どこかのT大生の思考

不定期です。旅行と考えることが好きなT大生が、たまーに駄文を公開します。自身の生に関する思いを述べる「自省」、旅の思い出を記す「旅記」、社会に対して言いたいことを唱える「主張」、人間関係の悩みを書き散らす「拗人」、その他自分の姿や趣味などを自由に語る「特筆」の5つ。

[自省1]2Sとはなんだったのか、前期教養とはなんだったのか

夏休み最初の本日の記事では、これまでの2Sの生活をまず振り返ってみたい。

 

 

「人生の夏休み」とも言われる大学生活、その中でも特に楽だと言われる「2Sセメスター」。それが静かに幕を閉じた。前期教養の授業がほぼ終了したも同然である。

そして今度は、「人生の夏休み」で最も自由とも言われる「学部2年の夏休み」が始まる。

私の心は今、来たる夏休みへの期待感と、前期教養がほとんど終わってしまったことでの脱力感・不安の念で満たされている。

 


2Sセメスターとはなんだったのか。文科の自分からしたら、必修の授業が無くなり一気に自由になる時期。周りでも、暇を使って海外旅行に行く事例などは複数観測している。授業をほとんど履修していない知人もいる。しかし同時に、法学部の持ち出し科目が開講され進路選択を身近に感じる時期でもあった。本当に、学生によって過ごし方がさまざまな時期だった。

 


そんな時期に、私は脱法(文一から法学部以外に進学すること)を考えているにもかかわらず法学部科目を3コマ履修し、教養学部の授業も7コマ履修し、さらに2コマ潜って1コマ自主ゼミもとった。実質13コマである。加えて週2日6時間ずつのアルバイトがあり、サークルも1個増やして実質6つ(ゼミ・委員会含む)に顔を出すようになった。いろいろと手を出していた。「暇」とは程遠い生活であった。一部の友人のような、資格の勉強に集中する生活とも程遠かった。「折角の2Sなのにバカじゃないの?」と言われたこともある。

この過ごし方は、果たして合っていたのだろうか。

 


自分は、多くのことに手を出したがる性格の持ち主である。その影響で法学・外国語・経済学・言語学社会学・心理学・社会基盤学(?)と多様な分野の授業を(潜り含め)受けたし、実際面白かった。複数の団体の活動にも行き、1週間で人格(?)が激しく移り変わることもあった。そして活動を充実させるための資金を得ようと、決して少なくない時間バイトをした。

スケジュールが埋まっていき「無駄に過ごす時間」が無くなっていく様子は、見ていて面白かった。いろいろと手を出し、自らのキャパシティと相談しながら限界に挑んでいくのは、自身の可能性を十分生かせている気がして楽しかった。それほど「暇」に羨ましさは感じなかった。

てかそもそも、「夏休み」だからって休まなくてもいいんだからね。休暇の過ごし方は人それぞれ。自分の場合は授業や仕事がなくなると虚無に陥って時間を無駄にすると考えて、2Sのキツキツのスケジュールを組んだ。てか高校時代の夏休みも全然休んでなかった(文化祭の門を作っていた)し、僕はそういう「社畜体質」なんだもの……。別に忙しくたっていいんだよ、そっちを望む人もいるんだよ。

この過ごし方自体には、あまり後悔はしていない。「2Sなのに」ではなく「2Sだからこそ」である。いい「夏休み」を過ごせたと思う。

 


しかしながら、自分が授業などに溶かした時間に見合った成果を得ることができたかというと、そうではないように思える。

よく聞く言説として「大学生は勉強・バイト・サークル・恋愛のうち2つしかまともにできない」というものがある。1Aセメスターでの自分は全能感に溢れており、勉強・バイト・サークルの全てをこなしているという自信があった。2Sでもそうあろうとした。…え、恋愛はどうしたって?んなもん知らねえよ。

実際はどうだっただろうか。…これがまともにできなかったのである。授業はコマ数が減ったにもかかわらず、復習を怠って相変わらず本質的な理解には至らない。周りが司法試験や公認会計士のための勉強をし始める中、自分は将来のことなど考えずにぼーっと授業を受けるばかり。暇になったはずなのに、バイトの給料は減少。サークル(や委員会)でも仕事をまともにできた気がしない。…え、恋愛?できずに拗らせを強めるばかりだよまったく。

こんなもの、正直望んでいなかった。いくら楽しくたって、身に付かなければダメだろう。そもそも大学生とは勉強する存在である。高い学費も払ってもらっている。せめて学問ぐらいは、まともにやってしっかりと身につけなければならない。でもそれができたかと言われると、微妙である。手を出しすぎた結果、中途半端ばかりである。

「大学生は勉強・バイト・サークル・恋愛のうち2つしかまともにできない」という言葉を深く実感した。そして3兎を中途半端に追うと、1兎すらしっかりと得られないものである。しかし自分はいろいろと手を出したい人間で、どうしても多くのものを追おうとする。そのバランスに困らされた2Sであった。

 


