どこかのT大生の思考

不定期です。旅行と考えることが好きなT大生が、たまーに駄文を公開します。自身の生に関する思いを述べる「自省」、旅の思い出を記す「旅記」、社会に対して言いたいことを唱える「主張」、人間関係の悩みを書き散らす「拗人」、その他自分の姿や趣味などを自由に語る「特筆」の5つ。

[自省13]卒業の季節と、時の流れと、薄れていく人間関係に寄せて

もうすぐ21歳らしいね。来年卒業らしいね。

 

3月は別れの季節である。ちょうど今日、東京大学でも学位授与がなされ、4年生の先輩方が社会あるいは大学院へと巣立っていく。

……ふと考える。ここで別れていった先輩方とは、今後関わることはあるのだろうか。今後の人生において、これらの先輩方の存在が大きく影響するライフイベントは、発生するのだろうか。「学部生」「サークルの仲間」といった共通点が消滅することで、「かつて知り合いだった疎遠な人」に成り下がらないだろうか。

今春卒業する先輩方は一個上であり、昨年までに卒業した先輩方より親密に関わっていたが故に、むしろそのようなことを考えずにはいられない。

 

思えば私は、過去の人間関係にこだわらない人間であった。というか、人間関係そのものにこだわらない人間であった。

中学を卒業する際には、好きだった仲間との別れに目頭を熱くした。しかしながら高校に入学するとそこで新たな人間関係を築き、中学の同級生とはすぐに疎遠になった。習い事も部活も同じで、くだらないやりとりばかりしていた腐れ縁の友人も、高校入学後しばらくすると連絡を取らなくなった。

中学を卒業する際、習い事をやめた。その習い事を通して仲良くなった仲間もいた。しかしながらやめた後、彼らとは一切連絡をとっていない。

高校時代、ある全国大会に出たことがあった。そこで全国の高校生と交流した。せっかく会ったのでとLINEの交換もした。しかしながらLINEでのやりとりは、長くて3日で途絶えた。

高校(男子校)の文化祭でフォークダンスがあり、友人が連れてきた他校の女子高生と踊ったことがあった。いろいろ話をした。しかしながら連絡先を交換せず、かつ連絡先を交換しなかったことを一切後悔しなかった。

高校の同級生や大学のクラスメート・サークル仲間などは、基本的にLINEを持っているので常に連絡を取ることができる。しかしながら(特定一部の親しい友人を除き)その人に用がある時にしか連絡しないため、サークル内での仕事など「その人と私を繋ぎ止める存在」がない限りは連絡せず、かつてお世話になったような人でも疎遠になっていく。

そもそも私は、特定個人への関心が薄い。特定個人と積極的に親しくなろうと努力することはなく、大学という疎な環境において構築された人間関係は、私の周りにおいてはほとんどが薄っぺらい。サークルなどにおいても、自分以外でグループが構成されていき、自分は「誰とでも話せるけど誰とも特段親しくない」という中途半端・真っ先に切り捨てられる位置に落ち着く。

 

このような過去を振り返る限り、私は卒業した先輩方と今後関わることは、ほとんどないのだと考えられる。寂しいものである。

 

……ここで「寂しい」と感じるということは、いくら特定個人に無関心と言っている私であっても、心の底には特定個人への関心があるということだろう。

わかる。「この人と今後関わらなくなることが寂しい」という感情の存在が。「この人ともっとお話ししたかった」という感情の存在が。

「じゃあ連絡取れば良いじゃん」と思われるかもしれない。だがコミュ障にとって、特に用がないのに連絡をすることは至難の業である。そもそも私自身は「誰とでも話せるけど誰とも特段親しくない」という位置にいるため、その人とも以前から特段親しかったとは限らず、突然連絡しても「なんでこいつから連絡が来たんだ?」という感じになりかねない。

 

……そのようなことを危惧し、連絡を取らない結果として、人間関係の疎遠化は進んでいく。

そして「この人ともっとお話ししたかった」という感情は、時が経ち新たな人間関係が構築される中で薄れていき、結局その人とは疎遠なままで終わる。

時の流れは、コミュ障っぷりと相まって、私の中の特定個人への関心を薄くしていく。

 

ところで私は、現在3年生だ。ということは、順調にいけば来年の今頃には大学を卒業するということである。まったく、時の流れは早いものだ。

2011年に地上アナログ放送が終了した際、移行措置としてケーブルテレビなどを用いたデジアナ変換が、2015年まで提供されると聞いたものである。その時は「遠い将来だな」と考えていたが、その将来はいつの間にかやってきた。それどころか、もうそれから6年が経とうとしている。6年というと小学校入学年限だから、相当な長さである。

2013年の秋、2020年に東京オリンピックが開催されることが決定した。その時の驚き、駅前で号外を受け取ったこと、私自身は鮮明に覚えている。その時「東京オリンピック」というのは7年後、遠い将来だと思っていた。しかしながら2020年はすでに終了した。

先日をもって、東日本大震災から10年が経過した。来月には熊本地震から5年が経過することとなる。あのニュースを見た時の衝撃、計画停電で早めに寝た記憶、最近あったことかのように思い出すことができる。しかし実際は遠い昔の話であった。

おそらく、これからの1年もあっという間に経過する。気づいたら私も卒業生になっているのであろう。(まあ無事に卒論が受理されたらの話であるが。)

そして同時に、自分自身が思うよりあっという間に、人間関係の疎遠化は進展していくのだろう。

 

時の流れといえば、実は明日が私の誕生日であり、私は明日をもって21歳になる。また一つ歳をとる。

これまで、誕生日というのは自分の成長と可能性の拡大を自覚できる、自分にとって喜ばしい存在であった。しかしながら最近は、誕生日を迎え歳をとることが怖くなってきた。

おそらく、これからは自身の可能性が縮小していく方向に人生が進んでいくからであろう。

 

大学生というのは自由な存在だ。勉学もアルバイトも遊びもサークルもできる。

大学生の時期というのはキラキラした時期だ。大学の友人と、大学生らしい遊びをし、青春を謳歌することができる。

大学生というのは可能性に満ちている。まだ何者にもなりきらない、これからの社会にとっての期待の星。

……そんな大学生も、私にとってはあと1年である。名残惜しいものである。

 

これまでの記事でも何度か触れてきたことではあるが、私には「青春コンプレックス」ともいうべきものがある。人間関係の構築に成功せず、人を好きになることができず、主にフィクションにおいて描写される「青春」を謳歌できなかったことに対する未練と、それが未来永劫実現困難であることに対する絶望である。

まだ大学生である限りにおいて、「青春」を取り戻せる可能性はゼロではないが、いざ大学生という立場を脱却すると、それは限りなくゼロに近くなる。

そして一生「青春コンプレックス」を抱えながら生きることになる。

そんな将来が、怖い。

 

おそらく私は歳を経るごとに、深い人間関係の構築が不得手になってきている。それどころか最近では、新たな人間関係の構築が怖くさえなってきた。

しかし現実は残酷で、そのうち「結婚」などという言葉が頭を離れなくなることだろう。しかしながら私は、それほど深い人間関係を築ける自信がない。

あるいは仮に結婚できたとして、結婚式に誰を呼べるのだろう。大学時代からも時が経つから、大学時代の友人とも疎遠になって、その人たちを呼ぶのにも負い目を感じるようになっているかもしれない。

 

……などと考えつつ、時は止まることを知らない。

結局、時の流れに身を任せつつ、「まあなんとかなるでしょ」の精神でやり過ごしながら、21歳の誕生日を迎える。