どこかの元T大生の思考

不定期です。旅行と考えることが好きな元T大生が、たまーに駄文を公開します。旅の記録を語る[旅]、何かに対する見解や主張をぶつける[論]、自分の生き方について思いを巡らせる[憂]、趣味などについて書き散らす[雑]の4つのカテゴリーで。

[論27]思考を巡らせ、文章にすることの意味

思考の文章化を何のために続けるのか。

 

 

思考の文章化の意義

 

私はまさに今のように、自分の考えたことを文章化して、ブログに綴っている。

その文章化に先立って、いろいろなことに考えを巡らせて、メモしている。

 

この作業、実を言うととてつもなくめんどくさい。

自分が考えたことの羅列だけならそんなに苦しくないが、羅列された要素を連結させ、一つの文章にまとめあげることは楽ではない。そして「羅列だけならそんなに苦しくない」とは言いつつ、何かを考えることそれ自体も体力のいる作業である。

 

では、なぜそのような面倒な作業を行うのだろうか。その作業を行う意味とは何なのだろうか。

 

私はこの作業を、「自分の人生を自分で動かすために重要なもの」として捉えている。

 

私は元来人に騙されやすく、批判的思考を身につけていない大学2年の夏までの間は、「偉い人がこう言うのだから正しい」という形で価値判断を人に左右されてきた。あるいは何らかの機会で「偉い人がこう言う」というのに触れないと、それについて考えることすらなかった。いわば頭お花畑の単純な人間であり、「将来の夢」なども明確でないような空虚な人間だった。

そんな中、大学2年の夏に差し掛かろうとする時、何がきっかけだったか、自分の生き方について自ら思いを巡らす機会があった。そして「夏休みに1日1記事ずつブログを書いてみよう!」と思い立ち、思考整理というより単なる記録である[旅]カテゴリーの内容などもあったとはいえ、[論]カテゴリーなどブログを書くことで自らの思考を整理するようになった。

そのように思考を整理するようになった後、大学2年の秋からは社会学にガッツリ触れるようになった。社会学という学問の正しい在り方の一つとして、「その人の価値判断に浸かることも否定することもなく、その人の価値判断を客観的に理解しようとする」というものがあると私は考えている。このような社会学の考えに触れたからか、私は批判的思考をようやく身につけるようになり、世間一般に「当たり前」と思われるようなことに対しても疑問を抱くようになった。その疑問がどのようなものかは、文章化することで分かりやすくなった。

世間一般の「当たり前」と私の疑問の衝突が生じた事例の一つが、某活だったかと思う。私は「自分が理想と思う社会」と「実際の社会」の相違を感じた。その相違を一言で言い表すのは難しかったが、文章化したことで整理がつき、「自分が苦しく感じていたのはこういうことなんだよね」というのを改めて自分に納得させることさえできた。

自分の頭で考えるようになり、その思考をブログに文章という形でまとめるようになり、自分の生き方について改めて確認できるようになった。そしてだからこそ、「今の自分はどのような位置付けにあるのか」「今後自分はどのような人間でありたいか」などを考えることができるようになり、時に流されるままに過ごす空虚な人生でなく、自らの手で動かす人生を手に入れることができた気がする。ここにおいて、考えることも重要ではあったが、その考えを整理することも同様に重要であったのだろうと思う。

 

[憂24]でも触れたように、最近の私は異性関係について考えることそれ自体をやめ、危機感を忘れてしまっていた。

しかし[憂24]の記事を書く中で、「今の自分は良くない状況にある」ということを改めて思い出すことができ、今後すぐに行動に移すかどうかは置いといて、少なくとも「初任給が入った後の行動」については注意を払うようになった。何もやらなければ本当に何もなかったかもしれない自分の人生に、わずかかもしれないが動きが生じた。

utok-travelandthinking.hatenablog.com

 

私は怠惰な人間であり、一方で何かやりたいことがあるとそれしか見えないほど熱中する人間である。怠惰な間は下手すれば何も考えず、一方でやりたいこと(例えば最長片道切符の旅)がある間はそのこと(例えば旅程の構築)しか考えないから、自分の人生について考えを巡らすことは多くない。現に最長片道切符の旅を準備している間・遂行している間は、「どうやって期限内に経路を終わらせつつ他の用事もしっかりこなすか」で頭の中がいっぱいであり、それ以外([論]カテゴリーに書くような世間への疑問、[憂]カテゴリーに書くような人生についての思案など)に考えを巡らすことは少なかった。

でも「記事を書く」と決めてしまえば、そのために必然的に考えを巡らすことになる。その結果として、最長片道切符の旅関係以外では惰性で進もうとしていた人生に、若干の動きが加わった気がする。

 

 

文章を開示する意義

 

思考をまとめた文章を書いた上で、自分だけしか見られないようにするという方法もある。

しかしながら私は、ブログという形でまとめ、(読者は少ないが)他の人の目にもつくような形で公開している。

 

私は文章を公開することを、「単純な自己顕示欲を満たす」という側面のほか、「自分について理解してもらう」あるいは「自分の思考に対して意見を寄せてもらう」という側面においても意味があるものだと考えている。

 

