どこかの元T大生の思考

不定期です。旅行と考えることが好きな元T大生が、たまーに駄文を公開します。旅の記録を語る[旅]、何かに対する見解や主張をぶつける[論]、自分の生き方について思いを巡らせる[憂]、趣味などについて書き散らす[雑]の4つのカテゴリーで。

[憂14]「ふつう」であること

「物語」の主人公にならなければ。

 

 

私は「常識人」「まとも」です

 

〇〇唯一の良心。××の常識人。真面目。比較的まとも。普通の人間。

これは、私が他の人から評価を受ける際によく聞く言葉である。

なおこのほかにも「拗らせ」「残飯処理班」「バ畜」「遠距離通学」「ツイ廃」などがあるが、ここではそれは考慮しないでおく。

 

すなわち、私は他人からすると「常識人」「まとも」らしい。少なくとも「変人」と言われたことはない。

うん、確かに自分でも自覚はある。

 

「常識人」とは。

単語の意味からすると、「常識を弁えている人」であろう。その際の「常識」というのは、多く「社会生活における振る舞い」みたいなものだろう。いわば、「常識人」とは「キ〇ガイ」の対局である。

「まとも」も同様、「変な言動を行わない」である。「変人」の対局である。

 

この「常識人」「まとも」という言葉、語義そのものから考えると明らかに褒め言葉である。私自身、この言葉を言われて嬉しくないことはない。

 

 

私は「没個性」「つまらない人間」です

 

だが、ここで少し立ち止まって考えてみる。

人はある人を評価せざるを得なくなった時、適切な言葉が見つからないととりあえず「常識人」「まとも」などと無難なコメントを言っておくものである。

人は所属組織の仲間を紹介する時、その人の個性を思い起こしては「頭おかしいやつらばっか🤪」など言うものである。

 

つまり、「常識人」「まとも」はある意味評価からの逃げ、いわば「没個性」の言い換えなのである。もっと言ってしまえば、「評価に値しない」さらには「つまらない」にも繋がる。

 

すなわち、私は他人からするとある程度「没個性」「つまらない」らしい。少なくとも「個性の塊」と言われたことはない。

残念、自分でも自覚あるんだよなあ。

 

こうなると、もはやネガティブな評価である。それを考えると、「常識人」「まとも」などの評価に対して素直に喜べない。

 

 

私は「ふつう」です

 

常識人。まとも。

没個性。つまらない。

 

特定の何かに秀でているわけではない。

小さい頃からある強い目標を抱き、それに向かって激しく努力しているわけではない。

「面白い」と思われる一芸を持っているわけではない。そもそも誰かを面白がらせることも苦手。

大学生活をかけて没頭しているものはない。没頭するだけのものがない。ガクチカは周りの大学生に勝てない。

何をしても中途半端で、プロになれない。文章を書いても、書き振りは極めて稚拙。

目立ちたがりたくない。というか目立てない。

誰かが自分のことを激しく求めているわけでもない。自分も誰かのことを激しく求めているわけじゃない。

「友達」と呼ばれる存在はいるが、積極的に遊びに誘われるわけでもない。

ひどい不細工というわけでもないが、容姿を褒められることはまずない。体重は標準体重そのもの。

無能すぎることもないが、決して有能ではない。

 

「ふつう」の人間である。

「東大生であり勉強ができる」この一点では社会において「ふつう」から逸脱している(突然のイキリ)が、それ以外の「人から見える箇所」においては「ふつう」である。東大にいる限りはこの特性は使えないし、私はただの「ふつう」に成り下がる。

 

なんか、こう書いていると悲しくなってくるなあ。

 

 

私は「ふつうよりタチの悪い人」です

 

もっとタチの悪いことがある。

 

この社会においては「恋愛するのはもはや当然」だ。ふつうの大学生、ふつうの成人は恋愛など当然のようにこなす。しかし私はそれができていない。

この社会においては「成人男性は170cmくらいあるのはもはや当然」だ。ふつうの成人男性は170cmの身長など当然のようにある。しかし私はそれがない。

この社会においては「芸能に関する知識を持つのはもはや当然」だ。ふつうの人間は芸能人なんて当然のように知っている。しかし私はそうでもない。

この社会においては「大学生が未成年のうちから飲酒するのはもはや当然」だ。ふつうの大学生は飲酒なんて当然のようにする。しかし私はしない。

 

「ふつうよりタチの悪い人」である。「ふつう」であればできるようなことを、できていない。

 

 

結局、大事なのは他人からの評価

 

