どこかのT大生の思考

不定期です。旅行と考えることが好きなT大生が、たまーに駄文を公開します。自身の生に関する思いを述べる「自省」、旅の思い出を記す「旅記」、社会に対して言いたいことを唱える「主張」、人間関係の悩みを書き散らす「拗人」、その他自分の姿や趣味などを自由に語る「特筆」の5つ。

[自省5]「成人」は「喪失」なのだろうか

「大人になる」ってなんだったんだろうか。

 

 

 

2020年3月19日、私は20歳の誕生日を迎えた。成人したのである。

「大人になった」のである。

 


制限行為能力者を脱した。飲酒できるようになった。いろいろなところで親の署名が不要になった。クレカの利用枠引き上げ申請を自力でできるようになった。

代わりに責任は重くなった。犯罪を起こせば実名公開。国民年金第1号被保険者。「大人として求められるもの」が求められるようになった。

 


でもなんだろう、全然「大人になって何かを得た」という感覚はない。そこにあるのは、昨日までと大して変わらない生活のみ。まだ親の扶養を受け、親の金で学び、親に飯を食わせてもらっている「子供」だ。

「大人になった時のための教育」なんてのも、それほど受けた記憶はない。「大人になる準備」だってできていない。

なんか不思議なものだ。「大人になる」ってなんだ?

 


……しかしながら、はっきりと自覚できることがある。

それは「もはや自分は若くない」ということだ。

……別に嫌味とかではない。ただ、「10代」というフレッシュさの代名詞を失ったのだ。

 


歳をとったからって、ほとんどの活動については「絶対にできなくなる」わけではない。私自身、「何かを始めるのに歳なんて関係ないだろ!」という人間だ。逆に歳をとった方ができる活動の幅が増えるまである。

ただ、「若い頃しか制度上できないこと」については、今後二度とすることができない。例えば、「雪マジ」とかいう19歳(厳密には小学校卒業後7年目の世代)のみのプログラムはもはやできない。それだけじゃない、「未成年のピュアな恋愛」とかいうのも当然不可能だ。もう「あの時やっておけば……」「あの時できていれば……」と思うしかない。

年齢は絶対に不可逆だ。だからこそ残酷で、「20歳になる」はある意味「喪失」なのだ。

 


もう1つ。

私の大きなアイデンティティが消滅した。

「未成年飲酒禁止過激派」というのが私のアイデンティティだった。しかし未成年ではなくなった。

私は「酒が嫌い」でなく「未成年飲酒が大大大嫌い」だったので、成人した今はどうせ飲む。

もはや「普通に酒を飲む一回の成人」でしかない。

 


そういえば、周囲の人間は「大学生になってから」大きく変わった。「打ち上げ」が「飲み会」になり、みんな酒を飲んで人が変わったように騒ぐようになった。

高校生までのような「ノンアルで楽しみまくる打ち上げ」はもはやそれほど存在しない。

未成年飲酒絶対しないマンとしては、周囲のみんながそうやって変わっていくのは、勝手な思いではあるがなにか悲しかった。

でも今や、自分も「そうやって変わる側」なのだ。

 


あと、私は結局「未成年の間に恋人ができなかった」「恋人いない歴>20年」という不名誉な称号を得てしまった。まあこれも「もう二度とできないこと」だけど、こんなん望んでたわけじゃない。

これまでは「別に恋人とかどうでもいいんじゃね?」とか思ってきたが、「大人」になってしまった今や、結婚とか色々を考えずにはいられないし、「恋人が今までいなかったこと」に対して「社会不適合」の烙印が押されてもおかしくない状況だ。

「まだ子供だから」という言い訳を喪失した。

 


これに関しても、周囲が「大学生になってから」大きく変わった例だ。高校時代は全然聞かなかった恋愛の話が身近になり、突然ドロドロになり、いろいろな話を聞くようになった。

東大生だからまだ望みはあるかもしれないが(?)、もう「非リア芸」なんてものは冷ややかな目で見られるのみ。

これに関しては、自分は「変わるべきだったのに変われなかった」例だ。「大人」になり損ねた。尊厳を1つ失ったまである。

 


「成人になる」、それは私にとっては「何かを得る」というより「何かを失う」の方が大きかったのかもしれない。

当然「新たに得るもの」も多い、それは分かっている。でも今の実感としては、なんか喪失感の方が大きいのだ。

 


「誕生日おめでとう」の言葉を多くもらった。非常に感謝している。ありがとう。

でもなんだろう、私は自分が20歳になったことを素直に喜べないような、そんな気がする。

成人になりきれない成人が、そこにはいた。

 


……と、ここまで書いたところで、私は1つの達成感を抱いていることに気がついた。それは「未成年不飲酒を守り抜いた」ということである。

「もう二度とできないこと」を、私はこのような形で成功させていた。

実は、自信を持って大人になって、いいのかもしれない。

 


「大人になる」って、なんなんだろうか。

「形式上は」大人になってしまった今、この問いからは逃れることができない。