どこかの元T大生の思考

不定期です。旅行と考えることが好きな元T大生が、たまーに駄文を公開します。旅の記録を語る[旅]、何かに対する見解や主張をぶつける[論]、自分の生き方について思いを巡らせる[憂]、趣味などについて書き散らす[雑]の4つのカテゴリーで。

[雑15]「非日常」に、魅せられて

非日常を支えたいし、非日常を味わいたい。

 

 

歴史の終わりに触れて〜最後まで変わらぬ「非日常」

 

2020年8月31日、私はとしまえんにいた。

94年の歴史に幕を閉じる、まさにその日である。

 

私は以前としまえんで目一杯遊んだ記憶もないし、強い愛着を抱いているわけでもない。ただ、訳あって最終日に行くこととなったのだ。

営業最終日であっても、としまえんは普通に遊園地であり、普通にレジャープールであった。入園制限期間の平日だったからなのかもしれないが、めちゃくちゃ混んでいるという訳でもなかった。そこにはただ、遊園地という空間を楽しんでいる客と、その空間を楽しいものにするため尽力しているスタッフがいた。

とはいえ、「明日からはもう永遠に見られない」と考えた瞬間に、見える景色は変わった。もう遊べなくなるのか。そしたらこのアトラクションはどうなるんだろう。スタッフさん達は何を考えて最終日を過ごしているのだろう。明日からは、どこに勤めるのだろう。時間の都合上、私は完全に閉園する瞬間に立ち会うことはできなかったが、「今日で終わり」というのはしっかりと感じていた。

 

遊園地、それは「非日常」の空間である。決して安くない金を払って、日常生活では味わえないスリリングやメルヘンを感じ、家族や友達や恋人と思い出に残る時間を過ごす。

そして非日常の空間は、それを支える人がいるがゆえに「非日常」として存在し得る。遊園地のスタッフは、客の「非日常」を支えるべく勤務している。それこそスタッフにとっては「日常」でありマンネリ化するかもしれないのだが、それでもずっと「非日常」の実現のために尽力している。もう何も残らない本当に最後の日まで、変わらずに。

 

その「非日常」は、明日からはもう見られない。最終日というのは「非日常の中の非日常」である。客としては、これまで愛着がなかったとしても、なにか哀愁を感じてしまうものである。

でもその中で、いわばいつもと変わらぬ(というかいつもから素晴らしい)サービスによって「非日常」を提供してくれるスタッフがいる。そこで体験できる「非日常」の質は、最後の日まで変わることがない。

ただ、スタッフの心の中も穏やかでないかもしれない。親しんできた職場、ずっとそばにあったアトラクション、そして客の笑顔、そういうものと別れることになる。遊園地勤務が非日常であったとしてももはや日常になっていたとしても、最終日はやはり特別な「非日常」となってしまうのだろう。

 

「非日常」の終わりというのは、美しい。

 

 

歴史の終わりに触れて〜「日常」が「非日常」になる瞬間

 

時は遡って、2020年3月31日。私は渋谷駅玉川改札の前、少し開いた空間にいた。

東急百貨店東横店が85年の歴史に幕を閉じる、まさにその日である。

 

私は以前東横百貨店を頻繁に使ったわけではないし、強い愛着を抱いているわけでもない。ただ、いざ無くなってしまうと考えると、どうしても名残惜しくて使いたくなってしまったのである。当時不足していた、ズボンのベルトと手帳を買うことにした。

某キャンパスに通学していた私にとって、通学時に嫌でも見ることとなる東横百貨店は「日常」でしかなかった。あまりにも「日常」であるがゆえに、強いて「使おう」と思ったこともなく、「あーそういやあったな、今日はちょっと寄ってみるか」くらいにしか思っていなかった。

しかし、閉店が近づくにつれてそれは「非日常」の場と化してきた。「日常」「日常」でなくなる日が、近づいていた。そして営業最終日には売りつくしのセールが実施され、閉店を惜しむ客に囲まれた東横百貨店はすっかり「非日常」となっていた。某感染症のせいで大きなセレモニーなどは実施されなかったが、最後の客を送り出した後の閉店の際には、店長(確か)が言葉を述べた後に全従業員が並んで頭を下げながら、シャッターが下がっていった。あの光景は、おそらく一生忘れない。

 

通勤客であふれる乗換通路の横に佇む百貨店、これは多くの人にとって「日常」の存在だったかもしれない。

普段生活を送っている分には、特に強く意識することもないかもしれない。当たり前の存在として捉えているかもしれない。私自身当然そうだった。

 

でもそれがいざ終わってしまうとなると、不意に「日常」の中に隠れていたさまざまな思い出が蘇ってくるものである。

東横百貨店の閉店時、私の横に立っていた若い女性が涙を流された。それを気遣った隣の女性(私自身はチキンなので話しかけられるわけもなかった)が話しかけられたところ、どうやら少し前まで東横百貨店で勤務なさっていた方だったと。その若い女性は、勤務当時の様子を思い出されていた。そして声をかけた女性の方も、子ども時代の思い出を少し語られていた。

