どこかのT大生の思考

不定期です。旅行と考えることが好きなT大生が、たまーに駄文を公開します。自身の生に関する思いを述べる「自省」、旅の思い出を記す「旅記」、社会に対して言いたいことを唱える「主張」、人間関係の悩みを書き散らす「拗人」、その他自分の姿や趣味などを自由に語る「特筆」の5つ。

[主張22]「意識低い系学生」の思考

学生なら、ひたすら学ぶだけでいいだろうが。

 

 

「意識高い系」とは対極

 

私は「意識低い系」を自称する学生だ。

 

いわゆる「意識高い系」とは対照的だ。

高い理念を持ったり、「社会を良くする」とかそういう系の学生団体に所属したり、学生のうちから事業を立ち上げたり、団体のトップに立って牽引したり、長期インターンで活躍したり、むやみやたらと外資コンサルを目指したり、そんなことは一切しない。

自分の生まれた以外の特定の地域に密接に関わり、「この街を活性化させるんだ!」なんて思ったりしない。「学生として」「地方創生」のためにチャレンジしようなんて思わない。日本各地を旅行して、たまにそこで働いてみて、人と知り合って、それだけ。

海外留学はしない。海外でなんらかの慈善事業もしない。「海外で困っている人を助けたい」とは思っていようが、学生のうちは行動なんてしない。

総じて「学生という立場を生かして、人の役に立ちたい」なんて思わない。学生の分際で「多くの人の役に立つ」なんて思っていない。学生のうちは自分さえ良ければいい。自分のことしか眼中にない。極めて自己中心的。

 

こんなだから、某活においても不利である。

 

だが、何が悪いんだ。「意識低い系学生」で何が悪いんだ。

 

なお、この文章は決して個人の行動を否定するものではない。あくまでも「意識低い系」の戯言だと思って、読んでいただきたい。

 

 

学生、学んだり楽しんだりしてばっかで何が悪い

 

「学ぶ生き物」と書いて「学生」。学問を修め、考える者のことだろう。

学生の本分は、勉強や研究だ。講義を受けて知見を獲得し、演習を通して議論し考えを深め、実習や実験により真実を知り、色々な本を読んでさらなる知的刺激を得、論文を書いてまとめる。

学友との交流も、学生ならでは。サークル活動などを通して楽しむのだって、学生の特権だ。長期間の旅行だってそう。これも、ある意味「世界を知る」という意味で「学ぶ」取り組みだ。

交流して、いろいろな知識を「インプット」して、考える。これでこそ、学生ではないだろうか。

 

ところで世の中は、某活に臨む学生に「学生時代に力を入れたこと」を求める。

運動会の所属経験だったり、学生団体のリーダー経験だったり、ビジネスコンテストの入賞記録だったり、ボランティア経験だったり、慈善活動の経験だったり、バイトやインターンの実績だったり。

勉強や研究以外の、「なんらかのすごい活動」すなわち「アウトプット」を求めてくる。それも、専攻や研究のテーマすなわち「インプット」した内容と、全く関連のないものを。

 

……は? なんでだよ。ふざけるなよ。

「学生」なのだから、「力を入れたこと」として求められるのは普通だったら勉強や研究とか、「インプット」もしくは「考えること」だろうが。

んで、勉強しかしてないと「勉強しかできない堅物」とか「社会不適合者」とかレッテルを貼られるんだろ。

「学生」なんだよ。勉強ばかりして、学友との交流ばかりして、考えてばかりで、何が悪い。

 

しかしどうやら、世間は「インプットばかりしている学生」を認めてくれないようだ。

全く世知辛い。頭がおかしい。

 

……だが、それでも私は「意識高い系」になろうとは絶対に思わない。

たとえ某活で不利だろうが、私にとってベストな学生時代の生き方は「インプット」なんだよ。自分が好きでもない無駄な「アウトプット」なんて、したかねえんだよ。

 

大学にいて素晴らしい講義を聞くことができ、素晴らしい図書や論文へのアクセスが確保され、素晴らしい学友がいる。課外活動の面でも、補助金の出る学習プログラムはあるし、サークルを通していろいろな世界を知ることができるし、なんだって「自分の楽しさのためにやる」サークルの活動は楽しい。大学は就職するまでのモラトリアムで、サークル活動や友人との遊び・飲み会なんかも学生の特権だ。優秀な友人との交流は、知性を豊かにし世界を広げる。

