どこかの元T大生の思考

不定期です。旅行と考えることが好きな元T大生が、たまーに駄文を公開します。旅の記録を語る[旅]、何かに対する見解や主張をぶつける[論]、自分の生き方について思いを巡らせる[憂]、趣味などについて書き散らす[雑]の4つのカテゴリーで。

[旅24]東北スタディーツアー

被災地の実情を知る、学びの旅。

 

 

9/9(月)から9/12(木)にかけて、東日本大震災の被害を受けた三陸地方をめぐる、東京大学のボランティア団体によるスタディーツアーに参加してきた。その時の報告。

行程は、

〈9/9〉

埼玉県の自宅から仙台まで電車で向かい、仙台からバスで南三陸に行き、そこから陸前高田に移動

〈9/10〉

陸前高田の市内を見て回る

〈9/11〉

陸前高田からバスで大船渡に移り、そこで街中を見て宿泊

〈9/12〉

大船渡から釜石(鵜住居地区と中心市街地)に行き、そして北上までバスで向かって、北上から電車で帰宅

という感じだ。

今回は写真を使わず、文章だけで振り返ってみる。写真知りたかったら調べて……。

 

 

1日目。

この日はあいにくの台風で、首都圏在来線の多くが運休・遅延。その影響で、仙台駅に集合する時間が12時から13時に変更。しかし私はすでに11:39着くらいのはやぶさの指定席を取っていたため、余裕を持って計画通り行くことに。

4時間くらい遅れて発車した川越線の「始発から2本目の電車」に乗り、大宮へ。そこで40分ほど待ち、新幹線はやぶさで仙台に向かう。

私は限界旅行に慣れていて新幹線を滅多に使わないため、見ただけ(というかもはやホームに入っただけ)で興奮してしまった。今回新幹線を使うのは、大学から往復2万円までの補助が出るからである。大学のプログラムだし。いやあ、大学の金で乗る新幹線はいいなあ。

そして寝ていたら仙台についた。とりあえず駅ナカのカフェで安い昼食を済ませ、密かに狙っていたずんだシェイクを買いに行く。3度目の仙台にして、ようやくゲット。ずんだだったし、シェイクだった。美味しかった。

 

そして1時ごろ、大きなステンドグラス(?)の前で集合。「東京大学」と書いてある強そうな腕章を受け取り、バスで南三陸に向かう。南三陸は結構遠かった。

三陸に着くと、バスに乗りながら現地の方に震災の爪痕を案内していただいた。

三陸志津川)は津波の被害を受けた土地でかさ上げ工事が行われている状況で、低地に住宅はほぼなかった。住宅はほぼ高台、平地にあるのは震災遺構として名高い赤色の「防災対策庁舎」と「南三陸さんさん商店街」、そしてスーパーマーケットくらいか。あと、「高野会館」という建物も津波の被害を受けつつ残っており、犠牲者がゼロだったゆえ周りからの反発もなかったと思われ、現在も遺構として残されていた。

防災対策庁舎の川を挟んだ対岸には献花台があり、そこで暫定的に、犠牲となった町民全員に対して祈りを捧げることができる。防災対策庁舎の近くに震災祈念公園を建設中であり、それができたら献花台も移るらしい。

隣の戸倉地区に向かい、高台の元中学校へ。下の方の小学校の生徒とか住民とか、ここに来て助かったとか。でも、地形の関係から津波が標高22.6m地点まで到達し、この高台でも足にかかるレベルまで来たとかいうから恐ろしい。今は公民館として使われているが、住宅(高台移転後)から少し離れているため、実用的な価値は如何なものか。この地区は低地の嵩上げをするかどうかも未定な状況で、低地は原野に戻るかもしれないと言っていた。そうか、自然災害って本来その土地を原野に戻しちゃうんだもんな。

志津川に戻り、現地の方の説明は終わり。続いてはさんさん商店街に向かっている。海鮮の市場や食事屋など、「地元の人向け」というよりか「観光客向け」の店が多かった印象。たしかにこの街は観光客の呼び込みには成功しているらしいが、商店街の「地元の人の拠点となる」という役割はここではなかったように感じた。ちなみにこのさんさん商店街、一年前に行った女川の駅前の商店街を思い起こさせた。

ちなみに南三陸町、モアイをシンボルとしている。戸倉の元中学校の近くにハリボテがあったほか、さんさん商店街にも大きいのがいた。この南三陸のモアイ、実はチリも絡んでいて非常に面白い歴史を持っている。

そんな南三陸町を後にし、陸前高田に向かう。夕食は陸前高田のお店で、タコを使った丼をいただく。やっぱ三陸は海鮮だな。宿は廃校となった小学校を活用したセンターで、部屋のクローゼットが清掃用具入れだったりして面白かった。

夜は参加者の学生の皆さんと振り返り・議論を行い、眠りにつく。

 

 

