問題だ。

……うーん、難しい。

 

これは、私自身が反省しなくてはならない。

私はこれまで社会科学のレポートを書いたことがある(当然)が、高校時代および大学入学初期のうちは「自分の『こうあるべきだ』『これが適切だ』という主張を述べなければならない」という、謎の強迫観念みたいなものに囚われていた。結果として、「科学」としては不適切極まりない書類たちが複数生産された。主張を入れることが許される政策学の授業は、1コマしかとっていないのに。

今考えてみると、非常に恐ろしい。別に社会科学だって、自然科学と同じで「こうだったよ」ってだけでよかったんだ。イデオロギー的主張(≠解釈)が入り込みすぎると、それは科学的ではない。

今後、このようなことは絶対に起こさないようにしたい。イデオロギー的主張じゃなくて、客観性のできるだけ担保された解釈のみに抑える。

 

ところで「倫理学」って科学なのだろうか。

私は、「その歴史や体系を究明する」という側面では科学でありつつ、「〇〇すべきだ」「〇〇がいい」というのが現れる側面においては科学ではない、と思っている。

でも、だからといって不要なわけはないだろう。人間生活の根本とも言えるものだろうから。常に考えねばならないものだから。

 

 

科学の方が、自分には面白いらしい

 

東大の前期教養において、とてつもなく印象に残った授業が1つある。それは1Aで履修した「社会システム工学基礎I」の全13回の授業のうち1つ、「渋滞学」に関する授業だ。

その授業においては最初に、認知症(神経のタンパク質)と交通渋滞(自動車)と人の流れ(人間)と在庫・流通(物)はすべて数理モデルとしての「渋滞モデル」をもとに捉えることができる、と述べられた。なお工学の授業なので、その後に交通工学における実践が語られた。

先生の言うことは確かだった。自然科学・社会科学の垣根を超えて、さまざまな現象が単一の普遍的モデルによって語られるのである。(工学の授業とはいえ、これ自体は工学ではなく物理学的モデルだろう。)

衝撃的だった。感動した。目から鱗だった。科学に対する見方が変わった。「かがくのちからってすげー」とあれほど強く思ったことは、そんなにない。

 

私は、「現場主義」という信念のもとで様々な「活躍する人」からお話を伺う授業を、履修していた。それも決して忘れることのできない授業だ。

とても面白かった。得るものは多かった。履修してよかったと心から思っている。……だが、なんかモヤモヤする部分があった。

その授業が終わってしばらくして、そのモヤモヤに気づき始めた。その正体は「断片的知識しか得ることができず、体系的知識に結びつきづらい」「現場のアクターゆえ『科学』的な説明ではない」「イデオロギーが含まれる」という部分だった。

要は「科学」ではなかった、ということである。体系化されないがゆえに、「ふーんそんなのがあるんだ興味深いね」で終わる。他の学問分野と結びつきづらい。

 

社会学の先生が語ることは、しばしば刺激的だ。

とある先生は、「脱工業化社会において福祉政策は従来のような意味を持たない」と論じた。理由は非常に納得できるものだった。無根拠に「福祉国家は良いことであり意味のあること」と自分が思ってきたのは必ずしも正しくなかった、というのが判明した。

私が「地方創生」に対して疑問を抱いている中、とある先生は「地方創生戦略は『人口減少』という真の問題に対する解決策にはなっていない」と論じ、増田寛也の『地方消滅』を批判した。理由は非常に納得できるものだった。2年前に読んだ時に半ば無批判に『地方消滅』を受け入れてしまった自分の浅学と思慮不足に、反省の念を抱いたまでだ。

現場アクターや偏った政治的主張を持つ人と異なり、「科学」における学者の意見というのは、その問題の根本から考えさせてくれる。

 

前期教養において100優上をとった2つの授業は「記号論理学I(文科生)」と「ジェンダー論」だった。

記号論理学ってすごい。人間にとって不可欠な言語活動・論理を、特定の自然言語に限らず、「記号」という形で普遍化する。

ジェンダー論ってすごい。今まで知らなかった「そこにそのような問題がある」という事実を、メカニズムから解明している。

 

思えば、高校までの国語や英語の授業において一番好きだったのは「文法」「品詞分解」であった。個人における技術としての「読解力」や、個々の独立した知識として終わりがちな「単語知識」より、体系知識としての「文法」の方がよっぽど「自分の中の世界が広がる」と思ったものである。結果として、今なお単語知識が壊滅的な中、文法はたぶん得意だ。n外もそう。