こんな最高の「インプット」の機会を、生かさないでたまるかよ。いくら生かしても、生かしきれないよ。

 

こんな貴重な時期を、「インプット」した内容と直接に関わらない「アウトプット」に活かしてばかりでいられるかよ。

4年しかない学部生活を、よくわからんビジネスとか、某活のために渋々やる「意識高い系の事業」とか、「社会貢献」とかに費やしたくなんかねえよ。某活のために授業を切るなんて論外。ふざけるな。

そんなだったら、もっと有意義な「インプット」をさせてくれよ。目先の某活のために、学生生活を無碍にしたくなんか絶対ねえよ。

 

「学生」という身分でできることを享受して、卒業の時にゃ十分「インプットした」「学友と交流した」「考えた」って実感を持って、自信を持って大学を出ていきたいんだよ。

 

 

学生の分際で、社会問題の解決なんて

 

私の関心は、都市社会学・地域社会学だ。

 

これに関連して、「地方創生」というワードを見る。「地方創生インターン」という単語列を見かける。「学生の視点をもって地方創生!」というフレーズを見る。「都市で生まれたけど、学生のうちに地方創生に関わりたい」という言葉も聞く。

 

……なんだそりゃ。

 

実務経験なし、その地域に長く滞在した経験なし、その地域の人と深く関わった経験なしの「学生」が、そんな壮大な「地方創生」なんでできるのか?

そもそも、外部のよくわからん学生が勝手に考える「創生」が、地域の人の求めることとたやすく合致なんてするか?

「地方創生」がそんな簡単だったら、こんな困ってなんかないだろ。

 

もちろん、それができるすごい学生だっている。尊敬する大学の先輩なんか、その例だ。

だが、大抵の学生はそんな有能じゃないだろう。有能でもない学生が「社会問題を解決する!」って言ったって、もはや戯言に過ぎないだろう。

 

学生にできるのは、せいぜい「実情を知る」「問題解決が容易でないことを知る」くらいだろう。逆にそれ以上のことを、(とりわけ「社会問題」「地域活性化」「地方行政」「地域計画」を専門にしているわけでもない)一介の学部生に求めたところで、ナンセンスだ。

地方創生には「若者・よそ者・馬鹿者」の視点が大事だ、という言葉がある。だがこれは「視点が大事」というだけで、「若者・よそ者・馬鹿者」が結論としての解決策まで導けるわけがない。疑問点を提示して、それだけで引っ込むのみ。

 

とある社会人の方にお話をお伺いした時、「社会問題は『自分が困っている』という意識なしに解決できない」と仰った。これに対して学友が「原体験ハラスメントでは」と言った。

どちらの言い分もよくわかる。だが、私も社会問題を「困っている」という当事者意識なしに解決はできない、と感じている。社会問題を解決するには、その「当事者意識」を養う必要がある。

そのためには、実際の当事者を深く理解し、深く関わる必要があるだろう。でもそんなの、実地経験のない学生にゃ無理ではないか。

それでもどうしても社会問題を解決したいのなら、ひたすら「インプット」するのみ。それに社会問題の解決は、学生のうちじゃなくてもできるし、むしろ何らかの地位に立ってからの方がしやすいと思う。

 

無理に「学生の視点を生かして社会問題を解決する」なんて意気込んでも、それは(専門にしている学生でない限り)徒労に終わるだろう。「学生が社会問題を解決できる」というのは、幻想だ。

社会問題を語るだけなら、学生だってできる。むしろそれは学生の方がいいかもしれない。だが、それに対して解決策を提示するのは学生でなく、教授レベルもしくは行政アクターもしくは地域住民の側だ。

 

実は私、「地方創生インターン」系のイベントに興味ないことはない。しかしそこに「自分が活躍する」という思惑はかけらもなくて、ただ「地域の実情を知りたい」「地域の人と交流したい」「学びを得たい」それだけだ。旅行だってそう。