「日常」が終わりを告げ「非日常」になる瞬間は、改めてその「日常」の中にあった新鮮な感情や思い出を呼び起こす。

 

「日常」の終わりというのも、これまた美しい。

 

 

「非日常」を求めて旅に出る

 

私は旅が好きだ。

 

旅は、非日常そのものだ。

家という日常生活を過ごす場所を離れ、必要な限られた荷物だけを持って出発し、普段の生活では得られない体験や見られない景色を楽しみ、平常時とは異なる寝床に眠る。

まさに非日常の代表的存在、といっても過言ではないだろう。

 

なぜ、私は旅が好きなのだろう。

「鉄道に乗りたい」「美しい景色を見て心を浄化されたい」など理由は様々に考えられるが、やはりその中でも「非日常を味わいたい」というのが大きい気がする。

 

旅そのものが、非日常である。一人旅だろうが少人数での旅だろうが大人数での旅だろうが、これは変わらないだろう。

一人旅の場合、「ひとりで長い間行動する」これ自体が非日常でありワクワクする。少人数の旅の場合、「親しい人間と語らいながら長時間行動する」これは非日常。大人数の旅だって、通常行かないところにみんなと行くってだけで非日常だ。

単なる旅でなく「それまで知り合いでなかった人と関わる」「宿泊型プログラム」だと、これまた違った「非日常」性がある。新たな人との出会いと交流、これだって非日常だ。一緒に行く人でも、行った先で出会う人でも。

 

旅において、私は特に「美しい景色」を好む。

車窓から見える棚田、昼の山頂から眼下に望める風光明媚な自然、夜の山頂から望める美しい夜景、海岸や崖に見られる奇勝、そして西側に開く海岸から眺める日没。自然だけじゃない、賑わいを思わせる地方都市の商店街、歴史的建造物と街並みの残る重伝建、整備された山紫水明の庭園、小さな港町の静かな小路。

これは、「非日常」だからこそ良いのだろう。当たり前じゃないからこそ、その良さを求めて旅をする。当たり前じゃないからこそ、それに触れて感動する。

 

逆にオフィス街だとか閑静な住宅街だとか単なる里山だとかチェーンストアだとか、そういうのは私にとっては「日常」の一部だから、旅の過程で見ても感動はしない。また、毎日長距離通学するみたいに旅が日常の一部となってしまうと、感動は薄れる。

旅は、それが「日常」と遊離しているからこそ良いのである。

 

 

「非日常」と「日常」の境目

 

……いや、そうとも限らないかもしれない。

 

実際のところ、長期間旅をしてから「日常」の景色に戻ってきた瞬間、これも何とも言えない気持ちを抱くものである。非日常が終わってしまうという寂寥感、非日常を振り返って感じる楽しさと懐かしさ、逆に不安定な非日常から安定した日常に戻ってきたという一種の安心感。

また、見知らぬ地にて見知った景色を見たときなども、懐かしさや安心感を抱いてしまうものである。だってさ、見知らぬ土地なのにマックとかファミマとか見つけたらなんか安心しない……?

旅が日常の一部となる、これは感動が薄れるのは確かであるが、その中で何らかの非日常的アクションが生まれると突然面白くなる。日常と化してしまったルートの中で、いつも寄らないところにふと寄ってみて、そこで突如非日常を感じる。

そういう「非日常」と「日常」の境目のあの微妙な感覚も、また面白いものである。

 

そもそも、旅は必ずしも日常と遊離していない。例えば旅先から関東の友人と連絡を取ったり通話したりすることはよくあるし、旅先でレポートや作業をすることもよくある。

さまざまなことに追われている状況では、逆にこうやって「非日常の中にありながら日常に戻れる状況」ってのが面白いのかもしれない。というか、自分の「非日常」を日常にある誰かに伝えて反応をもらうってことが、面白いものである。……まあレポートや作業については、それと遊離した状態で旅した方が楽しいってのは確実だろうけどね。

 

でも、「非日常」があるからこそ面白いというのは確かであろう。すべてが「日常」になってしまうと、その面白さは無くなってしまう。

必ずしも遊離していないとしても、「日常」とは異なる「非日常」が確と存在する、それが面白さを生んでくれる。

そしてこれは、旅に限ったことではない。遊園地だってイベントだって冠婚祭だって店の閉店時だって、たとえ日常生活の一部と絡んでいたとしても、結局「非日常」が面白さの源泉なのだろう。

 

 

「非日常」を支えるのが、かっこよくて面白くて

 

旅は、自分一人でできるものではない。……これは「一人旅はできない」って言っているわけじゃなくて、「誰かの働きなしには一人旅さえできない」ということである。

公共交通機関を使った旅の場合、交通機関を運転したり切符を発券したりしてくださる方々がいてこそ、その交通機関を使って旅ができる。旅先でご飯を食べる場合、作って売ってくださる方々がいてこそ、美味しい名産を食べることができる。どこかに泊まる場合、フロントで応対したり床を整えたり清掃したりしてくださる方々がいてこそ、ちゃんと寝ることができる。

その「非日常」は、誰かの尽力によって成り立っている。

 