数学は、公式を覚えるだけでは物足りず、なぜその公式が成り立つのかを知らないと気が済まなかった。小手先のテクニックだけでなく、その裏の理論も知りたかったのだろう。

 

私はブログを書く際、「自身の考えや経験を体系化・一般化した記述」というのを好む。[主張6]においては「友達」の役割を類型化し、[随想7]においては自身の感情における変化を「ひねくれ」という軸にまとめた。

utok-travelandthinking.hatenablog.com

utok-travelandthinking.hatenablog.com

たぶん、一般化した理論を導くのが好きなんだろう。

 

総じて、「一般的理論の導出」「知識の体系化」「根本まで遡った上での分析」が好きなんだと思う。

だから私にとってはたぶん、法学や工学よりは「科学」の方が面白い。実際、社会科学とか国語学は面白い。

まあ、まだ学部生だしよくわからないけど(それを言い訳にするな)。

 

 

社会学とはなんぞや

 

さて、私が専攻しているのは一応「社会学」だが、この「社会学」というのは一体どのような学問なのだろうか。

 

授業をとっている限りだと、「社会学理論」と「社会調査法」の2つが大きな軸に思える。……いやまあまだ学部生だしよくわかってないけど(だからそれを言い訳にするな)。

前者は社会学史とか連字符社会学(都市社会学とか教育社会学とか)で、まあ「科学」なのだと思う。それに対して後者は方法論なので、若干「実学」の側面がありそう。一方で後者についても統計とか事例研究の適切性とかが扱われるため、「科学」の側面も含むはずだ。

 

んで、「理論」の側面について。

社会学史において過去の偉人の提唱した社会学理論が紹介されるが、その人たちはしばしば「哲学者」とも呼ばれる。さて、哲学というのは「科学」には含まれない。

例えばユルゲン・ハーバーマス。批判的社会理論で公共性の構造転換・衰退やコミュニケーションにおける妥当性要求について述べていて、それは「哲学思想」とも捉えられる。なのに社会学で取り上げられ、まさに私自身が「ハーバーマスさん理解できません」ってなってるところだ。

あとジョージ・ハーバード・ミード。プラグマティズムという哲学に依拠して、シンボリック相互作用論を述べているわけだけれど、これも社会学理論とされる。

……社会学という「科学」と、哲学という「非科学」の境界線って、どこなんだ?????

 

デュルケームの『自殺論』に影響されて社会学における実証主義に感化された(?)時には、「実証によりそれが真だと証明できるかできるかどうか」こそが境界線だと思ったものである。これは科学の定義における「反証可能性」というのに通じるのかもしれない。

でも、例えば社会学者・パーソンズの「AGIL図式」を明確に実証・反証することはできるのか。社会学者・ルーマンの「社会システム理論」を明確に実証・反証することはできるのか。社会学者・ウェーバーの「資本主義はプロテスタンティズムの倫理ゆえに発達した」を明確に実証・反証することはできるのか。そもそも「実証」を重視することは解釈主義との対立を生むが、それでいいのか。

 

……よくわからぬ。まあ、どちらも「体系的に捉える」ってのは共通している一方、社会学の方が「現実社会の分析」への応用可能性が確保されている、ということか。

 

続いて「調査法」の側面について。

社会学とジャーナリズム、どちらも現実社会を対象とした分析を行う。ジャーナリズムというのは、多く「科学」の名のもと行われるものではないだろう。

……社会学という「科学」と、ジャーナリズムという「科学とも限らないもの」の境界線って、どこなんだ???

 

ある先生は、「社会学理論の体系を踏まえた分析か、その対象だけで終わる記述か」といったことを挙げられた。ある先生は「先行研究を参照するか、参照しないか」「重要性が必要か、面白ければそれでOKか」といったことを挙げられた。またある先生は、「ジャーナリズムでも社会学の論文に匹敵するものがある」と述べられた。

あとはまあ、調査という「実学」において「科学的手法」が取られることも、社会学という「科学」では必要なのだと思う。最近だと某メディアの調査結果改竄(?)が問題になっていたが、これは絶対に科学ではない(まあ適切なジャーナリズムですらないと思うけど)。適切なサンプリングや事例研究でなければ、それは「社会学」という「科学」の名において語られるべきではない。

 

まあ、「単なる記述にとどまらぬ理論の存在」「先行研究の上での分析」「重要性を踏まえた対象選択」「科学的手法」は、社会学を学ぶ上では意識しておくべきなのだろう。

 