都市社会学・地域社会学の観点をインプットした上で、地域の実情もインプットし、ひたすら分析し考えるのみ。私はそれだけでいい。というか、学部レベルの自分にはどうせそれしかできない。アウトプットはできない。

 

無駄に意気込んだって、何にもならない。それはエゴイズムだ。表面的だ。

それを自信満々に言っている人は、どうせ薄っぺらい。

どうせなら、就職してからやればいい。

 

 

海外志向、なぜなのか

 

意識高い系の日本人は、なぜか海外をひたすら志向する気がする。

海外留学をする。外資コンサルや外資金融を志向する。就職後、海外進出を目論む。

 

意識低い系の私には、それがなぜなのかよくわからない。

 

私は、日本が好きだ。そして将来(ここ大事)、日本の役に立ちたいと思っている。かけらも海外で働きたくなんてない。日本にいたい。

それは、海外が嫌いだからではない。海外が怖いからではない。むしろ海外には行ってみたい。だが行くだけでいい。働くなら、日本のため、日本で。

それで何が悪い。海外志向であってこそ「すごい」と思われる風潮があるとしたら、よくわからない。

 

私は高校時代からずっと、留学に行くつもりがかけらもなかった。というのも、必要となる莫大な費用と時間に見合った効用を得られる確信が、持てなかったからだ。

海外への留学は、「日本では学べないようなレベルの学問」や「海外学生との関わり」のために行うものだろう。それ自体は素晴らしい。だが、それにしては費用と時間がかかりすぎる。

それなら、日本でコスパ良く別のことをインプットしたっていいのでは。それだって評価に値するのでは。「留学経験」がすぐに社会的評価に関わるとしたら、よくわからない。

 

海外で困っている人がいる、というのはわかる。だが、それを学生の分際で解決しようと(何らかのアプローチをしようと)思わないのは、前の章で述べた論理と同様だ。その地域の実情を知らずして、安易に「解決する!」なんて意気込むのはよくわからない。

 

海外に行くなら、「そこの実態を知って考えたい」「そこの人と触れ合うのが楽しい」「今の学友と一緒に行くのが楽しい」それだけで十分立派だろう。それ以上を無闇に求める必要は、それほどないと思う。

そして、コストの高い海外経験は、それだけで社会的評価の要因たるべきではない。

 

 

学生のうちくらい、自己中でいさせて

 

ノブレス・オブリージュ」強者の弱者に対する社会的使命。この理論に則ると、「学び」という資源を享受している学生は、それがしたくてもできない立場の人のために、何らかの「アウトプット」をする使命を持っているということになる。「誰かの役に立つ」というものだ。

しかしその「アウトプット」の使命は、別に学生のうちに果たす必要はないだろう。むしろ社会人になった後に十分に「アウトプット」できるように、今は恵まれた資源を生かして「インプット」することこそが、最適なのではないか。

「やらない善よりやる偽善」とは言うが、偽善は偽善だ。ちゃんと善をやりたいなら、学生という中途半端な立場で「意識高い系」になるのではなく、今はひたすら「インプット」に集中し、しかるべき時になって初めて「アウトプット」するのでいいのではないか。

 

だから、学生のうちだけは、自己中心的でいさせてほしい。

自分がより学問的教養を備えた人間になるために、社会的貢献など「アウトプット」ではなく「インプット」ばかりして、ただ自分だけが得をしていく状況を、許してほしい。今だけは、学ぶばかりであることを許容してほしい。無駄な「アウトプット」を求めないでほしい。

しかるべき時になってから、そこで得たことと実務経験をもとに「アウトプット」した方が、よっぽどいいと思うから。

 

あと、「アウトプット」できる人材の育成は、企業の使命だと思うぜ。学校ってのは、本来就職予備校じゃないし、社会で役立つ知識ばかり教える場じゃないんだから。

 

一介の意識低い系学生の意見をまとめると、こうだ。

「アウトプットは後でやるから、今はインプットしてばかりでもいいだろ。意識高い系ってのはそのインプットを怠ってアウトプットばかりする、中途半端な人間なんだよ。あと、アウトプット能力はお前らが我々に与えるんだよ。」

 

私は、この面で「意識低い系」であることは、誇りにすら思う。

「意識高い系」には、絶対にならない。