どこかのT大生の思考

不定期です。旅行と考えることが好きなT大生が、たまーに駄文を公開します。自身の生に関する思いを述べる「自省」、旅の思い出を記す「旅記」、社会に対して言いたいことを唱える「主張」、人間関係の悩みを書き散らす「拗人」、その他自分の姿や趣味などを自由に語る「特筆」の5つ。

[主張24]所詮バカなんだよ人間は

みんな違って、みんなバカ。こんなこと言ってる私だって大バカ。

 

 

社会の大多数は……

 

東京大学という空間に暮らしていると、忘れてしまいがちな事実がある。

それは「世の中の大多数の人間は、それほど深く考えずに生きている」ということだ。

 

東大生の多く(クソデカ主語)は、自分のこれからの身の振り方を思い悩み、政治に関して自分なりに考えた上で意見を持ち、かつさまざまな意見に寛容であると私は感じる。そしてそれに刺激されて別の東大生も、深い問題について考えるようになるのかもしれない。

一方で東大の外などでは、その時の楽しさのみを考えて真面目な話を「そんな難しいこと考えてもつまんねえぞ!」と突っぱね、「〇〇が言っているから」「個人的に××が嫌いだから」といった薄っぺらいことで政治的意見を決め、自分中心に世界が回っていると勘違いして自分に合わない意見を「お前が何を言おうとお前が間違ってるんだよバーカバーカ」とすべて突っぱねる、そんな人も少なくないのではないか。言ってしまえば「バカ」である。……もちろん東大の中にだって、こういう人はいると思う(ここ大事)。

こういうバカは、いかなる正論も言ったところで聞く耳を持たない。「考えること」を「つまらないこと」「めんどくさいこと」と捉えているので、深く考えることなんてしない。

 

そして、そういう人が「世論」を形作り、また選挙を通して国政に影響を与える。

仕方ない、今の日本の民主主義社会では普通選挙・平等選挙が原則で、よく考えている人であれ脳死で投票している人であれ同じ価値の一票を持つんだから。

だから、非常に残念なことに、バカを無視することはできない。

 

 

「社会を変える」とかいう無謀

 

「社会を変えたい」という言葉、たまに見かけるものである。

だが、私の持論は「そんな簡単に社会を変えられたら苦労しねえよ」「社会なんざ一個人が変えられるようなもんじゃねえよ」というものである。少なくとも、1年とかそういうレベルで変わるものじゃない。てかCOVID-19が流行して社会が大きく変わりかねない今ですら、「出社こそ正義‼️」「ハンコなきゃダメ‼️」みたいな古い考えしか持たない執行部は残っているんだろうし。

この「社会」ってのがどういうレベルの概念なのかによるが、少なくとも「地域社会」「高齢者重視の社会」「日本社会」みたいな大きいスケールの社会だと、変えるのは困難ほかならない。

 

いやだってさ、どんな正論をかざしてもさ、聞く耳を持たない人間にはかけらも響かないじゃん。どうせ「いや俺は今のままでいいし面倒だしよくね?」「俺に口ごたえするなんていい度胸だな、消えろ」「お前にそんなこと言う権利あるん?笑」って言われて終わるんじゃん。馬の耳に念仏。

社会にはバカが一定数あるんだよ。そういう奴を変えるってのは99%不可能だから、社会ってのはそう簡単に変わらない。

「社会を変える」みたいな文言を見るたびに、恥ずかしくさえなる。

 

……ただ、この難しい「社会を変える」という行為であるが、3つのやり方でならできるかもしれないと私は思う。

1つは「国レベルの最高指導者になる」。独裁が親裁かを問わず、特定社会に普遍的な制度を権力をもって変更してしまえば、その社会は変わらざるをえない。例えば極端な話、「COVID-19罹患したら死刑ね❤️この政策に逆らっても死刑ね❤️」みたいにしたら、社会は感染を極力避ける方向に変わるはずである。

続いて「有能な状態で10年単位くらいの長期間にわたってしつこくずっと努力する」。一般論としてしつこい人はめんどくさいから、しつこく続けると相手方も妥協するかもしれない。ただ妥協を引き出すには、自分の側もそれなりに有能で、それなりの真っ当な意見を提示する必要がある。

 

 

人間というバカに適合的な「マスメディア」という害悪

 

もう1つは「マスメディアを牛耳る」である。

 

バカは自分で考えようとしない。その時に何を頼りにするかというと、これまでずっと情報源としてきたマスメディアである。

マスメディアにまつわる問題については面倒がって考えることをせず、マスメディアが垂れ流す情報を「すごい人が言ってるから」みたいなノリで鵜呑みにする。そんで誰かがそのマスメディアを批判しても、その人はマスメディアと比べて劣ると考えて(もしくはそもそも自分の意見をアップデートしようと一切思わなくて)無視する。