 

社会科学 vs. 社会改良

 

社会科学は「科学」であり「実学」ではないので、現実社会の改良を目的として行われるべきではないと思っている。

だから社会学も、「その社会を変えること」それ自身を目的とすべきではないと思っている。

 

ただ社会調査を伴う社会学の場合、人間という流動しやすい存在を対象とした調査を行うことで、調査の実施がなんらかの変化を対象にもたらすことがあるはずだ。これが自然科学との違いだろう。それにこの結果は必ずしも良い方向とは限らない。例えば地域ごとの所得格差・意識の格差があったとして、それが調査により明らかになると、それだけで人々の中に地域に対する偏見や心理的対立が生まれるかもしれない。そこに技術や政策などのための実学が入ってくる前に。

ジェンダーに関する社会学は、これが顕著かもしれない。他の分野の社会学が「社会はこんな感じだよ」でとどまるのに対して、ジェンダー論の話では「社会はこう変わった方が良い」というものがなんか存在するような気がしてしまう。そしてジェンダー論を学ぶことで、我々の中には問題意識が発生し、行動も変わってくる。これは「改良」なのだろう。この側面、なんか「科学」として考えるにあたって難しい問題のような気がする。

でも、そういう側面があるからといって、「社会学者」という称号を良いことに「〇〇すべき」「××は悪」と堂々と主張することは決して「社会学」として認められるべきでないと考える。前述の通り、科学がイデオロギーや倫理と密接に結びつくことは危険であり、これは社会学でも変わらないと思う。だからこそ、「ジェンダー社会学者」である上野千鶴子氏のフェミニズム発言を挙げて「社会学はクソ」と結論づけるのは誤りであり、「マルクス主義フェミニスト」である上野千鶴子氏の発言として「フェミニズムはクソ」「上野氏自体が問題」と結論づける方がよっぽど適切であろう。こんなんで「要らない」とか言われるのは社会学にとってとばっちりではないのか。

ただ、「〇〇は意味がない」といって政策を批判することは、社会学という科学の名において可能であろう。「〇〇は意味がある」とは言えないが、現状の分析としての「〇〇は意味がない」ならできる。だからこそ、地方創生戦略や福祉国家について語る社会学の先生の意見は、非常に鮮烈なのである。

 

また、「調査されることは根本として迷惑」とは聞くものだ。「調査公害」という言葉も聞く。不適切な調査はフィールドにおける人間関係の崩壊や、研究に対する不信の念も生んでしまうかもしれない。それこそ「この社会を変えてやるよ!」という感じでズカズカとフィールドに入っていったら、それは迷惑以外の何者でもないはずである。「社会改良」どころか「社会破壊」。

ここにおいて、調査を伴う社会学をやるなら「科学としての立ち位置」以上に「フィールドへの影響」を考えなければならないのかもしれない。

 

……誰かが「社会学は社会改良のための学問である」と言っていた気がする。

そもそも「社会問題」という〈決して価値中立でない概念〉が存在すると考えられて初めて、社会学の領域が設定されるのかもしれないし、根本として社会改良の意識が存在しないと社会学も生じないのかもしれない。(これが人類学との違いかと思う。)

このような認識と、「科学」としてのあり方との折り合いは、社会学をやるなら考える必要があるのかもしれない。

 

 

実学イデオロギー・倫理と安易に結びつかないよう意識しつつ、哲学やジャーナリズムとの違いも意識しつつ、「社会学」における「科学」的研究を学んでいきたいものだ。

[自省9]「器用貧乏」の思考

もっとうまい生き方を、したかった。

 

 

「欲張り」の頭の中

 

私は、とてつもなく欲張りだ。

 

勉強したい。社会学の勉強をしたい。社会学以外の勉強もしたい。週20コマとって、いろいろな分野を学びたい。本を読んで知識を深めたい。資格や検定試験の勉強をしたい。数学の勉強もしたい。プログラミングの勉強もしたい。あわよくば、世界の全てを理解したい。

自分の頭の中を整理したい。ツイートしたい。Twitterのタイムラインを見て考えたい。ブログに文章を起こしたい。友人と議論したい。

趣味をエンジョイしたい。いろいろなところを旅して自分の知っている世界を広げたい。地図を眺めて楽しみたい。DIYをしたい。アニメとマンガをひたすら見ていたい。中学生の時に中断していた架空鉄道の完成もしたい……。

