どこかのT大生の思考

不定期です。旅行と考えることが好きなT大生が、たまーに駄文を公開します。自身の生に関する思いを述べる「自省」、旅の思い出を記す「旅記」、社会に対して言いたいことを唱える「主張」、人間関係の悩みを書き散らす「拗人」、その他自分の姿や趣味などを自由に語る「特筆」の5つ。

[主張23]「科学」への所感

科学って、何を目指して存在しているのだろう。自分は何を学んでいるのだろう。

「社会科学」「社会学」を学ぶしがない学部3年生なりに、思ったこと。恥ずかしながら科学哲学については無知なので、その点はご了承を。

 

 

「科学」の意味

 

私が専攻しているのは社会学、「社会科学」や「行動科学」の1つに数えられることがある学問である。

 

そもそもこの「科学」ってのは、一体なんなのだろうか。だいたい「科学」って言葉だけだと理科みたいなものを指すけれど、それなら「社会科学」ってどういうことなのだろうか。「科学」というくくりに纏まっているのは、どういうことなのか。「科学」の存在意義は何なのだろうか。

基本的なことだが、改めて自分なりに考えてみた。

 

「科学」という言葉をデジタル大辞泉で引いてみた。

一定の目的・方法のもとに種々の事象を研究する認識活動。また、その成果としての体系的知識。研究対象または研究方法のうえで、自然科学・社会科学・人文科学などに分類される。一般に、哲学・宗教・芸術などと区別して用いられ、広義には学・学問と同じ意味に、狭義では自然科学だけをさすことがある。サイエンス。

こう書いてある。どうやら「科学」というのは「種々の事象を研究する認識活動」「体系的知識」らしい。

そして多くの解説において、哲学は「科学」に含まれない。

 

さて、ここには、決して「現状の改善に用いる」といったニュアンスは含まれない。

科学の存在目的は、明記されていない。

 

そうだ。科学ってのは、本来何かを改善するために存在するのではなく、単に現実を究明するためにあるのではないか。

自然科学は人間の外にある事象、社会科学は複数の人間により構成される事象、人文科学は人間そのものや人間の産物としての事象を、究明する。

 

どうやら"science"というのはラテン語の"scientia"が語源で、これは「知る」という意味の"scio"の派生語らしい。科学とは「知る行為」、それだけ。「知る」という人間的な営みが刺激的で、研究を進めていき現象を解明していく、それだけ。

「知るって、面白い」それこそが科学の原点だろう。

 

物理学、化学、生物学、自然地理学、天文学環境学、薬学、医学(研究)、数学、経済学、社会学政治学、心理学(研究)、人類学、民俗学言語学、宗教学、歴史学、人文地理学とか。

 

 

科学と実学

 

だからこそ、科学に「現状の改善」などといった目的を求めるのは、根本的に異なる気がする。

「そんな研究やって何の意味があるの?」など聞くのは、科学に対する態度として必ずしも適切ではないのでは。だって、科学の意味は「現実を究明する」それに限るから。

その上で成果が得られたら、「技術」や「政策」(≠科学)という形で社会に還元する。そこまでは科学の役割ではない。

それゆえ、「現状を改善したい」と思ったら「科学」を学ぶのは遠回りだろう。科学を学んで「何も問題解決に結び付けられない……」と思うのは、それは仕方ないだろうって感じだ。

 

直ちに問題を解決したかったら、「実学」(≠科学)を学ぶべきなのではないか。「技術」のための工学、「教育」のための基礎教育学・教育政策学・教職課程、「法運用」のための法学、「政策」のための政策学、「経営」のための経営学マーケティング、「医療」「ケア」のための医学(臨床)・看護学・心理学(臨床)、「宗教的実践」のための神学。

これらは実践の前の分析において「科学」を含むこともあるが、「解決策」を提示する以上は純度100%の「科学」ではないと思う。でも実学って、そういうものだと思う。

 

科学によってその問題のメカニズムを究明した上で、実学を適用して問題を解決する方が、確実ではあると思う。でも一方で実学がないと、人々は科学が解明してきたことによる恩恵を受けられない。

「科学」も「実学」も必要。どちらが上とかそういうのは無い。

経済学者も社会学者も医学者(研究者)も必要だし、政策のプロも設計のプロも医療のプロも必要。そして前者「専門家会議」と後者「政府」「実践者」において役割分担がしっかりなされてこそ、最大限の力が発揮されると思っている。経済学者が政策のことを考えすぎるのも、政府に「医学的事実こそがすべてだ!」と迫るのもナンセンスではないか。

