どこかのT大生の思考

不定期です。旅行と考えることが好きなT大生が、たまーに駄文を公開します。自身の生に関する思いを述べる「自省」、旅の思い出を記す「旅記」、社会に対して言いたいことを唱える「主張」、人間関係の悩みを書き散らす「拗人」、その他自分の姿や趣味などを自由に語る「特筆」の5つ。

[拗人9]他者への無関心の成れの果て

特定個人を好きになれるって、それだけで素晴らしい能力だよね。……と、個人に対して無関心な私は思うのでありました。

 

 

個人への無関心

 

つくづく私は、自分以外の個人に対する関心が薄い人間だよな、と思う。

 

私には、恋人がいない。昔から常に一緒にいる「竹馬の友」と言えるほどの幼馴染がいない(親しい幼馴染自体はいるが)。なんでも打ち明けられる心の友だってそれほどいない(いる分にはいるが)。

しかも幼馴染や心の友だって、いたとしても全然依存しない。

 

これは別に人間不信というわけではない。

ただ、私が個人に対して関心が薄すぎるだけなのである。

 

 

人見知りしない、人の顔を覚えられない、周囲の人間関係に疎い、芸能人に興味ない

 

私は一切、人見知りをしない。初対面だろうが一切緊張せず、あたかも以前から知り合っているかのようなテンションで話しかけることだってある。

これは一見、とても良いことだ。しかしながらこれは裏返すと「たとえ知り合いであっても初対面と同じようなテンションで話す」ということである。つまり、([主張6]でも触れている通り)相手にとっては私はよそよそしく見えるということである。

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……こうしてみると、一気に印象悪く聞こえるね。

私には「とりあえずあらゆる人に対してとる態度」というのがある。あらゆる人に対して、初対面であれ知り合いであれこの態度をとる。

 

私は、人の顔を覚えるのが著しく不得手である。新しく覚えるどころか、以前親しかった人の顔を思い出すことすら不得手である。このせいで、知り合いにあっても「あれ、あなた誰だっけ」となって「とりあえずあらゆる人に対してとる態度」を取ることがある。

 

私は、自分の周囲にある人間関係に著しく疎い。誰が誰を嫌っている、誰と誰が付き合っている、そういうことは誰かを通してゴシップとして認識するのみである。自ら積極的に「その個人」の人間関係を知ろうとはしない。

 

私は、芸能人に対する興味がとてつもなく薄い。人の顔を覚えるのが苦手というのと相まって、誰が誰だか分からないしそれに詳しくなろうともしない。誰が誰と熱愛とかそういう報道にも一切興味がない。

 

これらはなぜかというと、私にとってそういう人はただの「私でない人間A」でしかないからだ。

 

 

「私でない人間A」

 

私にとって、特に親しい一部の人を除くほとんどの人は全員、「その人しかいない個人」でなく「ある個人」として捉えられる。

私が一番大切にしている「私個人」でない限りにおいて、みんな「私でない人間A」なのだ。

 

その人はたとえ私の知り合いであっても、私の人生に大きな転機を与えるわけではない。その人の思いがどんなであれ、私を大きく変えるわけではない。その人の人間関係がどんなであれ、私の生き方には関与しない。もしかすると私に大きな影響を与えるのかもしれないけど、その人が関わる人ってのは私以外にもいるし、その確率ってのはわずかだ。

そんな人のために自分の貴重な時間を割こうとは、それほど思わない。だいたい私は自分を大切にするし、自分以外にすぐ影響されるほど柔ではない。

だからこそ、必ず影響を与えてくれる特別な存在でないという意味で「私でない人間A」。

 

逆も然り。私はたとえその人の知り合いであっても、その人の人生に大きな転機を与えるわけではない。私の思いがどうであれ、その人を大きく変えるわけではない。私の人間関係がどんなであっても、その人の生き方には関与しない。もしかすると私が大きな影響を与えるのかもしれないけど、その人が関わる人ってのは私以外にもいるし、その確率ってのはわずかだ。

そんな人のために自分の貴重な時間を割こうとは、それほど思わない。だいたい私は、自分を大切にするし、自分以外の人に影響を与えるモチベはほとんどない。

だからこそ、必ず影響を与える特別な存在でないという意味で「私でない人間A」。

 

そんな「私でない人間A」個人には、ほとんど興味が湧かないのである。初対面だろうが知り合いだろうが気にしないし、顔がどんなかもそれほど気にかけないし、どんな人間関係を持っていようとどうでもいいし、有名だろうがなんだろうが知らない。

その人個人の内面を知ったところで得られるものはあまりないから、そんなのはどうだっていい。

 

ただ私は、「私でない人間」は全員区別する。その証拠というか分からないが、私は人の名前を覚えることだけは苦手でない。

だから「私でない人間A」「私でない人間B」「私でない人間C」……。

 