お金が欲しい。お金が欲しい。お金が欲しい。お金を自分のために使いたい。

人望が欲しい。人の信頼を得たい。友達が欲しい。恋人が欲しい。

自己肯定感が欲しい。満足感が欲しい。何時も「無駄な時間を過ごした」と思いたくない。虚無感を味わいたくない。

 

だが、残念なことに時間は有限だ。若さはすぐに失われていく。

それに私はロングスリーパーで、睡眠時間が少ないと気力が出ない。できれば省エネしたい。無駄を省きたい。

どうすればいいのだろうか。

 

ここで、「確実に生産性のあるもの」「今しかできないもの」「少ないエネルギーでできるもの」だけをやるようになる。すなわち、効果が自分に「確実に」返ってくるもの、「東大にいることで」できること、「ながらで」できるもの。

 

例えやりたいことであっても、その3つに当てはまなければ後回し。

だからいつの日も、欲望が尽きることはないし、本気で「暇」と思うこともない。

 

それは全部、自分のため。自己満足のため。自分で自分を喜ばすため。

 

 

なぜ〇〇をやらないのか

 

私は、サブカルチャーに対する抵抗など全くないのに、デジタルゲームをほとんどやらないことで知られる。アナログのゲームやパズルについても、人と一緒にやる時を除いてはほとんどやらない。

なぜか。それは「時間が無限に溶けるくせに、何らかの現実的な成果が出る保証がない」からだ。決してゲームの意義を否定するわけではない。だが、他にやりたいことがある場合、そんなゲームやパズルは置き去りにする。

 

私は、食べるのが大好きなくせに、料理が好きでない。

なぜか。それは「かかる労力の割に、得られる効果が一時的だ」からだ。決して料理が不要と主張するわけではない。だが、他にやりたいことがある場合、料理はできあいのもので十分だ。

 

私は、アニメは結構見るくせに、ドラマや映画はほとんど見ない。スポーツも見ない。アイドルにハマりもしない。そういう知識が常人と比べてはるかに劣っていて、いわば社不適なのだが、あまり直そうとはしない。

なぜか。それは「少し手を出したところで常人の知識に追いつけるわけではないし、万が一ハマっちゃうと時間が奪われる」からだ。芸能人を見ることは眼福だし、スポーツも見ていて興奮する。だが、他にやりたいことがある場合、それの意味は小さい。

 

私は、語学は嫌いではないのに、大学で勉強した語学を真剣に復習しない。

なぜか。それは「後でやってもいいと考える」からだ。実際には復習は早いほうがいい。だが、他にやりたいことがある場合、それどころではない。

 

私は、社会問題に対する関心はあるのに、今社会貢献をするやる気はない。

なぜか。それは「大学を出て社会経験を積んだ後の方が効果があると考える」「自分に直接利益が来づらい」からだ。貴重な大学4年間、もっと別のことに使おうと思う。そして私は「自分の利益になる」ことしかやりたくなく、基本的に「相手からの信頼を得る」「自分の充足感を満たす」以外の目的で人助けするのはやる気が出ない。

 

結局、「世界のすべてを知る」ことは叶わない。

 

 

「器用」ゆえになんとか生きてきた

 

この「欲張りと効率主義」は、大学に入ってから特に激しくなった。というのも、自分に残された自由な時間が残り少ない、と実感してしまったからだ。

高校時代まではまだ、ゆとりを持って生きていた。だが、大学に入った2年前からは、そうはいかなかった。

 

結果、私は「キャパお化け」になった。単位が必要ない時でも10コマ以上の授業をとり、最大6つのサークル・団体に所属して活動に参加し、10種類を超えるアルバイトをして年90万以上を稼ぎ、旅もして全国各地を巡ることも怠らず、資格・検定試験の勉強も行い、大学のプログラムにも参加しようとする。

 

そして「マルチタスクの鬼」になった。授業中に作業するのは「授業を聞くつもりがないから」ではなく「時間がもったいないから」。労働をしながら、余った時間で課題のための読書。リモートの現在は、パソコンには常に2画面か3画面が表示されて、某活セミナーやアニメを流す傍らで課題や作業を進める。

 

実は小学校時代から鍛えられていた「キャパ増強」「マルチタスク」の能力を生かして、こんな中でもなんとか生きてきた。大学の成績は良い方。資格・検定試験も基本的に合格。

 

幸い私は要領がとても良く、「器用」だった。

 

 