それって、すごくかっこいい。誰かの特別な体験を、自分が支えることで実現させる。たとえ裏方でも、尽力者として直接感謝されるわけではなくとも、誰かの「非日常」を支えるってだけでかっこいい。

そして、すごく面白い。自分が誰かの「非日常」の一部になり、支えるはずの自分までもがそれを楽しむ。

もちろん、旅に限ったことではない。

 

いろいろなアルバイトを経験したことのある私だが、ずっと「非日常を支える仕事」をしてみたいと思っていた。イベントの案内スタッフや結婚式場のスタッフに応募したこともあったが、なかなか都合が合わなかった。そこでこの夏休みは、(十分な感染防止策を取った上で)とあるレジャープール(としまえんではない)の案内スタッフをやってみた。

やっぱり、かっこいいものである。お客さまの夏の楽しい思い出は我々が支えているのだ、我々が安全な形で「非日常」の形成に寄与しているんだ、という感じ。

そして働くこっちも楽しいものだ。はしゃぐ子どもの笑顔を見ると、こちらも笑顔になる。働く側も「非日常」を提供するにとどまらず、自ら一種の「非日常」を楽しんでいるようなものだ。

 

 

「非日常」を支えたくて

 

「非日常」が、大好きだ。

 

私は高校時代より、学園祭・文化祭の実行委員的なことをやっている。その原点はやっぱり「非日常を支えるのがかっこよくて面白い」だろう。

 

これまでで3つの祭りに2年ずつ関与しているわけだが、それぞれで関わった部分は違った。

高校時代は、門の制作に関わっていた。「当日前の制作」の側面で関わったことになる。原点は中学3年の時、高校の文化祭に行って門の凄さに感動し「これ作るのに関わってみたいなあ」と思ったことだ。来る人から注目される特別な存在としての門、それを作る一部になれるのは自分の誇りにもなると思った。ほかにやることもあったがゆえ深く関与することはできなかったが、確かに楽しかった。また当日はグッズ販売列の整理やスリッパ配布・回収など、主に裏方としてヘルプに入り、それまた面白さを感じていた。

大学の学園祭のうち1つでは、ごみ回収・レンタル品管理・車両入構管理などを担当した。「当日の裏方」の側面で関わったことになる。1年生の時に希望していた担当に入れなくて半ば渋々やったものであったが、そこで裏方の面白さを感じ、2年生の時も続けることになった。来場者側からはあまり注目されず汚れ仕事みたいなものもあり、参加企画の人に貶されることすらあったが、「でも私のおかげで充実した学園祭ができてるんだよ???」などと思えば楽しいものである。

もう一方では、キャンパスツアーを担当し、ガイドとして当日に来場者の前で話すこともあった。「当日の表方」の側面で関わったことになる。裏方も面白かったがやはり来場者と直に触れられるのも面白そうと感じ、希望したものだ。やっぱり来場者の楽しそうな顔や感謝の声を直に聞くことができるのは、非常に楽しいものである。それが自分が企画立案制作したものであるから、なおさら。

全部違った形であるが、すべて「非日常を支えている」という点で面白いものだった。

 

今年は、学園祭がオンラインになった。

私は普通の対面のキャンパスツアーを実施するつもりで関わり統括をしていたのだが、当然オンラインへの転換を迫られた。実地でなくなることで「非日常」感が薄れてしまうこと、そこでキャンパスツアーの意義が低下してしまうことは、懸念材料だった。だが一方で、もともと非日常たる学園祭が例のないオンライン開催すなわち「非日常」になるというのには、不謹慎ながら少しワクワク感もあった。

当日は、確かに非日常だった。そして私たちは、確かに非日常を支えていた。キャンパスツアーには多くの方々が参加してくださり、喜びの感想もいただけた。今回は私がガイドとして話すことはなかったが、すべてのキャンパスツアーを統括して支えたという自負と、それゆえの面白さおよび一種の満足を感じていた。

 

たとえオンラインになってしまっても、「非日常」を支えるのはかっこいいし面白い。そして、それを支えられてよかった。

ただそれでも、やはり対面の面白さには敵わないかもしれない。「非日常」の空間が現実に存在してこそ、その「非日常」性とそれゆえの面白さは強く存在するのだろう。また、オンライン化の過程で多くの「非日常」を提供するコンテンツが断念されてしまうのも、見ていて苦しかったものである。

オンラインの「非日常」を支えるのも面白いけど、願わくばもう一度、対面での「非日常」を支える役割を。

 

 

また「日常」が始まる

 

さて、明日からAセメスター(秋学期)が始まる。夏休みという「非日常」が終わり、授業という「日常」が戻ってくる。

ほとんどがオンライン授業という、今年4月まででは「非日常」でしかなかった事態だが、今や「日常」となってしまっている。

明日からは、そんな「日常」を過ごす。

 

だが、「日常」の中にも「非日常」は潜んでいる。

というか、「日常」があるからこそ「非日常」は存在するのだろう。

 

私はどうしても、「非日常」が大好きだ。

「日常」の中に潜む「非日常」を楽しみつつ、また生きていきたいものである。