2Sセメスターは、「自らの過ごし方を自らで決めねばならない状況において、自分はどう動こうとするか、そしてどう動くべきか」を知ることのできる時期だったと思う。この過ごし方は、実は将来とも結びつくのではないか。そしてこれは、人によって異なるものである。

自分の場合は授業を多めに入れ多様な学びを得ようとし、万が一に備えて法学部科目も履修した一方、サークルも増やして課外の活動も増やそうとした。すなわち、私は未来に向けた複数の選択肢を確保しつつ、本業・本業以外問わず多方面に手を出そうとするのである。実際これは楽しかった。

しかし一方で、何もしっかりと身に付かないという状況が発生し、中途半端ではダメだと実感した。すなわち私は将来においても、いろいろと手を出した結果何も身に付かず虚無に陥る可能性があり、ある程度の選択を断行すべきということである。

周りでは、資格の勉強を始める人やサークル・委員会の活動だけに集中する人もいた。多くの暇を作ることで悠々自適に過ごしている人もいた。こういう過ごし方もあるのか、と認識した。自分の性には合わないが、このような過ごし方が最適な人もいるのだろう。立派な選択肢の1つである。

いろいろと手を出したがる自分の性格は変えようと思わないし、むしろ誇りにすら思える。しかしそれを貫いてうまく行くとは限らない。集中すべきところは集中して、切り捨てるべきところは切り捨てる「選択」が必要である。そして何か1つだけに集中する選択肢も、暇を大切にする選択肢も忘れてはならない。それを学んだ4ヶ月間であった。

 


そしてその「選択」は、前期教養の終焉とともに現れる「進学選択」という形で目前に迫っている。2Sセメスターを通してずっと悩んできたものである。

 


そもそも、この「前期教養」とはなんだったのだろうか。

東大に特有とも言える時期。良く言えば「さまざまな分野に触れることで、将来に役立てるための広い視野・見識を手に入れる」、悪く言えば「やりたくない必修に縛られるとともに、中途半端で専門的知識が何も身に付かない状態になりうる」時期だと私は思う。そしてその状態で、来たる進路選択を迎えるのである。

私が東大を目指した理由の1つが、この前期教養と進学選択制度の存在だった。高校時代の自分は将来何を専攻として学びたいか分からず、大学においても選択肢を広めたままでいようと思ったのである。前期教養でいろいろな授業をとってみることで、そこで「本当にやりたいもの」を見つけようとした。いろいろと手を出し、その上で選択肢を絞っていこうとした。

実際そう上手くはいかなかった。元来より私は興味の幅が広く、授業をとったり学部ガイダンスに行ったりすることで「あ、これも面白そう!」というのがかえって増えてしまったのである。もともと法学を考えていたのに、経済学、社会学、心理学、言語学歴史学、地理学……。たしかに前期教養のつまみ食いスタイルはとても楽しかったし、興味や見識の幅が広がるのは自分のためになって非常に望ましいことだ。しかし同時に、将来を決めづらくなっていった。いろいろと手を出した結果、選択肢は絞られるどころか増えていった。

一方、所詮「つまみ食い」なので深い学びは得られた気がしない。法学は結局よくわからない。進学先の有力な候補である社会学に関しても、理解するには前期の授業が足りなすぎる。他を学ぼうとして数学と統計を怠った結果、経済学などでは基礎に立つことさえ怪しい。どこも進学したところで大変だろうと考え、「自分にはどこも向いていないのではないか」と思ってしまう。「選択」を怠ってつまみ食いスタイルを続けた結果、有力な選択肢はむしろゼロになった。

 


今、私は将来に対する不安に苛まれている。どこに進学すればいいか、進学すべきかわからない。進学するに足るだけの見識がある自信がない。そして、選択によって将来の幅を狭めるのが怖い。本当に社会学でいいのだろうか、本当にほかを諦めていいのだろうか。

しかし、選択の時はいつかやって来る。選択をしないと、2Sの自分のように何も身に付かない状態になり得る。東大を志望したのも、「選択の幅を広めるため」と言っておきながら実際は「選択が怖くて後回しにしたかったから」であった。今はそんなことは言っていられない。

というか、私は前期教養の期間で「なんだかんだでどこでも馴染める」というのを学んだはずだ。一応、履修した全ての授業を撤退せず勉強できたし、サークルとかも1つしか辞めなかった。いろいろと手を出す人間の特性だな。実は、選択をそんなに憂慮する必要はないのかもしれない。まあどうにかなるでしょ。

 


選択は、ある意味前進である。後戻りできないところに自身を置き、将来のルートをある程度強制的に設定して前進を促す。選択を怖がらず、決断しなければならない。そう自分に言い聞かせ、進学選択に挑む。

2Sは、そして前期教養はたしかに有意義であった。浅いとはいえ見識をつけるのに役立ち、自身の限界を思い知り、「選択」の重要性を感じた。このモラトリアムとも言える期間を無駄にせず、この先の2Aセメスターや後期課程、そしてその準備のための夏休みを「選択」を意識して過ごしていきたい。