どこかの元T大生の思考

不定期です。旅行と考えることが好きな元T大生が、たまーに駄文を公開します。旅の記録を語る[旅]、何かに対する見解や主張をぶつける[論]、自分の生き方について思いを巡らせる[憂]、趣味などについて書き散らす[雑]の4つのカテゴリーで。

[雑35]分析を続けたい

社会人になると、どうしても「学問」というものに真摯に向き合う時間が減ってしまうと思う。

でも、私は社会学的な思考というのは今後も忘れずにいたいな、というのは思う。

具体的に、こういうのを特定のアプローチをもって分析・考察してみたいな、というものもある。(ただし論文等には当たれていないので現時点では独りよがりな分析となっている。)

実際に今後の私が分析・考察するのかは分からないが、今考えていることとして、この記事に記しでもしておこう。(これは未完成なので「論」でなく「雑」のカテゴリーにしている。)

 

 

地域活性化」の取り組みが生じる理由

 

・[論29]で論じたような中央・行政主体の「地方創生」よりかは、もっと草の根レベルで住民主体のもの。

utok-travelandthinking.hatenablog.com

・私の卒論は、書き始めの時点ではこれに近いテーマを目指していた(その後の方向修正で変わった)。

・そもそもどういうきっかけから、「自分の住んでいる地域を活性化させよう」という思いが生まれるのか?(決して自明な思いではないはず)←(社会問題の構築主義的アプローチに則る考え方)「消滅可能性都市」「限界集落」などの言説による居住地に対する問題意識、あるいはコミュニティを再び重視しようとする政策にも影響された「地縁」再構築への願望の登場。

・どういう人が積極的か?←やはり、職住近接の労働者あるいは自営業・自由業、もしくは高齢者など無業の人が多いのではなかろうか(比較的時間と金に余裕があるため)。

・移住者は自分の出身地でなくその移住先を活性化させようとするが、なぜ自分の出身地ではないのか?←「出身地にはしがらみがあって行動しづらい」、あるいは「そもそも都会に生まれるなどで出身地に愛着がない」という可能性。

・移住者は移住先を選定するにあたっていかなる基準を重視するのか?(どちらかというと経済学的な問いかも)←「最後は人に惹かれて決めた」と語る人は多いが、実際は「住民の人柄の良さ」でなく半ば無意識のうちに「その地域とコンタクトを取るきっかけとなった人脈の存在」、あるいは「そこで所得を得ることができる資源の存在」の方が重視されていそう。

・なぜ「よそ者」「若者」「馬鹿者」が明確な根拠もなしに期待されるようになったのか?←(暴論)その逆の存在である「地元の壮年or高齢かつ頭が固い人」しか地域活性化の意欲がない地域が多いから?

・「地域活性化」に意欲的で場合によっては移住もする学生は、どのようにして生じるのか?←前提として全学生のうちで超絶意欲的な学生はマイノリティ、その学生が生じるのは実情を知らぬ状態(都市に生まれ育った状態)における「故郷」への憧憬や都市への失望ゆえか(この憧憬や失望も完全に個人に帰属する心情というよりは社会的に構築されたものか)。

 

 

現代の若者における「故郷」の喪失と地域へのまなざし

 

・「故郷」という言葉のイメージに、「出身地」以外に「自然と触れ合った場所」「周りの住民と交流した場所」などのニュアンスが入り込み、定義的に「故郷」であってもおかしくない都市部が「故郷」と認識されづらくなっている可能性。

・それにもかかわらず存在する「故郷」を良きものとして語る言説(極論童謡の「ふるさと」も含まれる)ゆえに、そもそも都市部出身の割合がマジョリティになりつつある世代において、「存在しない」と認識される「故郷」を求めるような動きが生じている可能性。