私という人間の特性は、[憂]カテゴリーの記事からある程度判断できるはずだ。また私の猫嫌いは[論25]からよく読み取れると思うし、おそらく私の考え方の癖もこの文章から読み取ることが可能である。

utok-travelandthinking.hatenablog.com

このような文章を出せば、読んでくれた人の一部からは意見を寄せられることがある。例えば[論25]については、友人から「猫は可愛いしこの文章の内容にはほぼ同意しないけど、ゴキブリの扱いについては同意」という意見をいただいたことがあった。こういう意見があると、「自分の考えは偏っているとはいえ完全に孤独ではないんだな」と感じることができる。逆に「この考えはこういう理由で良くない」という意見が来たら、自分の思考を変えるかもしれない。

 

 

考えた結果として絶望してしまうこと

 

世の中、「知らなくても良いこと」あるいは「知らない方が良いこと」もあるとはいう。

 

「地方創生」について。3日後くらいの記事でまた書くとは思うが、考えれば考えるほど、いわゆる「地方」のお先は真っ暗にならざるを得ないと思ってしまう。

私の人間との関わり方について。3年前の頭お花畑の時には全然深く考えていなかったが、考えれば考えるほど、「この先自分は孤独まっしぐらでは?」と思ってしまう。

 

そうやってたまには絶望しつつもなお、考え続けることの意味の一つに、「あらかじめ絶望しておく」というのもあると思う。

 

頭お花畑の状態で、気づいたら独身。このままではやばいかもしれないとずっと考えつつ、実際に想像通りに独身。どちらの方が良いかと聞かれたら、私は後者を選ぶ気がする。

私はあらかじめ、心の準備をしておきたい。

そして絶望しても、悪あがきはできる。悪あがきがどれほどの効果を持つかは不明だが、もしかしたら事態が好転することもあるかもしれない。

 

 

余計なことをわざわざ取り上げてくる、学問のあり方

 

社会学、あるいは社会学に限らず一部の人文科学・社会科学はある程度、「知らなくても良いこと」あるいは「知らない方が良いこと」を暴いてしまう学問という側面があるような気がする。

 

もちろん、「社会では『マジョリティとなっている属性』を基準とした制度や仕組みが一般的だから『マイノリティとなっている属性』が不利になることがあるのであって『マイノリティとなっている属性』でもその身体の内に『障害』があるわけではないんだよ」など、一部の人の「生きづらさ」を説明してくれる側面もあるかもしれない。また社会学の一派は「社会改良」からスタートしており、研究成果が「社会改良」に明確に結びつくこともあるだろう。

しかしながら、例えば私の卒論は「この事例は成功事例として捉えられているけどこの点が特異だったのであって一般化は難しいね」あるいは「この方(インフォーマントの一人)の考えはある人の影響を受けているんだね」など、「そんなこと言わなくても良いだろう」ということを明らかにしている。また社会学の古典?の一つであるデュルケームの『自殺論』は、極端には「プロテスタントという宗教のあり方は自殺を抑制するには不十分」という結論を導いているとさえ言え、ここから一種の絶望を感じる人もいるかもしれない。「地方創生」を社会学的に扱った本は複数あるが、その中で私が最も筆者の推論に同意している本においては、「地方」の今後についてかなり悲観的な結論が導かれている。このような悲観的結論は、例えば遺伝の研究における「知能のそれなりの割合が遺伝によって決定する」という研究成果のように、一部の人にとっての「知らなくても良いこと」あるいは「知らない方が良いこと」の暴露とも言えるかもしれない。

 

時には悲観的な「知らなくても良いこと」をも導いてしまう、このような学問(あるいは科学的な主張)の存在意義は、特に現代社会と結びつくテーマであれば「楽観的でなく現実を見た適切な処方箋を提供する根拠を与える」という点にあるのだと思う。

 

先ほど「絶望しても、悪あがきはできる」とは書いたが、この「悪あがき」の適切なやり方の根拠を示してくれるのが、現実の科学的・客観的な分析であろう。

逆にこの分析は適切になされるべきであり、「こうあって欲しい」という思いから若干楽観的な分析がなされてしまえば、それはむしろ「処方箋」や「悪あがき」が不適切な形で存在することにつながり、結局悪い結果をもたらす可能性がある。例えば「東大男子はモテる」という不適切な分析は、東大生の男性(一部)におけるジェンダー認識が「問題」を孕むという状況において、必ずしも正しくない「処方箋」を生み出す。「東大男子は必ずしもモテない」という分析に依拠した方が、その分析は「知らなくても良いこと」かもしれないが、それを受けた「処方箋」あるいは「悪あがき」は適切なものとなるであろう。

 

 

 

考え続けていたい

 

……話が「思考」から「分析」に飛んでしまった。最後に「思考」に話を戻そう。

 

最初に言ったように、「自分の人生を自分で動かすために重要なもの」として、私は思考とその整理(文章化)を今後も継続していきたい。

そしてそれを開示することで、「自分について理解してもらう」あるいは「自分の思考に対して意見を寄せてもらう」ことを目指したい。

思考することで、「あらかじめ絶望しておく」というのも覚悟しておきたい。その絶望は、将来的には嫌でも直面するものかもしれないし。

 

こうやって言うのは簡単だろうが、いろいろなことに追われている状況だと、自分の生に関して思いを巡らす機会はなかなか少なくなる。文章化なんてもってのほかだ。

人生について思い悩むのは、だいたい暇な時なのだ。それを整理できるのも、時間がある時に限られる。

 

だからこそ、これから忙しくなる中でも、「思考する時間」「思考を整理する時間」というのは意図的に確保したいものだ。

自分の人生を自分で動かす、生きがいのある人生のために。