どこかの元T大生の思考

不定期です。旅行と考えることが好きな元T大生が、たまーに駄文を公開します。旅の記録を語る[旅]、何かに対する見解や主張をぶつける[論]、自分の生き方について思いを巡らせる[憂]、趣味などについて書き散らす[雑]の4つのカテゴリーで。

[論20]時の流れには逆らえない

今の思考・行動は大切。

 

 

過去を捨てられない

 

最近、部屋(厳密には部屋様の自分専用スペース)の整理をひたすらしている。家にいてやることがない時の、結構いい暇つぶしである。

掃除をしていると、過去の資料が出てくる。2年前の大学入学当初の資料はもちろん、受験期の教材や勉強記録、中学の修学旅行で行った奈良のパンフレット、さらには2007年度版の「やんば散策マップ」なんかも出てきた。

 

私は「ものと結び付けられた記憶」が残りやすく、そういう過去の資料を見ていると、当時の様子がありありと思い出されるものだ。東大合格が決まって新生活にワクワクしていたあの時、合格に向けて頑張って勉強していた苦難のあの時、旧友と修学旅行を楽しんでいたあの時、川原湯温泉に入浴していたあの時。

過去の資料ってのは、過去を否応なく思い出させてくる。

 

そんな過去の資料を、私はなかなか捨てられない。整理するならば断捨離をしたいものだが、なかなかできないのだ。

それと一緒に、過去の思い出を思い出すきっかけ、ひいては過去自体を忘れてしまう、そんな気がするから。それが怖いから。

 

私は、過去にしがみついているのかもしれない。過去を捨てられない。

 

 

過去は、二度と取り戻せない

 

過去を捨てられないのは、現在を直視したくないからだろうか。現実逃避したいからなのだろうか。悪いことなのだろうか。やめた方がいいことなのだろうか。

……必ずしもそうとは限らないだろう。

 

そういうことじゃなくて、「楽しかった思い出」「面白かった思い出」「あの時の姿」という取っておきたいものを「捨てる」「忘れる」という不可逆的行為、それ自体を忌避しているからなのだろう。一生懸命コレクションしているものを捨てたくない、それと本質的には同じだと思う。現在が自身にとって満足できるものであれ、満足できないものであれ。

それに、過去は普通の蒐集物とは異なり、一回捨ててしまうと取り戻すのは極めて困難だ。タイムマシンができない限り、過去に戻ることはできない。だからこそ、貴重だ。

そもそも過去を思い出すということ、それ自体が楽しい。話の種になるし、自身を落ち着かせる効果もある。現在が様々な困難に阻まれ、未来の展望も決して明るくない今、尚更。

 

そんな貴重な過去を思い出させてくれる資料、それを捨てることで過去が永遠に思い出せなくなるのが、怖い。

たとえ資料自体の価値はなくても、少なくとも自分の中では価値がある。たとえ、時の経過の中でボロボロになってしまったパンフレットでも。むしろ、そんな「時代を経てきたという証拠」が付いているだけ価値がある。だからこそ、それを写真で撮ることで過去を思い出すきっかけを保ったとしても、捨てるのは少し惜しいのだ。

 

別に、過去を無理して捨てる必要はないと思う。だって、それは一回捨ててしまうと二度と取り戻せない、貴重なものなのだ。

 

……この考え方は、過ぎて仕舞えば二度と取り戻せない「現在」「今」を大事にする、と言うことにつながる。

 

 

後悔は、悪いことではない

 

忘れたくない過去だが、すべて肯定するのは難しい。「あの時こうしていれば……」と後悔することもある。だが、そのことこそ貴重なのかもしれない。

 

[論17]で、私は「後悔」と「反省」の違い、そして後悔するくらいなら反省だけで済ませるべき、ということを述べた。

utok-travelandthinking.hatenablog.com

しかしながら、そう言う私自身がよく後悔している。人に偉そうに言っている場合ではない。

例えば今でも、進学選択が正しかったのか思い悩む時がある。そもそも高校で文系を選んだのが正しかったのか、そこから思い悩む時がある。大学でのサークル選びが正しかったのか、思い悩む時がある。真面目に勉強する時期が遅かったのではないか、思い悩む時がある。

 

これは実は、今を大切に思っているゆえなのではないか。

後悔というものは、必ず「あの時〇〇していれば……」という形で表される。その後に続くのは、大抵は究極「今××だったのに」である。すなわち、後悔は今に満足できていないから、ひいては今を大切に思っているからこそ、生じるのだろう。今を大切にしているが故に、その今を形作る過去を大切にする。だって今のことを全く気にかけなければ、そんなことどうでもいいのだから。

