どこかの元T大生の思考

不定期です。旅行と考えることが好きな元T大生が、たまーに駄文を公開します。旅の記録を語る[旅]、何かに対する見解や主張をぶつける[論]、自分の生き方について思いを巡らせる[憂]、趣味などについて書き散らす[雑]の4つのカテゴリーで。

[論18]努力は報われないこともある

人生、努力じゃどうにもできない「たまたま」の連続さ。

 

 

 

「努力は決して裏切らない」、こんな言葉を耳にすることがよくある。人を鼓舞する時に向かう言葉だ。

たしかに、相当な努力をしていればそれが無意味に終わることはない。しかし、本当に「決して」なのだろうか。私は、報われない努力も存在するのではないかと思う。

これの1つに「自分では努力したと思っても、世間的には全然努力したとは言えていない」場合がある。要は勘違いだ。そりゃ、生半可な努力が100%結実するわけはないだろう。前日に徹夜で勉強して「努力した」と言おうと、以前からコツコツ勉強してきた人の方がよっぽど努力していて、大抵は負けてしまうものだ。

 

 

しかし、おそらくそうでない場合もある。それは、「自分の先天的能力が足りない」場合だ。完全な先天的でなく、小さい頃に形作られた能力でも。

人間、それぞれ「向き」「不向き」があるものだ。「得意」「不得意」があるものだ。それもある程度先天的に、遺伝によって。残念ながら、努力ではそれに抗うことは困難だ。

私も、これを実感したことは少なくない。例えば中学時代、私は運動部に入っていたのだが、根っからの運動音痴のせいで全然実力が伸びなかった。努力はしたが、それが報われなかった。そのくせして「お前はこんなこともできないのか?努力が足りないんだよ、努力!」と言われたものだ。じゃあ、仮にその努力をしたところで、本当に私はうまくなれたのだろうか。

また、大学のサークルでもそうだ。私は親譲りの音痴気味で、合唱曲の音取りに著しく時間がかかる。いくら音源を聴いて自分で歌ってみて努力したところで、正確に取ることができない。つらい。

逆に私は、地頭と努力のおかげで厳しい入試を勝ち抜き、東大に来ることができた。これには頭の良さが必要だが、頭の良さは努力で全てどうにかなるわけではない。家庭教師をやっていても思うのだが、九九や単語を覚えようと努力しても、いつまでたっても覚えられない生徒だっている。東大生には理解し難い事実だと思うけど……。

向いてなきゃ、努力は徒労に終わることだってある。向いていない人が「必ず報われる」とは限らない。努力至上主義の根性論はいらん。

 

 

それにまあ、いくら努力したところで勝負の時のコンディションが悪ければ元も子もない。勝負の機会がなくなったら、これまでの努力は半ばパーだ。

「運も実力のうち」とはいうけど、抗えないことだってあるじゃない。大体は「たまたま」結実したもの、「たまたま」結実しなかったものだ。

 

 

だいたい、「努力は決して裏切らない」の言葉で苦しむこともあるはずだ。自分では努力したと思っていてもなかなか伸びないときにゃ、自分は本当に努力していたのだろうか」と疑ってしまう。苦手でも頑張っている人を否定することになる。「努力すりゃたまたま成果が出ることがある」、これくらいの認識で大丈夫だ。

努力は、自分の先天的な能力や運の欠如によって裏切ることだってある。努力による成果、人により様々。成果が出るのは、「たまたま」の要素も大きい。一概に「裏切らない」と言われるのは癪だよな。

 

 

というか、少し話が変わるかもしれないけど、人生自体「たまたま」の連続で成り立っているものだ。

たまたま危険を感じたから道を変えて事故を回避した、たまたま内容が気になったから参加してみて進路とした、たまたまやってみたら結果がでた。人生なんてこんなものだ。たまたま親が通勤に良いと思ったから今の町に引っ越して、たまたま同じ町にいた同学年の子供と小中の同級生になり、たまたま親しかった先輩が運動部に入っていたから入ってしまい、たまたまそこに入った奴らと仲良くなった。たまたま「文化祭が素敵!」と思ったから男子校の高校を選び、たまたま悪条件に見舞われたこともあって数々の行事が思い出になり、たまたまクイズに興味を持ったからクイズと門作りに手を出し、たまたま同じことを考えていた同学年の奴らと親しくなり、たまたま気があって一緒に旅行行くくらいの仲になった。たまたま高校で理系が日本史を取れなかったから文系を選び、たまたま家から通える範囲だったから東大を受験する気になり、たまたま「まあ上を目指そう」と思って文一を受験し、たまたま当日のコンディションが良かったから合格した。たまたま文一と文二で中国語を選んだ一部の人と同じクラスになり知り合って、たまたま高得点をとったから法学部以外に行く気になり、たまたま「本郷に行きたい!!!」という思いが大きかったから文学部を選び、たまたま文学部の社会学に来てしまい、たまたまそこで再会や新たな出会いが見られた。たまたま活動日の都合が良かったから今のサークルを選び、たまたま担当希望に落選したから委員会の今の部局に配属され、たまたま続いてしまい、たまたまそこに入った人たちと仲良くなり、たまたま誰とも被らなかったから今の役職に就いた。そんなもんよ。人生、たまたまの出会いばかりで成り立ってる。何万分の一もの確率を通り抜け、あなたに出会えた。

そもそも、我々が親の元に生まれたのからして「たまたま」だ。1つの受精卵が生じることも自体「たまたま」である。なんなら地球が形成され生命ができたのだって「たまたま」だし、ビッグバンで宇宙ができたの自体「たまたま」だ。

自分がここにいるのは、完全にたまたまだ。努力とかそんなちっぽけなことではどうにもできない、神秘の世界。もしかしたら、神によってこうなると決められていたのかもしれない。面白いじゃん。

 

 

これを自覚していると、自分の存在についてそれほど深く悩まなくて済むと思う。

努力は裏切らないとも限らず、あくまでも成果は「たまたま」だ。ただ相応の努力は結実する場合があり、それで成果をあげることもできる。失敗だって必ずしも自分の準備・努力不足が原因だったのではない、「たまたま」なのかもしれない。

もちろん、それでも努力や反省は必要だ。たもはいえ、これくらいに考えた方が気楽だと思う。

 

 

人生は「たまたま」の連続、全て努力がどうにかできるわけではない。

「たまたま」に恵まれて今を生きられることに感謝しつつ、「努力」に頼りきりすぎずに悠然と生きていきたい。