どこかのT大生の思考

不定期です。旅行と考えることが好きなT大生が、たまーに駄文を公開します。自身の生に関する思いを述べる「自省」、旅の思い出を記す「旅記」、社会に対して言いたいことを唱える「主張」、人間関係の悩みを書き散らす「拗人」、その他自分の姿や趣味などを自由に語る「特筆」の5つ。

[主張6]「友達」って何だ

よく使うけど、実はよくわからない概念。

 

 

 

「友達」とは何なのか。

よく使うこの言葉、実は定義が難しいように感じる。

単なる「知り合い」を超えた、「親しい」関係。でもその「親しい」って何を基準にしているのか、どの一線を超えたら「親しい」ということになるのか。

それがはっきりと定まらない、曖昧な概念である。

 

 

実は私は、「友達」という言葉をあまり使いたくない。これには二つほどの理由があるのだと私は思っている。

1つに、それが「知り合い」の中での格付けの意味合いを含む言葉であり、先ほど述べたような曖昧な基準にもかかわらず、そこにある程度の境界を生むことになってしまうからである。すなわち、「こいつは友達」「こいつは友達とはいえないかな」などと「友達かどうか」をよくわからない基準のまま適用していくことで、そこに越えにくい壁を作ってしまうということだ。私はこういった感じでの区別を嫌うので、「同期」「クラスメート」「同僚」などといった所属を基にした関係性の言葉を代わりに使いたがる。これには、私自身が「なんか親しくないし友達じゃないかな」とカテゴライズされ劣後されるのが嫌だという気持ちもある。

2つめは、陰キャ特有の考えである。それはすなわち、自分は相手のことを友達だと思っていても、相手には自分以上に親しい人がいるために自分のことを「友達」と思っていないのではないか、というある意味恐怖の気持ちゆえである。これはある方のツイートでも述べられていたが、まさにその通りだと思う。代わりに、若干よそよそしさのこもった感じのする「友人」の方が多く使う。まあニュアンスの若干の違いかもしれんけど、「友人」と「友達」に私は壁を感じるのよ。

結局、「友達」という概念が曖昧であるがために、「同期」「友人」って感じの言葉に逃げるのだ。「親しい」って何だよ。

…まあでも、今回の文章では頑張って「友達」を使っていきたいと思う。曖昧な基準で申し訳ないが。

 

 

そこで私は、「友達」か否かの判断基準として「サシでのご飯に気軽に誘えるか、誘われて気軽に行けるか」「自身の本音をある程度晒せるか」を提案したいと考えた。

自分自身、サシでのご飯が平気な人はもれなく「親しい」と自信を持って言える人ばかりだし、そういう人にはある程度なら本音を言ってもいいと思える。逆に、サシ飯をしたくない、本音なんて言いたくないと思っている知り合いに関しては「親しい」とはいえない関係のため、実際「友達」というのも気がひける。

これが可能なら、自信を持って「友達」と言っていいだろう。世の中にも「喧嘩するほど真の友」って感じの諺があるっぽいし。

 

 

話をちょっと飛ばそう。では、それだけの「友達」ってのはどうやって増やせばいいのだろうか。

私はこれまで19年間生きてきて「真の友達」と言える人が少ない部類だと言う自覚がある。だから正直に言うと、これについては私は「よくわからない」。ただ、大学の1年間を通して、ある程度自身の勘違いに気づいた気がする。

大学入って最初の頃で「友達増やすぞ!」と意気込んでいた頃は、単に「大学の最初の頃から、授業とかサークルとかよく会う人」がおのずと友達になるものだと考えていた。大抵の入学直後の大学生は大学で親しい人が少なく、その状態でよく会うことで多く話をするようになるため、自動的に親しくなるものだという単純な考えだった。

しかし実際どうだろう、現在(学部2年で)親しい大学の友達は、結構「2年生になってから結構話し始めた」というのが多い気がする。逆に1年の時からずっと近くにいる人でも、あまり仲が良いと思えない人がいる。ここで、「よく会う」のみならず「相性が合う」というのが重大なファクターなんだなと感じた。「生理的に無理」「なんかよくわからないけど仲良い」が本当に実現するものなのか、といった感じだ。結局、友達になろうとしてもなれない人もいるんだな。サークルの合宿とかちゃんと行って顔を合わせても。私の場合、サークルの同期でそういう人がいた。