「貧乏」ゆえに虚しくなる

 

だが、これで失ったもの、得られなかったものが3つある。それは「ひとつのことを突き詰める根気」「深く考える思考」「親密な人間関係」だ。

 

「欲張り」の裏には「飽きっぽい」がある。私は結構飽きっぽい。というか、常に刺激がないとやっていけない。だからこそ、ひとつの分野だけでは物足りなく、あらゆる分野に手を出そうとする。

だから、ひとつのことを突き詰める根気を、失ってしまった。結果として、「これなら誰にも負けない!」というのが存在しなくなった。まあ「路線図」「日本の市」なら結構な自信があるが、これは幼稚園時代からの長い積み重ねの成果だ。大学に入ってから新たに「これなら誰にも負けない!」となったものは存在しない。

 

悩みまくる時間は、時に無駄になる。他のことをやるために、できるだけ少ない時間でことを済ませようとする。

だから、深く考える思考を、失ってしまった。「なんとかなるだろう」で済ませて、後で「もう少し考えておけば……」「もう少し余裕があれば……」と思ったことは数多く。自分の浅はかな思考による、公開すべき言動の数々。後悔しても、何も生まれない。

 

そして、親密な人間関係を、得られなくなった。

 

残念なことに私は中途半端で、「貧乏」だった。

 

 

人間関係の器用貧乏

 

人は、完全な利己主義で動いているわけではない。

ゲーム理論的には、繰り返し囚人のジレンマ・ゲームにおいては「裏切られるまでは協力」がナッシュ均衡だ。心理学的には、オキシトシンの分泌が利他行動に関与すると言われる。

人が他人に協力するのは、合理的かつ生物上の宿命のようなものだ。他人への最低限の協力は、するのが当然であり、せざるを得ない。

 

だが、それ以上の度を越した協力や配慮は時々、自分の時間を無駄にするだけで終わる。相手が自分に魅力を感じなければ、相手が自分を必要と感じなければ、どう頑張ってもそこに「親密な人間関係」は生まれない。

大学入学に伴いリセットされた人間関係において、誰かに自分と親しくなってもらうには、周りの人間との「親しいもの争い」の競争に勝たねばならない。それは、一歩出遅れたらもうおしまいだ。

概して人間関係は、時間と労力がかかるものだ。リスクが大きい。病む原因にすらなる。

 

結果として、私は大学で「必要最低限くらいの人間関係」しか築くことができなかった。

「知り合い」ならやたらといるが、一緒に遊びに行くほど仲の良い「友達」はあまりいない。むしろ「知り合い」との中途半端な交際に時間をとられ、特定の人と「友達」になるために十分な交際ができない。

そんなだから、「恋人」なんてできるはずがない。現実離れした高望みだ。そんなものを望んでいる自分に反吐が出る。

 

驚きの事実として、私は大学の知り合いと「サークルなどの団体における行事以外」て遊びに行ったことが、2年間でなんと3回しかない。カラオケも1回のみ。食事に誘った/誘われたことだってたかが10回くらい。同じ期間に、高校同期とは述べ15日以上旅行をし、10回ほどカラオケに行き、10回以上食事に誘われているというのに。

「大学でとても仲の良い一生モノの友達を作りまくる」という、入学当初に抱いていた希望は、もはや幻想だ。

 

人間関係については、一部の人を除いてほぼ完全に失敗だ。大学生活一からやり直したい。

特定の人ともっと親しくなっている世界線に、生きていたかった。

 

 

人は私を誤解する

 

私のことを「何でもできる」「有能」「人間性が備わっていてまとも」と思っている人も、なぜかいることだろう。

 

だが、それは間違いだ。

実際は「何も中途半端にしかできない」「低脳で無能」「自分の利益ばかり考えているクズ」だ。

 

いろいろなことに手を出しすぎて、専門的な知識など(日本地理の一部以外においては)かけらもない。

だからと言って、ゲームや芸能の知識は完全に抜け落ちているし、何でも知っているわけではない。

 

正しく考えて行動しない。とりあえず急ぎ、雑に処理する。結果として、結構な失敗を引き起こす。

だが私は都合良いことに「何事もなかったかのように演じること」「呼吸するように嘘をつくこと」が得意で、隠蔽する。

 

自分さえ良ければ何でも良い。他人への協力は基本的に、自己満足を得るためか、他人から嫌われないため。真に他者のことを想っての無性の行動なんてしない。

外見を整え、八方美人を演じているだけ。内面は自分の生存ばかり考える、ただのクズ人間でしかない。

 