だから、マスメディアは行政以外でバカを動かすことができる、ほぼ唯一の手段なのである(と過激な私は主張する)。

 

私は、マスメディアが大嫌いである。……とはいっても、マスメディアが提供するバラエティやドキュメンタリーやドラマやアニメがすべて嫌いってわけではない。マスメディアの「ワイドショー」「ニュース」が嫌いなのである。

それはやはり「自分にとって都合の良い情報しか流さない」言ってしまえば「偏向報道をする」からである。それを通して、自分の思いのままにバカな視聴者を操作できる。

自粛警察の横行やGo Toキャンペーンに対する的外れな批判の横行も、マスメディアのせいだろう。人というバカは不安や鬱憤が溜まると、ひたすら他人を叩くことで満足を得ようとするものであり、その心理につけ込んで「〇〇は悪」というイメージを植え付けてしまえば、みんながそれを深く考えずにひたすら叩くようになる。それは歪んだ「世論」となり、場合によっては適切な政策までも潰すこととなる(種苗法改正反対の件などは象徴的だろう)。

 

高3の時、現代社会の授業で「賛否が分かれる政策について新聞の社説を参考に自分なりに考察する」といったものがあった。私はそこで「カジノ法案(特定複合観光施設地域の整備の推進に関する法案)の是非」をテーマとした。私は長所および短所を勘案したうえで「賛成」という意見を持った。

……しかしながらいざ新聞の社説を見てみると、ことごとく「反対」ばかり!!!!! 読売・朝日・毎日・産経・日経のほか名だたる地方紙も揃って「反対」で(てか朝日と産経が同じ意見なんだぜ!)、20個くらい当たってみて「賛成」だったのは北國新聞ただ1つだけだった。「反対」の根拠として「依存症の人が増えて問題になる」「人の不幸で儲けるなんて非道」とかあったのも印象的。いやその理論だと公営ギャンブルパチスロもダメでは。

さすがに不可解だったので少し調べてみると、どうやらパチンコ店からの広告収入とかいう存在が関係していると。IRが合法化されてしまえば、現存するパチ屋は上位互換が生まれるため大損害である。だからパチ屋はIRに猛反対で、その業界が莫大な広告料を払いつつ出稿しているから新聞社は逆らえず、結果として偏った報道となると。……民間だから仕方ないのかもしれないけど、これがマスメディアの実態。

ちなみに、「賛成」の持論と「反対」ばっかの社説を紹介したうえで受講者に是非を問うと、綺麗に賛成と反対で半々に分かれた。これはメディアが「反対」ばかりなのとは違っている。さすが、頭のいい高校だけある。ちゃんと自分で考えて結論を出してるようだ。

 

……とか偉そうに言ってきたけど、私だって相当なバカだ。全知全能の神とかではなく何も知らないバカなので、報道(すなわちマスメディア)がないと情報に触れることができない。そして、たまにその報道を無批判に受け入れてしまう。

マスメディアの問題点は分かっているし、それに振り回されるバカにはなりたくないと思いながらも、バカなのでマスメディアから完全に離れることができない。うーん。

 

 

バカに合わせなきゃいけない

 

相対的にバカでない人間であっても、マスメディアを盲信するような相対的にバカな人間のことを、完全に無視することはできない。真っ当な理由で行動した場合であっても、バカに難癖を付けられ、それが原因でその行動を辞めたり謝罪したりせねばならなくなることがある。

それは、バカを変えるのは非常に難しいから。問題なく事を運ばせるためには、マスメディア以外が何を言っても変わらないバカが変わるのを待つのではなく、自分の側が変わらねばならない。

非常に面倒だし、非常に残念なことだ。

 

いつぞや、某巨乳キャラを用いた献血ポスターが炎上したことがあった。胸が現実離れしてデカいってのが燃えたんだっけか。公の場にこれを使うことが燃えたんだっけか。いずれにせよ、「バカ」が炎上させた事案だったと思う。

私自身は、ポスターに二次元キャラを使うのも、特定の部位を強調した絵を描くのも、すべて「表現の自由」であり否定されるべきでないと考える。というか私は二次元キャラが大好きなので、問題に思うどころか「素晴らしいじゃん」とすら思ってしまう。日本赤十字社は何も悪くないし、作者はもっと何も悪くない。

だが、あのポスターは炎上を招くこととなった。これは結局、「バカの存在の忘却」「ゾーニングの失敗」が原因といえるのではないか。すなわち、ポスターを出した日本赤十字社の考えが足りなかった、ということである。