……大学において「科学」と「実学」の両方を十分に学べないのは、まあ残念ではある。(ちなみにもし院進するとしたら私は実学を学びたい。)

 

ところで、社会学の授業においては、たびたび都市計画や建築の話が登場する。また、社会学において語られるコミュニティ論については、交通政策の面からも捉えられる。

バリバリ文系学問である社会学社会心理学と、理系に分類される都市工学・土木工学(社会基盤学)・建築学ってのは、「科学」と「実学」という軸において非常に近い存在だと思っている。「人間生活」という共通対象に対して「分析重視」か「デザイン」か、という違いのみだろう。(ここで、私が進学選択において工学部建設系3学科と文学部社会学専修・社会心理学専修で迷いまくったことも説明がつく。)

……じゃあ、なんで都市工学・土木工学・建築学って日本では理系に分類されるんだろう。構造力学とか物理の知識が必要なのはわかるが、社会科学的視点もとてつもなく重要だと思われる。これらと電気電子情報や応用化学が同じ「工学部」「理系」として括られているのも、なんか自明とは言えない気がする。

 

「人文科学・社会科学・法学・政策学・経営学・哲学など」

「自然科学・工学・医学」

という形の「文系」「理系」の対立より、

「人文科学・社会科学」

「人間相手の実学

「自然科学」

「自然科学の成果を活用する実学

という対立の方が、本質な気がした。

これに則ると、建設系工学は「生活のデザイン」という側面で政策学や経営学に近いのかも。一方、医学なんかは下3つすべてにまたがりそう。そら大変だわ。

 

 

科学とイデオロギー・倫理

 

また科学は、イデオロギー的主張のために存在することも、特定のイデオロギーに基盤を置いて存在することも、適切ではない。研究倫理を除く倫理とも、できるだけ独立である必要があると思う。

科学は本来、価値中立であるべきだろう。「現実を究明する」だけなのだから。それが「この科学的事実が存在するがゆえにこれは善いことである」「これは強化されるべきだ」となった瞬間、それは自然主義的誤謬に他ならない。「事実」と「適切不適切」「善悪」は全くの別物。

 

最近、某政党がダーウィンの進化論を持ち出して「だからこそ憲法改正が必要である」とほざいていたが、まあ不適切極まりないだろう。無学な文系大学生の私だって、この言い方が許されてはならないってわかる。進化論自体を誤解していたのは言語道断だが、たとえ正しい意味で用いていたとしても、科学的事実を価値中立でないイデオロギー的主張において用いるのは許されるべきではない。だいたい、自然科学由来のダーウィニズムとかを政治において用いることがいかに危険か。優生学につながる。「生産性」とかいう指標を持ち出して、障がい者とか同性愛者を排除することにつながる。いやまあ今の社会でそんなの許されるわけないでしょ。

社会科学や人文科学についても同様。階級対立というイデオロギーを前提としたマルクス経済学と社会主義、これらは100%適切と言えるか。国語学で「ら抜き言葉」の存在が説明されたからといって、ら抜き言葉は直ちに廃止されるべきなのか。

 

倫理については、科学に影響されて一般的倫理が変わってしまっては不適切だろう。私は倫理については無学なので確実なことは言えないが、例えば「科学はこのような成果を生んできて素晴らしいので、科学の成果は無制限に適用されるべき」となってしまうのは安直すぎる。倫理は科学およびその成果に影響されすぎず、存在する必要があると思う。

逆に、倫理を理由にして科学が制限されるのは一定程度までは必要だろうが(研究倫理とか)、制限されすぎるのも問題だろう。例えば「動物の権利」を理由に動物実験が完全に禁止されて生物学が停滞する、「被験者の権利」を理由に治験ができず薬学が停滞する、といったものは望ましくない。社会科学や人文科学も同じで、「被調査者の権利」を考えすぎると何も生まれない。

倫理を理由に「実学」が制限されるのとは訳が違う。確かに、政策や技術などの実学は倫理と向き合わないといけない。でも、事実を究明する科学の場合、「究明」において倫理に影響されすぎるのはどうなのだろうか。

 