結局、私がこうやって良い側に誤解されているのは、私の全てを知るほど親しい人が大学にいないから、そういうことだろう。

誤解されるのも、器用貧乏により人間関係が不十分なため。

 

 

危機感

 

私は、若さゆえに体力があること、これまで培ってきたマルチタスク耐性があること、他人に能力を誤解されていることにより、器用貧乏としてなんとか生き延びてきた。

 

しかし、これからどうなるかわからない。

いつガタが来て、私が体力も能力もない単なる無能に成り下がり、周りの人に「真のダメ人間である自分」を知られるかわからない。

今はうまく行ってたって、将来もうまく行く保証はない。

 

そろそろ、欲張りおよび効率主義と距離を置いて、器用貧乏を脱しなければならない。

将来「大学では結局中途半端なことばかりだった」「人間関係は失敗した」なんて思いたくない。

 

「欲張り」は悪徳ではない。むしろ自分の誇りだ。

でも、それがあまりにも強すぎると、単なる役立たずの器用貧乏であるままだ。

 

私はそろそろ、変わらねばならないようだ。

[主張22]「意識低い系学生」の思考

学生なら、ひたすら学ぶだけでいいだろうが。

 

 

「意識高い系」とは対極

 

私は「意識低い系」を自称する学生だ。

 

いわゆる「意識高い系」とは対照的だ。

高い理念を持ったり、「社会を良くする」とかそういう系の学生団体に所属したり、学生のうちから事業を立ち上げたり、団体のトップに立って牽引したり、長期インターンで活躍したり、むやみやたらと外資コンサルを目指したり、そんなことは一切しない。

自分の生まれた以外の特定の地域に密接に関わり、「この街を活性化させるんだ!」なんて思ったりしない。「学生として」「地方創生」のためにチャレンジしようなんて思わない。日本各地を旅行して、たまにそこで働いてみて、人と知り合って、それだけ。

海外留学はしない。海外でなんらかの慈善事業もしない。「海外で困っている人を助けたい」とは思っていようが、学生のうちは行動なんてしない。

総じて「学生という立場を生かして、人の役に立ちたい」なんて思わない。学生の分際で「多くの人の役に立つ」なんて思っていない。学生のうちは自分さえ良ければいい。自分のことしか眼中にない。極めて自己中心的。

 

こんなだから、某活においても不利である。

 

だが、何が悪いんだ。「意識低い系学生」で何が悪いんだ。

 

なお、この文章は決して個人の行動を否定するものではない。あくまでも「意識低い系」の戯言だと思って、読んでいただきたい。

 

 

学生、学んだり楽しんだりしてばっかで何が悪い

 

「学ぶ生き物」と書いて「学生」。学問を修め、考える者のことだろう。

学生の本分は、勉強や研究だ。講義を受けて知見を獲得し、演習を通して議論し考えを深め、実習や実験により真実を知り、色々な本を読んでさらなる知的刺激を得、論文を書いてまとめる。

学友との交流も、学生ならでは。サークル活動などを通して楽しむのだって、学生の特権だ。長期間の旅行だってそう。これも、ある意味「世界を知る」という意味で「学ぶ」取り組みだ。

交流して、いろいろな知識を「インプット」して、考える。これでこそ、学生ではないだろうか。

 

ところで世の中は、某活に臨む学生に「学生時代に力を入れたこと」を求める。

運動会の所属経験だったり、学生団体のリーダー経験だったり、ビジネスコンテストの入賞記録だったり、ボランティア経験だったり、慈善活動の経験だったり、バイトやインターンの実績だったり。

勉強や研究以外の、「なんらかのすごい活動」すなわち「アウトプット」を求めてくる。それも、専攻や研究のテーマすなわち「インプット」した内容と、全く関連のないものを。

 

……は? なんでだよ。ふざけるなよ。

「学生」なのだから、「力を入れたこと」として求められるのは普通だったら勉強や研究とか、「インプット」もしくは「考えること」だろうが。

んで、勉強しかしてないと「勉強しかできない堅物」とか「社会不適合者」とかレッテルを貼られるんだろ。

「学生」なんだよ。勉強ばかりして、学友との交流ばかりして、考えてばかりで、何が悪い。

 

しかしどうやら、世間は「インプットばかりしている学生」を認めてくれないようだ。

全く世知辛い。頭がおかしい。

 