すなわち、知り合った人と片っ端から友達になろうとするよりかは、「相性が合う」人に出会うことが大切なのである。

 

 

じゃあ「相性が合う」人に出会うにはどうすればいいか。もうそれは、ひたすら多くの人と出会うしかないだろう。

私は多くの団体に所属することで知り合いが多いため、その分それぞれ違う領域において「相性が合う」人に結構出会えた。そう、「相性が合う」って言ってもそれは1つの基準によらないからね。例えば私の場合、「本当にたわいもない話ができる」「日本地理とかの話ができる」「思索的な話し合いができる」というのは全て「相性が合う」だが違う人達だ。

「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」ではないが、とりあえず出会いが大切だということかな。

 

 

しかしここで、実は一個のジレンマに直面する。それは「多くのコミュニティに参加するなどして知り合いが増えるほど、彼らとの薄い付き合いに多く時間を取られ、結果として特定の1人と深く付き合うのが難しくなる」というものだ。

これは私が非常に苦しんでいることである。私は大学で多くのコミュニティに所属した結果、1年半でたしかに自分の本音を言えるような人はとても増えた。しかし一方で、気軽に遊べるような人は大学の知り合いではそれほどいない。これが私が「友達」という言葉を使いたくない理由の2つ目にも関わる。高校時代は部活(というか同好会)1つと文化祭実行委員会にしか属しておらず、その一部の人とは今でも非常に親しく気軽に遊びに誘えるのに、である。

このバランス、本当に難しい。まあ大学の交友関係は「広く浅く」とよく言われるから、そうなるのは自明なのかもしれないけど。流石に、コミュニティの自分以外の人だけでやたら仲良くしているのを見ると、心にくるものがある。

 

 

ところで、友達の存在意義ってなんなのだろうか。価値とかそういうのだけで考えること自体私は好まないが、ここでは我慢して少し考えてみたい。

私は「一緒にいて心地よさを提供しあう」「お互いに高め合う」「議論を交わす」「不満などを会話というしっかりとした形式で晴らす」「精神面で支えて幸せを願い合う」というような存在だと考えている。

「心地よさ」については、これは一緒に遊ぶ相手だということである。一緒に遊んでいて、一緒に過ごしていて、一緒に会話していて、それだけで楽しい。一緒にいたい。その人がいるからこそ、自分は楽しく感じられる。恋人の関係とも根本は同様な気がする。

「お互いに高め合う」については、いわばライバルの関係である。あいつが頑張ってるから自分も頑張らなきゃ、あいつにだけは負けてたまるか、そんな感じである。そしてお互いに健闘を称え合う。功績をあげたら祝ってあげる。こういう存在がいると、人は向上心が生まれ高みを目指すのだろう。

「議論を交わす」、これ大事。自分で考えているだけでは意見はなかなか前に進まないが、友達から刺激を得ることで進歩を見せる。実際私のブログの[主張]も、何人かの友達との会話の末に多少洗練されたものである。彼ら彼女らの存在が、私に刺激を与えてくれた。東大に入ってから議論を交わせるような友達が増えて、私は本当に嬉しく感じている。

「不満を晴らす」、これは悪く言えば「はけ口」かもしれないが、こういう存在も大事である。だって人間、生きてて不満を感じないことなんてないだろうし。それを八つ当たりとかじゃなくてしっかり会話という形式で晴らせる、不満を感じている時でもしっかりと会話ができるし会話になってくれる、そんな存在だ。ある意味自分の暴走を止めてくれる。

「精神面で支えて幸せを願い合う」、これはサポーターみたいなものだ。しかし友達の場合、そこに金銭とか責任とかそういう余計なものは絡まない。自分が頑張ってくじけそうな時、ほぼ無制限で心の支えになってくれる。それ故に逆に、自分は彼ら彼女らのことを精神面で支えてあげ、無制限で成功を祈ってあげる。挫折しないためにもこの存在は大事だ。

 

 

…と言っていると、また多少のジレンマが生じる。それは例えば、「友達が自分と同じところを目指している時」に生じる。友達に対する「お互いに高め合う」と「幸せを願い合う」が、自身の欲求とぶつかるのである。