科学的事実・成果を政治的主張に持ち込むこと自体が批判されるべきかというと、私はそうは思わない。自然科学によって解明された災害可能性、社会科学によって解明された人口減少とそのメカニズム、人文科学によって解明された日本の文化構造、これらは確かに政治的主張に還元されるに値する。

ここにおいては、科学の「使い方」と「イデオロギー性」こそが問題となるのだろう。「科学によって存在が明らかになった問題点を政治的に解決する」それだけなら、恐らく問題ない。「科学的事実がイデオロギー強化のために恣意的に用いられる」「特定のイデオロギーを前提として科学が構築される」「科学と倫理が干渉しすぎる」ことこそが問題だ。

……うーん、難しい。

 

これは、私自身が反省しなくてはならない。

私はこれまで社会科学のレポートを書いたことがある(当然)が、高校時代および大学入学初期のうちは「自分の『こうあるべきだ』『これが適切だ』という主張を述べなければならない」という、謎の強迫観念みたいなものに囚われていた。結果として、「科学」としては不適切極まりない書類たちが複数生産された。主張を入れることが許される政策学の授業は、1コマしかとっていないのに。

今考えてみると、非常に恐ろしい。別に社会科学だって、自然科学と同じで「こうだったよ」ってだけでよかったんだ。イデオロギー的主張(≠解釈)が入り込みすぎると、それは科学的ではない。

今後、このようなことは絶対に起こさないようにしたい。イデオロギー的主張じゃなくて、客観性のできるだけ担保された解釈のみに抑える。

 

ところで「倫理学」って科学なのだろうか。

私は、「その歴史や体系を究明する」という側面では科学でありつつ、「〇〇すべきだ」「〇〇がいい」というのが現れる側面においては科学ではない、と思っている。

でも、だからといって不要なわけはないだろう。人間生活の根本とも言えるものだろうから。常に考えねばならないものだから。

 

 

科学の方が、自分には面白いらしい

 

東大の前期教養において、とてつもなく印象に残った授業が1つある。それは1Aで履修した「社会システム工学基礎I」の全13回の授業のうち1つ、「渋滞学」に関する授業だ。

その授業においては最初に、認知症(神経のタンパク質)と交通渋滞(自動車)と人の流れ(人間)と在庫・流通(物)はすべて数理モデルとしての「渋滞モデル」をもとに捉えることができる、と述べられた。なお工学の授業なので、その後に交通工学における実践が語られた。

先生の言うことは確かだった。自然科学・社会科学の垣根を超えて、さまざまな現象が単一の普遍的モデルによって語られるのである。(工学の授業とはいえ、これ自体は工学ではなく物理学的モデルだろう。)

衝撃的だった。感動した。目から鱗だった。科学に対する見方が変わった。「かがくのちからってすげー」とあれほど強く思ったことは、そんなにない。

 

私は、「現場主義」という信念のもとで様々な「活躍する人」からお話を伺う授業を、履修していた。それも決して忘れることのできない授業だ。

とても面白かった。得るものは多かった。履修してよかったと心から思っている。……だが、なんかモヤモヤする部分があった。

その授業が終わってしばらくして、そのモヤモヤに気づき始めた。その正体は「断片的知識しか得ることができず、体系的知識に結びつきづらい」「現場のアクターゆえ『科学』的な説明ではない」「イデオロギーが含まれる」という部分だった。

要は「科学」ではなかった、ということである。体系化されないがゆえに、「ふーんそんなのがあるんだ興味深いね」で終わる。他の学問分野と結びつきづらい。

 

社会学の先生が語ることは、しばしば刺激的だ。

とある先生は、「脱工業化社会において福祉政策は従来のような意味を持たない」と論じた。理由は非常に納得できるものだった。無根拠に「福祉国家は良いことであり意味のあること」と自分が思ってきたのは必ずしも正しくなかった、というのが判明した。

私が「地方創生」に対して疑問を抱いている中、とある先生は「地方創生戦略は『人口減少』という真の問題に対する解決策にはなっていない」と論じ、増田寛也の『地方消滅』を批判した。理由は非常に納得できるものだった。2年前に読んだ時に半ば無批判に『地方消滅』を受け入れてしまった自分の浅学と思慮不足に、反省の念を抱いたまでだ。

現場アクターや偏った政治的主張を持つ人と異なり、「科学」における学者の意見というのは、その問題の根本から考えさせてくれる。

 