……だが、それでも私は「意識高い系」になろうとは絶対に思わない。

たとえ某活で不利だろうが、私にとってベストな学生時代の生き方は「インプット」なんだよ。自分が好きでもない無駄な「アウトプット」なんて、したかねえんだよ。

 

大学にいて素晴らしい講義を聞くことができ、素晴らしい図書や論文へのアクセスが確保され、素晴らしい学友がいる。課外活動の面でも、補助金の出る学習プログラムはあるし、サークルを通していろいろな世界を知ることができるし、なんだって「自分の楽しさのためにやる」サークルの活動は楽しい。大学は就職するまでのモラトリアムで、サークル活動や友人との遊び・飲み会なんかも学生の特権だ。優秀な友人との交流は、知性を豊かにし世界を広げる。

こんな最高の「インプット」の機会を、生かさないでたまるかよ。いくら生かしても、生かしきれないよ。

 

こんな貴重な時期を、「インプット」した内容と直接に関わらない「アウトプット」に活かしてばかりでいられるかよ。

4年しかない学部生活を、よくわからんビジネスとか、某活のために渋々やる「意識高い系の事業」とか、「社会貢献」とかに費やしたくなんかねえよ。某活のために授業を切るなんて論外。ふざけるな。

そんなだったら、もっと有意義な「インプット」をさせてくれよ。目先の某活のために、学生生活を無碍にしたくなんか絶対ねえよ。

 

「学生」という身分でできることを享受して、卒業の時にゃ十分「インプットした」「学友と交流した」「考えた」って実感を持って、自信を持って大学を出ていきたいんだよ。

 

 

学生の分際で、社会問題の解決なんて

 

私の関心は、都市社会学・地域社会学だ。

 

これに関連して、「地方創生」というワードを見る。「地方創生インターン」という単語列を見かける。「学生の視点をもって地方創生!」というフレーズを見る。「都市で生まれたけど、学生のうちに地方創生に関わりたい」という言葉も聞く。

 

……なんだそりゃ。

 

実務経験なし、その地域に長く滞在した経験なし、その地域の人と深く関わった経験なしの「学生」が、そんな壮大な「地方創生」なんでできるのか?

そもそも、外部のよくわからん学生が勝手に考える「創生」が、地域の人の求めることとたやすく合致なんてするか?

「地方創生」がそんな簡単だったら、こんな困ってなんかないだろ。

 

もちろん、それができるすごい学生だっている。尊敬する大学の先輩なんか、その例だ。

だが、大抵の学生はそんな有能じゃないだろう。有能でもない学生が「社会問題を解決する!」って言ったって、もはや戯言に過ぎないだろう。

 

学生にできるのは、せいぜい「実情を知る」「問題解決が容易でないことを知る」くらいだろう。逆にそれ以上のことを、(とりわけ「社会問題」「地域活性化」「地方行政」「地域計画」を専門にしているわけでもない)一介の学部生に求めたところで、ナンセンスだ。

地方創生には「若者・よそ者・馬鹿者」の視点が大事だ、という言葉がある。だがこれは「視点が大事」というだけで、「若者・よそ者・馬鹿者」が結論としての解決策まで導けるわけがない。疑問点を提示して、それだけで引っ込むのみ。

 

とある社会人の方にお話をお伺いした時、「社会問題は『自分が困っている』という意識なしに解決できない」と仰った。これに対して学友が「原体験ハラスメントでは」と言った。

どちらの言い分もよくわかる。だが、私も社会問題を「困っている」という当事者意識なしに解決はできない、と感じている。社会問題を解決するには、その「当事者意識」を養う必要がある。

そのためには、実際の当事者を深く理解し、深く関わる必要があるだろう。でもそんなの、実地経験のない学生にゃ無理ではないか。

それでもどうしても社会問題を解決したいのなら、ひたすら「インプット」するのみ。それに社会問題の解決は、学生のうちじゃなくてもできるし、むしろ何らかの地位に立ってからの方がしやすいと思う。

 

無理に「学生の視点を生かして社会問題を解決する」なんて意気込んでも、それは(専門にしている学生でない限り)徒労に終わるだろう。「学生が社会問題を解決できる」というのは、幻想だ。

社会問題を語るだけなら、学生だってできる。むしろそれは学生の方がいいかもしれない。だが、それに対して解決策を提示するのは学生でなく、教授レベルもしくは行政アクターもしくは地域住民の側だ。

 

