どこかの元T大生の思考

不定期です。旅行と考えることが好きな元T大生が、たまーに駄文を公開します。旅の記録を語る[旅]、何かに対する見解や主張をぶつける[論]、自分の生き方について思いを巡らせる[憂]、趣味などについて書き散らす[雑]の4つのカテゴリーで。

[論5]嫉妬の面倒さ

あいつの活動資金はどこから湧いてんだよ、あいつ都内住みのくせに何やってるんだよ、ってな類のものについて。

 

 

 

嫉妬。それは七つの大罪の1つに含まれる、誰でもやってしまいがちなこと。

自分と違う状況にいる/違う状況で育ってきた他人に対して、羨望を超えた感情を抱いてしまう。そして、それが明確な形であるにしろないにしろ、その人への攻撃にもつながってしまいうる。

ちょっと違うかもしれないが、「あいつ親の金でこんなことしやがって、自分なんか親からそんな資金もらえないんだぞ」「あいつ大学が実家から近いくせに何やってるんだよ、長距離通学or一人暮らしの身にもなって考えてくれよ」「あいつ勉強も運動もできやがって、天はなんで自分にない二物をあいつに与えちまったんだよ」「あいつなんであんなに先輩に気に入られてるんだよ、なんか疎まれるこっちの気持ちも考えろ」などというのも、広義でいう嫉妬の1つだろう。

 


なぜ、羨望が嫉妬になってしまうのか。そこには、「努力の有無」が関わるのだと思う。

例えば「あいつの資金はどこから湧いてくるんだよ」という思いについては、それがアルバイトなどという彼/彼女の努力の賜物であれば「なるほど、あいつもそれだけ頑張ってるのか」と思って嫉妬することはないだろう。一方でそれが実家の金などだった場合、それは彼/彼女の努力とは全く無関係だし、自分が努力を尽くしても得られるものではない。そういう時、自身と相手の努力によらない状況の差を感じて、「なんであいつはあんないい状況にいるんだ、俺には絶対無理なのに」と嫉妬してしまうのである。

逆に完全なる努力のもとで得たものであれば、それほど嫉妬の感情を抱くこともないだろう。まあ、「完全なる努力のもとで得たもの」なんてあるのか、ってのは別の問題だが。

 


私自身、東大に入ってから他者に対する嫉妬の感情を抱くことが増えたような気がする。

とりわけ多かったのが、「あの資金はどこから湧いているのか」であった。私の周りには、アルバイトをしていないにもかかわらず遊びや旅行、いいご飯や金のかかるサークル活動などに行っている人が多くいた。そういうのを見るたびに、アルバイトをし苦労して資金を確保し、総資産が1万を割ることもある自分と比べてしまい「なんであいつは……」と思ってしまうのである。これは特に、自分が激しい金欠に悩んでいるときに起きやすかった。

また、「23区に住んでる実家住み、もっと時間を有意義に使えよ」などと思ったこともある。私は埼玉県の片田舎から片道1時間45分ほどかけて東京に通っている身であり、そのせいで終電が早めなど行動が制限されている割に、都内でアクティブに活動しようとしていた。そこで都内の実家に住んでいる人を見ると「なんでこいつはこんな恵まれた環境なのに、こんな無駄に時間を過ごしてんだよ、もはや家変わってくれよ」などと思ってしまうこともあった。

 

 

しかし今考えてみると、あんなので嫉妬するとは非常に馬鹿馬鹿しいものだった。あの時の私の言動は惨めであった。

 

 

だいたい、嫉妬したところで何が生まれるのだろうか。自身が彼/彼女に対して「劣っている」というのを感じ、その劣等感を攻撃に変えるのみだ。嫉妬される側は大抵は「そういう風に見られていたのか……」と若干傷つくだろうし、嫉妬する側だってモヤモヤしたままだ。嫉妬が攻撃に繋がり、対象の本人が言動を控えてしまった例も最近目にする。

さっきも言ったが、嫉妬の原因は「軽い努力だけじゃどうにもできない状況の差異」にあるのだと思う。それなら、嫉妬を自身の向上につなげ努力して彼/彼女と同じ状況にまでたどり着くというのも、もはや不可能だ。例えば私は、どうあがいても都内住みの実家勢には「家の便利さ」という面では敵うはずがない。そりゃ「家族で移転」ったってもそんな金ないし。

羨望は「自分もそうなりたい!」という努力を生むかもしれない。しかしそんな単なる羨望でさえ、羨望する対象が自分の少しの努力で得られるものでなければ、絶望と諦観が生まれるのみだ。嫉妬はそれに加え、「嫉妬対象の不快な感情」「それを見ている周りの不快な感情」というネガティブなものを生んでしまうのではないか。

嫉妬は無意味だ。

 


じゃあ、嫉妬をなくすにはどうすればいいか。それはズバリ、「彼/彼女と自分は違うものだと強く考える」「彼/彼女に別の部分で勝っていると思い込む」であろう。そうすれば、「あいつはあんな点で自分より上位だけど、逆にこんな点では自分の方が上位だ、自分すごいだろ」という感じである。

例えば私は、「あいつの活動資金はどこから湧いてるんだよ」系の嫉妬については、「自分はあいつと違って自分で努力した金でやりくりしてるんだ、努力してるんだから自分の方がすごいだろ!」「自分で得た金を使う方がプライド維持になっていいよなぁ!」などと考えてやり過ごしている。また「あいつ都内住みのくせに」系の嫉妬についても、「こちとらこんな遠いとこから来てるくせにこんなすごいことやってるんだぜ、すごいだろ!」「時間を有意義に過ごすのはあいつより得意なんだよ」などと考えるのである。要は、「不利な状況でも頑張ってる自分すごい!」という感じである。こんな感じで、一種の自己陶酔状態を作り出すのも十分有効だろう。

 

 

ただここで注意しなければならないことがある。それで「嫉妬対象の本人に対してマウントを取らない」ことだ。

人間、露骨なマウントを取られても不快に感じるものだ。本人は、嫉妬の対象にされるのと同じくらい嫌に感じるだろう。それでは嫉妬を避ける意味がない。

そもそも今あげたような例なんて「数あるうちの1つの価値基準」に過ぎず、それが普遍的とは限らない。例えば「資金が潤沢にある」「少ない資金の中で頑張っている」は両立しないが、どちらも評価対象だ。そこで「少ない資金の中で頑張ってる」を評価対象として押し倒して「だから自分の方がすごいんだ!」とマウントをとっても不毛だ。

あくまでも自分の中で思うだけ、でいいだろう。

 

 

嫉妬は、大して意味のない感情である。それなら、自分の中でそれに対抗して自己陶酔状態を作り出した方がいい。

嫉妬してますます自分が嫌になる人、また嫉妬されて萎縮してしまう人が減ることを、私は強く望んでいる。