前期教養において100優上をとった2つの授業は「記号論理学I(文科生)」と「ジェンダー論」だった。

記号論理学ってすごい。人間にとって不可欠な言語活動・論理を、特定の自然言語に限らず、「記号」という形で普遍化する。

ジェンダー論ってすごい。今まで知らなかった「そこにそのような問題がある」という事実を、メカニズムから解明している。

 

思えば、高校までの国語や英語の授業において一番好きだったのは「文法」「品詞分解」であった。個人における技術としての「読解力」や、個々の独立した知識として終わりがちな「単語知識」より、体系知識としての「文法」の方がよっぽど「自分の中の世界が広がる」と思ったものである。結果として、今なお単語知識が壊滅的な中、文法はたぶん得意だ。n外もそう。

数学は、公式を覚えるだけでは物足りず、なぜその公式が成り立つのかを知らないと気が済まなかった。小手先のテクニックだけでなく、その裏の理論も知りたかったのだろう。

 

私はブログを書く際、「自身の考えや経験を体系化・一般化した記述」というのを好む。[主張6]においては「友達」の役割を類型化し、[自省6]においては自身の感情における変化を「ひねくれ」という軸にまとめた。

utok-travelandthinking.hatenablog.com

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たぶん、一般化した理論を導くのが好きなんだろう。

 

総じて、「一般的理論の導出」「知識の体系化」「根本まで遡った上での分析」が好きなんだと思う。

だから私にとってはたぶん、法学や工学よりは「科学」の方が面白い。実際、社会科学とか国語学は面白い。

まあ、まだ学部生だしよくわからないけど(それを言い訳にするな)。

 

 

社会学とはなんぞや

 

さて、私が専攻しているのは一応「社会学」だが、この「社会学」というのは一体どのような学問なのだろうか。

 

授業をとっている限りだと、「社会学理論」と「社会調査法」の2つが大きな軸に思える。……いやまあまだ学部生だしよくわかってないけど(だからそれを言い訳にするな)。

前者は社会学史とか連字符社会学(都市社会学とか教育社会学とか)で、まあ「科学」なのだと思う。それに対して後者は方法論なので、若干「実学」の側面がありそう。一方で後者についても統計とか事例研究の適切性とかが扱われるため、「科学」の側面も含むはずだ。

 

んで、「理論」の側面について。

社会学史において過去の偉人の提唱した社会学理論が紹介されるが、その人たちはしばしば「哲学者」とも呼ばれる。さて、哲学というのは「科学」には含まれない。

例えばユルゲン・ハーバーマス。批判的社会理論で公共性の構造転換・衰退やコミュニケーションにおける妥当性要求について述べていて、それは「哲学思想」とも捉えられる。なのに社会学で取り上げられ、まさに私自身が「ハーバーマスさん理解できません」ってなってるところだ。

あとジョージ・ハーバード・ミード。プラグマティズムという哲学に依拠して、シンボリック相互作用論を述べているわけだけれど、これも社会学理論とされる。

……社会学という「科学」と、哲学という「非科学」の境界線って、どこなんだ?????

 

デュルケームの『自殺論』に影響されて社会学における実証主義に感化された(?)時には、「実証によりそれが真だと証明できるかできるかどうか」こそが境界線だと思ったものである。これは科学の定義における「反証可能性」というのに通じるのかもしれない。

でも、例えば社会学者・パーソンズの「AGIL図式」を明確に実証・反証することはできるのか。社会学者・ルーマンの「社会システム理論」を明確に実証・反証することはできるのか。社会学者・ウェーバーの「資本主義はプロテスタンティズムの倫理ゆえに発達した」を明確に実証・反証することはできるのか。そもそも「実証」を重視することは解釈主義との対立を生むが、それでいいのか。

 

……よくわからぬ。まあ、どちらも「体系的に捉える」ってのは共通している一方、社会学の方が「現実社会の分析」への応用可能性が確保されている、ということか。

 

続いて「調査法」の側面について。

社会学とジャーナリズム、どちらも現実社会を対象とした分析を行う。ジャーナリズムというのは、多く「科学」の名のもと行われるものではないだろう。

……社会学という「科学」と、ジャーナリズムという「科学とも限らないもの」の境界線って、どこなんだ???