過去について考えてしまうのは、現実逃避でなく、むしろ現在のことをよく考えているからなのかもしれない。

 

 

後悔は生かし、できるだけ軽く

 

そして、そういう後悔をしているがために、今後あまり後悔せずに済みたいと思い、さらに現在を大切にすることにつながる。反省する。

後悔は必ずしも悪いことではないが、「後悔先に立たず」というのは事実だ。ひどい後悔は、できるだけしなくて済むような方がいい。だからこそ、どうせ後悔するなら「反省」に還元して、現在の行動に生かすべきであろう。そうでなきゃ、後悔する意味はない。

 

そもそも、後悔は「どちらかしか選べない選択」を経験してきたから生じるものだ。だからこそ、そこで違う方の選択をしてきた世界線は経験できないし、それを経験してみたいと思うのも至極当然。その意味で、どちらかしか選べない選択がある以上、必ず「選んでの後悔」「選ばなくての後悔」の2種類のうち1つを選ぶことになると言える。後悔は不可避だ。

ならば、2種類のうち「軽い方の後悔」で済ませた方がいい。

 

 

未来を憂慮するなら

 

今、未来は真っ暗だ。この大変な状況がいつまで続くのか、誰も見通せない。

未来を憂慮するのも、無理はない。

 

そうやって未来を憂慮するとき、今のことを忘れてはならない。「未来は心配だけど、今の自分は何も考えないし何もしない」というのはダメだ。いくら絶望しようと、思考停止や投げやりに陥るのはダメだ。

 

未来は、「現在」の積み重ねにより形成される。現在何を考えるかによって行動が決まり、その現在の行動が大なり小なり影響して、1つの未来が作り出される。

たとえそれが「一国経済」というスケールの大きいものであっても、たとえそれが「来月までに感染症撲滅」という不可能に近いものでも、自分の思考・行動は良い方向であれ悪い方向であれ十分に影響を持ち得る。声を上げることで回り回って給付・補償制度の充実につながることも、要請を無視して外出を続け自身がウイルスをばらまくことも、可能性は極小だとしても決してゼロではない。良い影響をもたらす希望、悪い影響をもたらすリスク、それはゼロではない。

 

未来を憂慮するのなら、展望の見えない中で「できるだけ良い未来」を作るために、現在を大切にしたいものだ。「どうせ自分の現在の思考・行動は関係ない」とは思わず、良い影響をもたらすため・悪い影響をもたらさないため、今のあり方を重視するべき。

未来になって、ひどく後悔しても遅い。先程「選択がある以上は後悔は不可避」と言ったが、その中でなら「軽い後悔」で済ませるべきだ。良い影響があるかもしれない行動をせず「あの時行動していれば……」と「重い後悔」をするよりは、行動した上で影響が出ず「あの時は自分の行動に期待しすぎた」と「軽い後悔」をする方がいい。悪い影響があるかもしれない行動をして影響が出て「あの時行動しなければ……」と「重い後悔」をするよりは、行動せず「あの時はナーバスすぎた」と「軽い後悔」をする方がいい。

 

未来を憂慮するなら、今はひたすら我慢して、できる行動をするしかない。「できるだけ良い未来」のために。「重い後悔」をしないために。

 

 

いつか、これも過去になる

 

大変な状況にある中で、1人1人の行動が確実に身を結んでいるんだと思う。効果を身をもって感じることは難しいが、データにも表れつつある。何も対策がなかった場合の「最悪の未来」は回避されているし、何もしていなかったら迎えたかもしれない「重すぎる後悔」もせずに済んでいる。

これは、1人1人の「現在」の積み重ねであろう。我慢とできる行動の積み重ねにより、「できるだけ良い未来」「軽い方の後悔」に導かれている気がする。

効果がなかなか見えなかった2週間前は、もう過去だ。

 

今この瞬間も、すぐに過去となる。さらに言えば、今の行動が生み出す1ヶ月後や2年後の未来だって、20年も経てば過去となる。

そのうち、これも「貴重な過去」になるだろう。話の種となる過去、忘れてしまえば二度と取り戻せない過去。

 

いつか、今の時代の資料を見て「あんなこともあったね」と昔のこととして懐かしむ、そんな未来も来るだろう。

「苦難の記憶」であれ、いつか受験期みたいに「あの時は頑張ったな」と思えるようになる、そんな未来も来るだろう。

今は現実逃避したいほど大変であれ、いつか「捨てられない過去」「面白い思い出」「忘れてしまうのが怖い過去」になる、そんな未来も来るだろう。

その時に「軽い後悔」で済めば、それでいい。

 

時の流れには、逆らえない。それがいかなる形であれ。