社会の全員が適切に考えることができるまともな人間なら問題ないのに、やたら非難してくるバカがいるせいで、提供者は無難なものしか出せなくなる。そしてその「無難なものでないと非難される」という事実を忘れると、炎上して撤回や謝罪に追い込まれる。マスメディアが非難に加担し始めるとそれは悲惨だ。バカに合わせないと、面倒なことになる。

 

社会では全員が良識を持ってるわけではなく、理不尽な人間も存在する。だから「自分はこれが正しいと思う」で行動するだけでは生きられず、どうしても「社会的に黙認されるためにはこうしなければならない」で行動することになるのだ。

 

 

「他者理解」の難しさ

 

相対的にバカな人間は、相対的にバカでない人間を理解しようとしない。相対的にバカでない人間は、相対的にバカな人間の考えに共感できない。

これに限らず、一般に「他者を完全に理解する」というのは不可能に近い。みんなバカだから。これが私の持論である。

 

少しでも考えることができる健常者(この表現は可燃性が高いのであまり使いたくないが)であれば、誰もがそれぞれの「合理性」に従って行動している。例えば私の場合だと、「自分が楽しい」「自分が評価される基準となる」といったことで「自分の立場が良くなり自分が幸せになれる」というのを「合理性」の基準としている。一般に非合理的とされる行動(例えば純粋に利他的な行動)でも、別の側面(例えば他者からの感謝による満足感とパフォーマンスの向上)で見れば「合理的」だ。

だが、この「合理性」は人によって異なる。ある人は「社会貢献によって自分の存在意義を社会に還元する」を、ある人は「神の思し召しに従うことで死後救済される」を、またある人は「考えずに済み楽である」を「合理性」の基準とする。そして異なる「合理性」を持つ人間では、それぞれがその「合理性」を選択することに共感できない。例えば私は考える自己中なので、純粋に他者のために行動する人にも、宗教の教えを真摯に守る人にも、一切考えずに生きる人にも、完全には共感できない。

 

「合理性」に限らず、「感性」だって人それぞれである。例えば私は寿司・刺身や牛乳や生のトマトが大好物であり、蕎麦や茄子やセロリやオクラが好きでなく、また唯一どうしても食べられない食材がアボカドである。だが私の弟は寿司・刺身を好まず、私の従兄はトマトが大嫌いで、私の母は茄子とセロリを好物とする。私はどうしてもこの3人と分かり合えない。

 

人によって違うものといえば「経験」もである。例えば私は「知り合い女性の放った些細な発言」「1回だけ女性を好きになったが何故かすぐに冷めたという事実」「出会いだけは多いのに特に動かない感情」「人間関係の構築にことごとく失敗してきた歴史」などが原因となってかくも拗らせることとなったのであり、同様の経験のない人間には拗らせを理解されない(と考えている)。だが一方で、私は「相手がいるのに病んでいる人間」を経験不足ゆえ理解することができない。

 

他者の考えを理解することは難しい。人間はそれぞれの「合理性」「感性」「経験」に従って生きており、それを問い直す・手放すのは難しいから。他者の「合理性」「感性」「経験」に完全に共感することはできない、それだけ人間はバカだ。

 

 

そこで「理解しようとすること」の大切さ

 

難しいけれど、バカなりに理解しようとせねばならない。

 

「他者のために行動するなんて意味わからない」じゃねえ、そういう考えがあることを把握しろ。「茄子が美味しいなんて頭おかしいんじゃねえの」じゃねえ、感性は人それぞれだってことを自覚しろ。「相手がいるのに病むなんてふざけるな」じゃねえ、持てる人間ゆえの悩みもあることを想像しろ(これは自戒)。

 

そして自分の合理性・感性・経験を押し付けるな。相手に関する理解を放棄して「自分の考えこそ至高」となったら、それこそとんでもないバカだ。そもそも思想・信条の自由に違反する。そして自分以外の厄介なバカな存在を無視して行動すると、結局バカに非難されることになる。

 

 

他者に期待しないけど期待する

 

人間、すべての行動を完璧に成功できるはずがない。バカだから。

……そうなんだよ、だから他者に期待しすぎないほうがいい。誰だって完璧ではない、バカなんだもの。

……でも、それは自分だって完璧じゃないってのの裏返し。自分というバカだけで突っ込んでも、何もできない。だからこそ、自分以外の誰かに少しでも期待しつつ、頼らなければならなくなる。

難しいね。

 

せめて自分がバカであることを自覚しつつ、マスメディアに振り回されるなどバカのやる行動に染まらないよう注意しながら、生きていきたいものである。