実は私、「地方創生インターン」系のイベントに興味ないことはない。しかしそこに「自分が活躍する」という思惑はかけらもなくて、ただ「地域の実情を知りたい」「地域の人と交流したい」「学びを得たい」それだけだ。旅行だってそう。

都市社会学・地域社会学の観点をインプットした上で、地域の実情もインプットし、ひたすら分析し考えるのみ。私はそれだけでいい。というか、学部レベルの自分にはどうせそれしかできない。アウトプットはできない。

 

無駄に意気込んだって、何にもならない。それはエゴイズムだ。表面的だ。

それを自信満々に言っている人は、どうせ薄っぺらい。

どうせなら、就職してからやればいい。

 

 

海外志向、なぜなのか

 

意識高い系の日本人は、なぜか海外をひたすら志向する気がする。

海外留学をする。外資コンサルや外資金融を志向する。就職後、海外進出を目論む。

 

意識低い系の私には、それがなぜなのかよくわからない。

 

私は、日本が好きだ。そして将来(ここ大事)、日本の役に立ちたいと思っている。かけらも海外で働きたくなんてない。日本にいたい。

それは、海外が嫌いだからではない。海外が怖いからではない。むしろ海外には行ってみたい。だが行くだけでいい。働くなら、日本のため、日本で。

それで何が悪い。海外志向であってこそ「すごい」と思われる風潮があるとしたら、よくわからない。

 

私は高校時代からずっと、留学に行くつもりがかけらもなかった。というのも、必要となる莫大な費用と時間に見合った効用を得られる確信が、持てなかったからだ。

海外への留学は、「日本では学べないようなレベルの学問」や「海外学生との関わり」のために行うものだろう。それ自体は素晴らしい。だが、それにしては費用と時間がかかりすぎる。

それなら、日本でコスパ良く別のことをインプットしたっていいのでは。それだって評価に値するのでは。「留学経験」がすぐに社会的評価に関わるとしたら、よくわからない。

 

海外で困っている人がいる、というのはわかる。だが、それを学生の分際で解決しようと(何らかのアプローチをしようと)思わないのは、前の章で述べた論理と同様だ。その地域の実情を知らずして、安易に「解決する!」なんて意気込むのはよくわからない。

 

海外に行くなら、「そこの実態を知って考えたい」「そこの人と触れ合うのが楽しい」「今の学友と一緒に行くのが楽しい」それだけで十分立派だろう。それ以上を無闇に求める必要は、それほどないと思う。

そして、コストの高い海外経験は、それだけで社会的評価の要因たるべきではない。

 

 

学生のうちくらい、自己中でいさせて

 

ノブレス・オブリージュ」強者の弱者に対する社会的使命。この理論に則ると、「学び」という資源を享受している学生は、それがしたくてもできない立場の人のために、何らかの「アウトプット」をする使命を持っているということになる。「誰かの役に立つ」というものだ。

しかしその「アウトプット」の使命は、別に学生のうちに果たす必要はないだろう。むしろ社会人になった後に十分に「アウトプット」できるように、今は恵まれた資源を生かして「インプット」することこそが、最適なのではないか。

「やらない善よりやる偽善」とは言うが、偽善は偽善だ。ちゃんと善をやりたいなら、学生という中途半端な立場で「意識高い系」になるのではなく、今はひたすら「インプット」に集中し、しかるべき時になって初めて「アウトプット」するのでいいのではないか。

 

だから、学生のうちだけは、自己中心的でいさせてほしい。

自分がより学問的教養を備えた人間になるために、社会的貢献など「アウトプット」ではなく「インプット」ばかりして、ただ自分だけが得をしていく状況を、許してほしい。今だけは、学ぶばかりであることを許容してほしい。無駄な「アウトプット」を求めないでほしい。

しかるべき時になってから、そこで得たことと実務経験をもとに「アウトプット」した方が、よっぽどいいと思うから。

 

あと、「アウトプット」できる人材の育成は、企業の使命だと思うぜ。学校ってのは、本来就職予備校じゃないし、社会で役立つ知識ばかり教える場じゃないんだから。

 

一介の意識低い系学生の意見をまとめると、こうだ。

「アウトプットは後でやるから、今はインプットしてばかりでもいいだろ。意識高い系ってのはそのインプットを怠ってアウトプットばかりする、中途半端な人間なんだよ。あと、アウトプット能力はお前らが我々に与えるんだよ。」

 

私は、この面で「意識低い系」であることは、誇りにすら思う。

「意識高い系」には、絶対にならない。