ここまで散々ひどいことを書いてきたが、1つ誤解をしないでいただきたい。私は自分のことが好きで、自己肯定感もめちゃくちゃ高いのである。「ふつう」であることそれ自体を嫌悪しているわけではない。というか、自分で自分を肯定せずに誰が肯定するんだ。

 

しかし、結局重要なのは自己評価でなく他人からの評価である。競争社会だ、それも東大生の中での。自分をどう見せるか、他とどう差別化して見せるか、いかに「物語」を見せるか、ここにある。

私はこれが非常に不得手なのだ。

 

「常識に囚われない人、破天荒な人を求めています。」こう言う。

自分はどうだろうか。

 

「ナンバーワンにならなくてもいい もともと特別なオンリーワン」めちゃくちゃいい言葉である。大好き。

でも、「ふつう」であればオンリーワンと胸を張って言うだけの特性もない。「いろんな花」と一緒方にされて終わり。綺麗かもしれないが、しゃんと胸を張っているかもしれないが、それは周りだって同じ。そして並んでいるだけで、選ばれることはない。争うことなんてしたくないが、争いはいつか絶対に生じる。そして「オンリーワン」と思わせることすらできない自分は負けるのみ。

 

「上位互換」「下位互換」という最悪な言葉がある。

言ってしまえば、私は「ふつうじゃない人」や「タチの悪くないふつうの人」の下位互換である。私には、数多く上位互換がいる。そんな私なんて選ばれない。

お前は1人しかいないが、お前の代わりは何人でもいる。

 

ここで、最初に少しだけ触れた「拗らせ」「残飯処理班」「バ畜」「遠距離通学」「ツイ廃」を思い出す。これらはいわば、「ふつう」な私の少しだけ「ふつうじゃない」「個性」である。

しかし「拗らせ」は個性として有用に働くことはなく、周りから忌避されるのみ。「残飯処理班」「バ畜」「遠距離通学」は私を深く知ってこそ分かる個性だろうが、そうでもない人からしたらインパクトに欠ける。「ツイ廃」論外。

 

そもそも私は、これまでいろいろな記事で述べてきたように、誰かと深い関係になるのが苦手だ。だから自分を深く理解してもらうことが難しく、結局多くの人に「没個性」「つまらない」「ふつう」「理解できない」と思われて終わり。

いくら自己肯定感が高かろうが、自分を理解してもらえないとダメなのである。

 

自分は、自分の中では物語の主人公だ。しかし他人からすると、主人公に値しないモブキャラレベルに過ぎない。「物語」なんて認められない。

 

 

「物語」のある人への憧れ

 

小説や漫画やドラマやアニメを見ると、何か不思議な気持ちになる。

フィクションに限らない。ドキュメンタリーなどで人の偉業や強い思いを見ると、何か不思議な気持ちになる。

 

彼ら彼女らには人を魅了するだけの「物語」があり、それに憧れを抱いているのかもしれない。

 

そのような物語の主人公は、間違いなく「ふつう」の人間ではない。何かしらの偉業を成し遂げたり、何らかの強い思いを抱いていたり、何らかの強い人間関係を持っていたり、とりあえず強い個性を持っている。「ふつうの高校生が〜」みたいなフィクションもあるが、そいつは異世界転生したり運命の再会をしたりハーレムに見舞われたりするから間違いなく「ふつう」ではない。

まあそれも当然だ。主人公に個性があるからこそ、フィクションやドキュメンタリーとして成立するのだから。

 

彼ら彼女らみたいな、誰かを魅了できる生きざまが羨ましい。

そういう生きざまを見ると痺れる。

めちゃくちゃかっこいい。

すごい。

 

自分にはない、人を魅了できるだけの「物語」の持ち主に、憧れている。

 

 

自分も「物語」の主人公にならねばならない

 

でも、自己アピールを書く際とか、そのように人を魅了できるだけの「物語」が自分にもなければならない。

今の時点ではモブキャラレベルに過ぎないが、そこから他人にも主人公として認められるくらいにならねばならない。

 

そのためにはもう、「ふつう」ではいられない。

自分の個性を探して、それを他人に認められるくらいにしなければならない。

 

自分も、フィクションやドキュメンタリーの主人公みたいにならなければならない。

 

決して悪口ではない「常識人」「まとも」「ふつう」という評価。肯定的評価だが、「没個性」「つまらない」の裏返しでもある。

「ふつう」な私だが、これからはこれを打破できるだけの個性を、探したり作ったりしてぶつけて行こう。