2日目。

まず向かったのは、「箱根山テラス」という施設。この「箱根山」とは陸前高田市の東部にある山で、市民のシンボル(?)にもなっているとか。そこに宿泊設備やテラスを備えた民間の施設があり、三陸の湾を望める綺麗な建物だった。そこで現地の責任者の方にお話を聞いた。宿泊設備を備えているから市外の人向けかと思いきや、一方で市内の人も結びつけ新たなるプロジェクトを生む拠点としたい、という思惑もあるようで、この施設の将来が気になるものだ。

続いて向かったのは、市の中心部の方にある「りくカフェ」。クリニックの奥さん方が始めたらしく、健康に配慮したメニューを出してくれる店。それだけでなく現地の方のコミュニティスペース的な役割も果たしてあり、我々の隣でも何か話をしているグループが。

昼食を済ませると、陸前高田の震災の爪痕を見る。高田松原があったところは道の駅などを備えた復興祈念公園の建設計画があり、週末15日にはプレオープンするらしかった。ちなみにその隣にあったのがTAPIC、かつて道の駅だった大きな建物で、ここに上って助かった人もいる震災遺構。

市街地方面に向かい、追悼施設で黙祷。その隣には復興まちづくり情報館があり、津波の恐ろしさとともに、復興に取り組んできた人達の力強さも感じることができた。一隻の船が展示されていたのだが、漂着したアメリカの町から帰ってきたらしく、陸前高田市はそれをキッカケにそこと姉妹都市提携を結んでいるとか。

陸前高田津波の被害をもろに受けた場所。三陸にありながら平地が大きいために市民の方々が流れることが難しく、多くの犠牲者が出てしまった。そして街はほとんどが流されてしまった。私が9年前の夏に来た時の面影など、もはや全く見られない。あの駅、そして駅前の商店街はどこに行ったのか、あったはずの場所に残るのは茶色い土地だけ。津波の惨さというものを改めて感じていた。

一方で、復興は着実に進んでいた。田んぼも戻り、茶色だらけの土地ではなくなっていた。市街地も整備され、公園には元気に遊ぶ子供達やくつろぐ中学生の姿が。8年の年月、これは大きかった。

夕食はプレハブの商店街に向かい、ホタテとワカメの料理をいただく。ホタテの刺身とか炙り焼きとか天ぷらとか、ワカメのしゃぶしゃぶとか漬物とかお吸い物とか。本当に美味しかった。やっぱ三陸は海鮮がうまい。そしてそこのオーナー、仮設での営業継続が市にとって渋い状況になったからといって土地を買い取ってしまうなど、すごい人だった。ちなみにここ、近くでドラマの撮影が行われたこともあるらしい。

陸前高田、がんばれ。そんなことを思いつつ夜の議論をし、睡眠。

 

 

3日目。

この日は大船渡、被災しながらも結構再生した海岸の街。午前中はキャッセン大船渡という復興商店街へ。ここで現地の方のお話を聞き、資料館で流されている被災当時の映像を見る機会も。ひさびさに津波の映像を見たが、酷い。復興が進み震災の面影が薄れつつある大船渡だが、改めて大震災の存在を再確認できた。ここに、あんなものが来たのか。

その後、高台となった神社も行ってみることに。そこからは大船渡の街が一望できた。その方は足を悪くしながら間一髪で津波から逃れられたそうで、それを聞くと津波到達水位の表示も現実味を帯びて見えてきたものだ。下界では、大船渡線のBRTとも遭遇した。

その後は、キャッセン大船渡に関わっている方や「ケセン語訳聖書」で知られる会社の方の話を聞いて、議論する機会も。やっぱ皆さんすごい。大船渡に対する思いであふれている。

ちなみに昼食は大船渡で結構有名なラーメン屋で「貝だしラーメン」、夕食は居酒屋っぽいところでカキのパスタをいただいた。どっちもキャッセン大船渡。やっぱ海鮮、美味しい。

宿は大船渡駅(BRT)の目の前、免許合宿以来のホテル1人部屋。QOLを感じた。そしてこの日は最終日前日ゆえ夜遅くまで話をしてから、就寝。

 

 

4日目。

この日は釜石に移動。まずはラグビーのスタジアムがある鵜住居地区に行き、「いのちをつなぐ未来館」でここで何があったのか知る。「釜石の奇跡」とか言われているけど別に全員助かったわけじゃないし、「防災センター」に逃げた結果津波にのまれ亡くなった方々もいたそうだ。名前って大事なんだな、と改めて感じたものである。そして三鉄リアス線の鵜住居駅が目の前にあったため、三鉄の車両の撮影に成功。オタクを出してしまった。

続いて市の中心部に向かい、情報交流センターで地元の方のお話を聞き議論する。やはり、意識高い学生と地元のスペシャリストとの議論ほど、面白いものはない。ちなみにここ、ミッフィーカフェとかいうのもついていた。

昼食は海が見える店で、釜石の夏野菜を使ったうまいカレーをいただく。美味しい。ついでにここで、マンホールカードの回収にも成功。

そしてバスで北上に向かう。ここで解散して、そこから新幹線で帰る。

 


本当に有意義な4日間だった。