彼ら彼女らが私の中で「私でない人間A」でなく「特別な個人」になるには、結構なステップが必要であろう。

だが私は「私でない人間A」への関心が薄いため、そもそもこのステップが進みづらい。

 

 

「人間一般」に関心がある

 

それでも私は、人との交流を断とうと思ったことはない。人間自体に一切が関心ないわけではない。

 

たぶん、「人間一般」に関心があるんだと思う。

例えば「私でない人間A」がどういう人間関係を持とうが知らないが、「どういう経緯で恋仲になったのか」というのは「人間一般が恋仲になる経緯の1つ」ということで非常に興味がある。「私でない人間A」が私のことをどう思おうが知らないが、「私を嫌っているか」というのは「人間一般が私に対して抱く思いの1つ」ということで非常に興味がある。

 

ちなみに私はTwitterやこのブログに思考を垂れ流すのだが、これは「人間一般が私の思考に対してどう思うのか」というのを知りたいからである。「『私でない人間A』がどう思うか」はどうでもいいから、特定個人にのみ送りつけるようなことはしない。

 

また、私が「私でない人間A」を思いやるのは、たぶん「その人を思いやって」というよりか「人間一般を思いやる一環として」もしくは「人間一般に対する自分の社会的地位を維持するため」である。

 

 

「人脈」という不思議な言葉

 

私は、人脈が豊富な方だと自覚している。

いろいろな活動に手を出していることで「知り合い」は非常に多く、また無難な性格が幸いして多くの知り合いとは良好な関係を維持していると思う。初対面でも臆せず話せる性格(後述)ゆえに新たに知り合い関係を作るのも難くなく、1つの組織内でも顔は狭くないと思う。

 

ただ、それは「友達が多い」を意味しない。

というのも、個人への無関心が災いしてその知り合い個人との連絡を密にせず、心理的距離が狭まらないどころか離れていくのである。個人に対する関心が薄い私にとって、知り合いは一定程度親しくならない限り「特定の名前を持つ『私でない人間A』」の域を脱しない。そして「私でない人間A」である限りにおいて、私はその個人を特別に誘うこともなく、結局ただの「知り合い」であり続ける。

そもそも、大量にいる知り合い全員とコンスタントにコミュニケーションを取るなんて至難の技であり、人脈の広さは(これは[主張6]でも言ったことだが)人脈の維持コストの高さゆえに、深い交友関係に対して負の影響すら持ち得る。

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私は現在サークルの1つを休んでいるのだが、それを親に話したら「下級生の他大女子との人脈が……」など言い出した。私からしたら非常に気持ち悪い発言であるが、「気持ち悪い」以上に「たとえ人脈があったとして効果はあるのか?」という思いもある。

私はすでにある程度の人脈がある。東大以外の大学生との人脈もあるにはある。おそらくこれ以上に人脈を増やしたところで、コストがかかるだけである。むしろ今持っている人脈を維持することの方がよっぽど大切だろうが。

 

ところで広い人脈というのは「『私でない人間A』を知っている人との話のタネになる」という効果もある。もはや今後の私が人脈に求める第一の効果ってのは、これなのかもしれない。

 

「人脈」というものは広ければ広い方が良いもの・広げておくべきものと盲目的に考えられがちだが、そうとも限らないのである。

 

 

プライドが阻む信頼関係

 

人脈の果たす役割としては、「セーフティネット」すなわち「困ったときに頼るアテがある」というのがあると思う。

 

ただ、私はこれを使いこなせない。

というのも、私はプライドが高いがゆえに「困ったときに頼らない」というか「頼れない」からである。まず自分のことは自分で蹴りをつけたいと思うから、積極的に頼ろうとは一切思わないのである。

そもそも「私以外の人間A」であり特別でない存在の中から、誰かを選ぶすなわち「特別な存在」とするというのが非常にハードルが高いのである。これは私が「誘う」という行為が苦手なのともつながるが([拗人3]と[拗人8]にも書いている)、「私以外の人間A」に序列をつけるのは困難なのだ。

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そして、困ったときに頼らないからこそ、その人との信頼関係も醸成しづらい。そしてそれが、「私以外の人間A」から「特別な個人」への進歩を阻むこととなる。

 

 

人間関係についてだけ自信がないわけ

 

私は自分に対する自信、「自分が自分にとって魅力的である」という自信はとんでもなく強い。一方で、「自分が他人にとって魅力的である」という自信はとんでもなく弱い。

 