例えば、私が現在非常に悩んでいる進学選択、いわば進振り。私の進学先の候補として工学部の某学科と教養学部の某学科や某学科があったが、いずれも親しい友達が第一志望として目指している。そして私の方が点数が高いことをわかっているが故に、私がそこを志望してしまうと彼らにとって渋い状況となる。しかし私としては、彼らには第一志望に安全に通ってほしい。でも、私の興味からするとそこに行きたい。このジレンマである。友達の存在が、自身の「自分はここに進学したい」という将来願望とぶつかってしまうのだ。この場合にどうすればいいのか、私には最適解がわからない。結局私は他にも興味ある分野があるということで、その学科は志望しないこととした。だがこれは良かったのだろうか。彼ら自身、私が多少の犠牲を払うことを本当にそれを望んでいたのだろうか。わからない。

あと、私には幼稚園時代からの友達がいるのだが、同じ東大を目指していた。しかし彼は運動もできて文武両道なのに対し、私は運動音痴。そして小学生中学生の時代だから、地元では彼の方が圧倒的に人気だ。その中で彼が東大に受かってしまうと、私と比べ彼の方が地元で評価され、私は東大に合格したところで惨めな思いを抱くのみではないかという恐怖があった。友達の存在が、自身の激しい承認欲求とぶつかってしまったのだ。友達に対する複雑な感情を抱く自分に対して、嫌悪感を抱くこともあった。あの時どう対処すれば良かったのかも、私はまだよくわからない。

ジレンマが起きても友達は大切な存在だ。一方で自分の欲望も当然大切にすべきだ。妥協点を探さねばならないのかもしれない。

 

 

ところで話が変わるが、「知り合い」と「友達」を区別するポイントとして「呼び名」があるかと思う。例えば単なる知り合いだと苗字+敬称だが、友達だとあだ名、というように。これで私は困っていることがある。

私はあだ名がつけづらい苗字と名前に生まれたため、生まれてこのかたまともなあだ名をつけられたことがない。高校以降は大抵、苗字+くんもしくは苗字呼び捨てで呼ばれている。それで、女子を中心に結構くんづけで呼んでくる人がいるのだ。逆に知り合いの女子で自分を呼び捨てで呼んでくれる人など、(私の知り合いは決して少なくないにもかかわらず)7人くらいだ。

しかしこれ、私からするとよそよそしく感じられてしまう。だって初対面での呼び名だって、苗字+敬称で同じじゃん。それと変わってないってことじゃん。なんか、自分が距離を取られてるような感じがする。特に、その人がほかの友達に対してあだ名や呼び捨てを使っていると。

そして私は自分を苗字+くんと呼んでいる相手に対して名前の呼び捨てなどできないので、結局中途半端な呼び名もしくはそもそも名前を呼ばなくなる。端的にいうと、私は女子の友達を名前で呼ぶのに抵抗感がある。結局、自身も彼女らに対してよそよそしさを意図せずとも感じてしまいかねない。…男子校感満載だな。

だから私は口を大にして言いたい、苗字呼び捨てでいいんだよ、と。そうすれば、私もある程度抵抗がなくなる。そっちの方が私も嬉しい。みなさんよろしく。

 

 

さて、先ほど「初対面と一緒」などと言った。これに関して、私は女子の友達から「初対面の時からあんま接し方が変わってないように感じられて残念」と言われたことがある。

私は「社交的陰キャ」なのだ。初対面とはよく話せるが、その後でもなかなか仲が進展しない。特に女子、同性と比べて踏み込んだ話をしづらいから。というか私が性善説で初対面に対してもほとんど心を開くため、それが常にデフォルトになってしまうのだ。

これ、どうにかしたいよね。だってさ、いつも初対面みたいに話をされるのは嫌じゃん。でも一方で、初対面に対する接し方も今の心開いた形のままで変えたくない。…難しいね。

 

 

いやあ、とても話が飛んだな。一口に「友達」といっても、これだけ考えてしまった。なんだろうな。

 

 

「友達」という言葉、難しい。でも、これを私も存分に使っていけるようになりたいものだ。