どこかの元T大生の思考

不定期です。旅行と考えることが好きな元T大生が、たまーに駄文を公開します。旅の記録を語る[旅]、何かに対する見解や主張をぶつける[論]、自分の生き方について思いを巡らせる[憂]、趣味などについて書き散らす[雑]の4つのカテゴリーで。

[憂23]強固な自己愛と、脆弱な自己肯定感を抱えて

「自己肯定感が高い人間」だと自覚していたものの……。

 

 

自己愛の強さ

 

突然であるが、私は自分のことが大好きである。……ナルシシストのような言い方だが、実際間違ってはいない。

 

社会学を専攻しつつ、他の学問にも少しだけ触れてきた自分のことが好きだ。今のような趣味を持ち、行動をしている自分のことが好きだ。某活が若干上手くいかずも、最終的に志望していたところに行けた自分のことが好きだ。若干ひねくれた考えを持ち、考えることをやめない自分のことが好きだ。未成年飲酒を貫くなど、頑固な自分のことが好きだ。表記統一や表の高さなど細かいことまで気にする、神経質な自分のことが好きだ。

自分を第一に考え、常に自分を満足させようとしている、自分のことが好きだ。

 

私は今間違いなく、他の誰(主語)よりも自分を愛し、他の誰(目的語)よりも自分を愛している。

 

 

自己肯定感の、強さ……?

 

自分とは、自分がこれまでしてきた選択の先にできたものである。

その自分のことを愛しているということは、すなわちこれまでの自分の選択を、原則として肯定しているということだ。そして今この瞬間に自分がしている選択のことも、原則として肯定しているということだ。

 

私は、自己愛が強い自分のことを、自己肯定感の強い人間として認識していた。

 

現に私は、大学の進路として社会学を選んだことを、「自分にしか書けない卒論を書くことができた」という点で肯定している。一方で他の学問にもわずかに触れてきたことを、「視野が広がった」という点で肯定している。自分の趣味が金のかかる「旅」であることを、同じく「視野が広がった」という点で肯定している。そのために貴重な時間をアルバイトに費やしてきたことを、「就職後にはなかなかできなくなる体験を積んでいる」という点で肯定している。某活で自分を貫いた結果失敗しかけたことを、「自分を貫いた」という点で肯定している。結果としてある進路を選んだことを、「自分の思い入れの深い分野に関わることができるようになった」という点で肯定している。ひねくれた考えを持つようになったことを、「人生に深みが生まれるようになった」という点で肯定している。自分が変なところで頑固であることを、「自信を持てる人生を歩めた」という点で肯定している。自分が妙なところで細かい人間であることを、「しっかり整理できる」という点で肯定している。

趣味とそのための金稼ぎのため、人間関係への投資をおろそかにしてきたことを、「誰よりも好きな人=自分のために時間と金を使っている」という点で肯定している。

 

……ここまで考えて思った。私は自分を肯定するのに、理由を求めている。では、自分の行動に肯定できる理由が見つからなかったら、どうなるのだろうか……?

 

 

自分を肯定できる理由

 

私は某活の際、うまくいかないことに対して荒れた。その際、怒りの矛先は「自分のできなさ」でなく「社会のあり方」であった。

私は自分の某活における行動に、「その行動を肯定できる理由」を見つけ、それゆえに自分は正しいものだと認識した。その「正しい自分」が受け入れられないのがおかしい、という点で「社会のあり方」に対して怒りをぶつけたのである。

自分が「一般的に失敗と見られる行動」をしていても、その自分を肯定できるのである。

 

私はしばしば時間を浪費する。時間は貴重だとしっかり認識している自分にとって、時間の浪費というのは良くない行為のはずなのに、それをも「たまに必要となる休息をとっているので正しい」と正当化する。

私は時間の浪費をした際、「その行動を肯定できる理由」を見つけ、それゆえに自分は正しいものだと考えた。「正しい自分」の行動には、本来望ましくないはずの時間の浪費も含まれるなど、必ずしも一貫性があるとは限らない。

自分が「一般的に肯定しづらい行動」をしていても、その自分を肯定できるのである。

 

……一方、私の行動の中には、このように肯定することのできないものもあった。

私は2年生の冬まで、合唱サークルの活動に行っていた。ある日の練習で、リードすべき私はうまく歌えず、他のメンバーからダメ出しをされた。その時、私は自分がうまく歌えないことを肯定できず、自分に対する自信を完全喪失した。些細なことのはずなのに、顔が一気に青ざめた。我を完全に失った。

 

結局、私は自分を「無条件に肯定する」ことができているわけでなく、「肯定できる理由があるから肯定する」「肯定できる理由の基準が低い」というだけなのだ。どうしても肯定できない行動があれば、私は即座に壊れる。

私の自己肯定感というのは、普段は強いけれども、ふとした瞬間に壊れてしまう、そんな脆いものだったのである。

 

 