自分は他人にとって魅力的でない、というか自分は他人にとって魅力的であり得ない、と考えてしまうのは「自分はその人を特別に思えないから」である。

私は前述のように、知り合いであっても「私でない人間A」として扱ってしまい、「私でない人間A」から「特別な個人」への進展が起こりづらい。私がその人を「特別な個人」として扱えない以上、その人との関係は深まりづらく、私がその人にとって「特別な個人」になることも難しい。それゆえに、私はその人にとって魅力的たり得ない。

 

 

恋愛や結婚に絶望的に向いていない

 

さて、現代社会における異性愛の人間では「男性が女性にアプローチする」というのが原則として求められる。

もちろん女性から男性へのアプローチもあるし、同性同士のアプローチもあるし、アプローチが存在しないことだってある。しかしながらこの社会では異性愛規範が強く働くうえに、男性側から告白やプロポーズを行うのが普通という価値観が(フィクション作品などを通して)存在するだろう。

この過程で、男性には「パートナーたる女性を選ぶ」ことが求められる。

 

だが、私にとっては恋愛対象は「私でない人間A」である限り差別化されない。(私は異性愛かつ交際経験皆無ゆえ)「私でない人間A」の女性であれば基本的に対象として眼差してしまうのだが、その先で「好き」と思うのにはとんでもないハードルが存在する。

告白とかプロポーズとかの対象として「特別な存在」となる存在なんて、果たしているのだろうか。少なくともこれまで生きてきた20年の中ではいなかった。

だいたい私は「お前しか愛さない」なんて言える気がしない。その人は本当に「私でない人間A」を超え、他の「私でない個人A」と差をつけて愛せる存在になるのだろうか。

 

だからこそ、私が男女交際とか結婚とかできる気は本当にしない。

私が拗らせているのは、こういう背景もあるのである。

 

 

それは本当に「羨望」なのか?
 

私は、大学入学以降に知り合った人々と、「サークルなどの団体全体で行われる行事」「団体全体に対して募集がかけられる行事」を除いて一泊以上のイベントをしたことがない。宿泊を伴う旅行のみならず、誰かの宅で行われるオールだって経験したことはない。そもそも大学入学以降に知り合った人々とは、個人的な日帰りの遊びだってほとんどしたことがない。

すなわち私は、「私」という個人として誘われることもなければ、「誰々」という個人を誘うこともない。これはほとんどの人が「私でない個人A」の域を出ないというのもあるだろう。

 

さまざまな場面で、人の惚気を聞くことがある。それはすなわち、その人は恋愛および男女交際をしているということである。

インスタなどを見ると、人が友人と旅行している姿が見える。それは時に、男女のペア(付き合っているか否かを問わず)であることもある。

私は[拗6]で述べた通り「普通の恋愛関係」というのに興味があるし、「普通の大学生の旅行」というのに興味がある。

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これは「人間一般」への興味ともつながる。それもあってか、そういう旅行には憧れることもある。羨ましいと思っているのかもしれない。

 

……だが、それは本当に「羨望」なのだろうか。

正直なところ、「私でない人間A」によって時間が奪われるというのは、自分の時間を大切にしたい私にとっては望ましい事態でない。「私でない人間A」としての大学以降の友人と遊ぶことも、「私でない人間A」としての異性と付き合うことも、宿泊を伴う長時間のもの・関係性が形成されたゆえに長期間継続するものとなることで時間を奪われるのは、本当に羨ましいとは限らない。

……とりあえず憧れているのだと思っていたけど、実はそれが実現したところで、自分にとって理想ではないのかもしれない。この羨みというのは、実態を伴わないものなのかもしれない。

 

そもそも私は、恋人という存在自体を必要としていないのかもしれない。というのも、仮に存在したとして「私以外の人間A」であれば他の人と同じだし、だからといって「特別な個人」になるまでのステップは手間がかかるし、そもそも今の人間関係で事足りているのである。

 

 

「誰でもいい」のかも?

 

それでも私は、いわゆる男女交際を経験してみたいという思いが存在することは変わらない。

だがこれは、「男女交際」を経験するためなら誰でもいいのかもしれない。すなわち、女性であれば誰でもいいのかもしれない。「私でない人間A」でもいいのかもしれない。

 

でも、「私でない人間A」の中から相手を選ぶのが困難であるため、「誰でもいい」と言いつつその先は存在しない。

実は新たな人脈に「出会い」を期待することがあるのだが、それは新たに出会うすなわち以前の人間関係が薄い存在として、以前からの「私でない人間A」とは区別される「私でない人間A」を選択対象としようという思いがあるのかもしれない。

 

……なんて言うけど、結局結婚するなら「私でない人間A」のままでは不十分だ。だからといって結婚しないのは、老後に孤独になりたくないので防ぎたい。

すなわち、いずれ「誰でもいい」なんて言わずに「特別な個人」を作らなきゃいけないんだよなあ。

 

個人に対して無関心なのって損よね。

この先、私ってどうなるんだろ。