 

ある先生は、「社会学理論の体系を踏まえた分析か、その対象だけで終わる記述か」といったことを挙げられた。ある先生は「先行研究を参照するか、参照しないか」「重要性が必要か、面白ければそれでOKか」といったことを挙げられた。またある先生は、「ジャーナリズムでも社会学の論文に匹敵するものがある」と述べられた。

あとはまあ、調査という「実学」において「科学的手法」が取られることも、社会学という「科学」では必要なのだと思う。最近だと某メディアの調査結果改竄(?)が問題になっていたが、これは絶対に科学ではない(まあ適切なジャーナリズムですらないと思うけど)。適切なサンプリングや事例研究でなければ、それは「社会学」という「科学」の名において語られるべきではない。

 

まあ、「単なる記述にとどまらぬ理論の存在」「先行研究の上での分析」「重要性を踏まえた対象選択」「科学的手法」は、社会学を学ぶ上では意識しておくべきなのだろう。

 

 

社会科学 vs. 社会改良

 

社会科学は「科学」であり「実学」ではないので、現実社会の改良を目的として行われるべきではないと思っている。

だから社会学も、「その社会を変えること」それ自身を目的とすべきではないと思っている。

 

ただ社会調査を伴う社会学の場合、人間という流動しやすい存在を対象とした調査を行うことで、調査の実施がなんらかの変化を対象にもたらすことがあるはずだ。これが自然科学との違いだろう。それにこの結果は必ずしも良い方向とは限らない。例えば地域ごとの所得格差・意識の格差があったとして、それが調査により明らかになると、それだけで人々の中に地域に対する偏見や心理的対立が生まれるかもしれない。そこに技術や政策などのための実学が入ってくる前に。

ジェンダーに関する社会学は、これが顕著かもしれない。他の分野の社会学が「社会はこんな感じだよ」でとどまるのに対して、ジェンダー論の話では「社会はこう変わった方が良い」というものがなんか存在するような気がしてしまう。そしてジェンダー論を学ぶことで、我々の中には問題意識が発生し、行動も変わってくる。これは「改良」なのだろう。この側面、なんか「科学」として考えるにあたって難しい問題のような気がする。

でも、そういう側面があるからといって、「社会学者」という称号を良いことに「〇〇すべき」「××は悪」と堂々と主張することは決して「社会学」として認められるべきでないと考える。前述の通り、科学がイデオロギーや倫理と密接に結びつくことは危険であり、これは社会学でも変わらないと思う。だからこそ、「ジェンダー社会学者」である上野千鶴子氏のフェミニズム発言を挙げて「社会学はクソ」と結論づけるのは誤りであり、「マルクス主義フェミニスト」である上野千鶴子氏の発言として「フェミニズムはクソ」「上野氏自体が問題」と結論づける方がよっぽど適切であろう。こんなんで「要らない」とか言われるのは社会学にとってとばっちりではないのか。

ただ、「〇〇は意味がない」といって政策を批判することは、社会学という科学の名において可能であろう。「〇〇は意味がある」とは言えないが、現状の分析としての「〇〇は意味がない」ならできる。だからこそ、地方創生戦略や福祉国家について語る社会学の先生の意見は、非常に鮮烈なのである。

 

また、「調査されることは根本として迷惑」とは聞くものだ。「調査公害」という言葉も聞く。不適切な調査はフィールドにおける人間関係の崩壊や、研究に対する不信の念も生んでしまうかもしれない。それこそ「この社会を変えてやるよ!」という感じでズカズカとフィールドに入っていったら、それは迷惑以外の何者でもないはずである。「社会改良」どころか「社会破壊」。

ここにおいて、調査を伴う社会学をやるなら「科学としての立ち位置」以上に「フィールドへの影響」を考えなければならないのかもしれない。

 

……誰かが「社会学は社会改良のための学問である」と言っていた気がする。

そもそも「社会問題」という〈決して価値中立でない概念〉が存在すると考えられて初めて、社会学の領域が設定されるのかもしれないし、根本として社会改良の意識が存在しないと社会学も生じないのかもしれない。(これが人類学との違いかと思う。)

このような認識と、「科学」としてのあり方との折り合いは、社会学をやるなら考える必要があるのかもしれない。

 

 

実学イデオロギー・倫理と安易に結びつかないよう意識しつつ、哲学やジャーナリズムとの違いも意識しつつ、「社会学」における「科学」的研究を学んでいきたいものだ。