自己愛が強すぎるがゆえに

 

私の自己肯定感は、強いように見せかけて脆かった。

しかし不思議なことに、私の自己愛はいつでも強固なのである。かつて自己肯定感が崩壊した際も、自分を嫌いになることはなかった。かつてのように自己肯定感が崩壊するような出来事が引き起こりかねない、今現在の自分のことも、確実に愛している。

 

稀に肯定できなくなる自分のことを、なぜ愛せるのだろうか。

自分でもよく分かっていないが、「自分は自分一人であり、それから逃れることはできない」「ならば愛するしかない」とでも思っているのだろうか。

ターニングポイントは明らかに高校時代だったのだが、高校生活を通して精神が鍛えられたからだろうか。

いずれにせよ、私の自己愛が強いというのは事実である。

 

……この強すぎる自己愛を抱えた私は、一つの悩ましい事実に直面した。それは

「自分以外の人を自分以上に大切にすることができない」

というものである。

これは[憂19]でも似たようなことを書いていたが、[憂19]で書いてある「その人を特別に思えないから」という理由以外に、ここで述べるように「自分が好きすぎるから」という理由もあるんだ、というのが今の私の考えである。

utok-travelandthinking.hatenablog.com

 

私は、最愛の相手である自分のためにありったけの時間と金を注ぎ込み、それ以外に割くのに十分な時間と金を有さない。

自分のことはよく理解しているから、自分の時間と金を使って自分を確実に喜ばせることができる。一方で、よく理解していない誰かに対して、自分の時間と金を使って喜ばせることができるかどうかは怪しい。

せっかく限られた時間と金を使うなら、自分のために使うことが最も確実なのだから、自分のためにばかり時間と金を使う。

 

別にこれでも、今は生きるのに困っていない。一方でこれは、パートナーを見つけること、見つけた場合にパートナーと良好な関係を築くことが困難であるということを意味する。

将来の私は、最愛の自分とともに「独りで」生を終えていくのだろうか。

 

 

自分のこと、「客観的には」好きじゃない

 

ここで超絶楽観的な発想として、「私に魅力を感じてくれる人が現れれば独りじゃなくなる」というのがある。

……しかし私は、「私に魅力を感じてくれる人」が現れるとは、どうしても思えない。

 

私は自分の自己愛について考えた際、一つのことに気づいた。それは

「自分のことを『客観的には』好きじゃない」

というものである。

 

どういうことかというと、私は「自己としての自分」のことは大好きだが、「相手としての自分」は好きではない、というものである。

どういうことかというと、私は私のドッペルゲンガーがいたとして、そのドッペルゲンガーのことは間違いなく好きにならない、というものである。

どういうことかというと、「こんな自分のことしか考えていない自己中野郎なんて誰にとっても魅力的じゃない」と考えてしまう、というものである。

自己愛が強すぎるがゆえの、自分に対する嫌悪感。

 

ここで、「でも魅力的に思ってくれる人もいると思うよ」と励ましてくれる人もいる。

でも私はこれまで、異性(私の恋愛対象)で「私のことを魅力的に思ってくれる人」に実際に遭ったことがない。実は遭ったことがあるのかもしれないが、私はその人と恋仲であった経験などないわけで、証拠は存在しない。「と思うよ」だけでは、私に自信を持たせるには不十分なのである。

「自己としての自分」に対する愛がどれほどあっても、自分の行動のほとんどを肯定するとしても、「自分は他の誰かにとって魅力的である」という自信は著しく弱い。

 

そしてこのように考えてしまうからこそ、自分の他者に対するアプローチは無駄だと考えてしまい、確実に喜ばせることができる自分に対して金と時間を使う。

 

 

社会人になれば変わるのだろうか

 

私が学生の間に、自分の趣味に時間と金を注ぎ込んできたのには、「今を逃せば難しい」というのがあったからである。すなわち、社会人になって十分な休みを確保できなくなると長旅が難しくなるから、それなら学生のうちにやっておくべきというものである。

そしてその趣味のために異常にかかる金を稼ぐため、空いている時間はことごとくバイトに注ぎ込んできた。私の空いている時間が少ないのには、バイトしないと金が足りなかったからという理由もあった。

 

それでは、社会人になって「学生の間にしかできないこと」という桎梏から逃れ、十分な収入を得るようになったら、休日と余った金を他者のために使うようになるのだろうか。

私は、意外とその可能性はあるのではないか、と考えている。流石に社会人になって、真剣に将来設計(このまま独身でいるかどうにかするか)を考えねばならなくなるし、焦りも今以上に出てくるだろうし。

 

強固な自己愛と脆弱な自己肯定感、それ自体は社会人になっても変わらないであろう。

しかし、それに由来する「自分のためばかり金と時間を使う」という行動は、もしかしたら変わるかもしれない。

 

いずれにせよ、この「かもしれない」が本当にそうなるかどうかは、初任給が入ってから初めて分かるはずだ。