・とりわけ東京に生まれ育った場合、大都市(東京)は物心ある時から身近な存在なのでそれに憧れることなく、「今より良い場所へ」と思った際にまなざす場所が大都市(東京)である確率が比較的低く、「人の暖かさが感じられる」など語られる「田舎」である確率が比較的高い可能性。

 

 

「聖地」とその開発に関する分析

 

・原義の「聖地巡礼」はそもそもの観光の始まりの形であり(お伊勢参りなど)、現代で俗にいう「聖地巡礼」も構造として大きく異なっているわけではないはず。元来観光というのは「聖地で宗教的効果を得ること」のほかに「他者(周囲の人あるいは憧れの人)の経験を追体験すること」という点でも効果を有するものであり、その「他者」は非実在の存在でもあり得るかもしれない。

・コンテンツツーリズムに関しては地域ごとに温度差がある。そのコンテンツ抜きに観光地として成立するような地域(川越や鎌倉など)では頼る必要性が低く、一方でそうでない地域では頼る必要性が高いという可能性。

鷲宮秩父といった先駆者があったからこそ、「二次元」のコンテンツを活かした観光振興は一般的になってきたのだろうが、そもそもその先駆者が現れたのは社会に何らかの変化があったから。(その「何らかの変化」とはどういうものなのだろうか。担当者レベルの話かもしれないし、地域との関係性みたいな大きな話かもしれない。)

・「二次元」のコンテンツに対する「世間」の抵抗感が緩和されたこと、そもそももともと「世間」では「二次元」のコンテンツに対して抵抗感があったこと、これには何らかの理由があるはずだ。前者は幼少期より多くの作品に触れてきた世代が成人となったことやインターネットの発達(により作品に良くも悪くも直接触れやすくなったこと/自分が作成者となるハードルも下がったこと)、後者はもともと「子供向け」として作られておりそれに触れる成人が「異常者」のようなラベリングをされていたこと(宮崎某の事件も影響)、これらが影響している可能性。

・「ファンのマナーが悪くない」「ファンが金を落としてくれる」と広く認識されることが、コンテンツツーリズムの一般化を促進する要因となったはずである。その延長に「〇〇むすめ」もあるのではないだろうか。(そう認識されるに至ったのはなぜだろうか。単に鷲宮のビジネスモデルが上手だったからだろうか、それとも日本全体の治安の向上みたいな大きな構造と結びついているのだろうか。)

 

 

「青春」「恋愛」に関する言説形成

 

・「恋愛」が創作において描かれてきたのはずっと昔からのことで、それ自体は近年に特徴的なことではない。一方、ある時からは「青春」という概念とセットで表されることが多くなった気がする(これが有意に「多い」と言えるかどうかは調べる必要がある)。(それはなぜだろうか。明治に学校制度が始まってからの戦前の作風に由来するものなのか、それとも戦後の共学化推進以降に男女ともに「青春」の共通認識が生じやすくなったことが関連しているのか。)

・例えば高校生をテーマにした創作作品においては、恋愛の要素が入っているものが多い気がする(これが有意に「多い」と言えるかどうかは調べる必要がある)。(高校生をテーマにした創作作品で恋愛要素が多いのはなぜだろうか。そもそも創作においては恋愛をテーマとするものが多いが、その中でも「高校時代」はあらゆる人が似た認識を有することが多いため読者への訴求力があり、テーマとして選好されやすいからだろうか。)

・例えば高校生をテーマにした創作作品で「青春」が描かれることは、当該作品を摂取する者が「高校生」に対する特定の印象を持つきっかけを作る可能性がある。特に近年は情報通信技術の発達により創作作品/創作行為の大衆化が進み、創作作品が影響を与える層が厚くなっている可能性がある。

 

 

他人の呼び名の決定要因

 

社会学というよりむしろ国語学、あるいは社会言語学。そしてすでに研究はありそう。

・男性同士と比べて女性同士では、下の名前で呼ぶことが多い気がする(これが有意に「多い」と言えるかどうかは調べる必要がある)。これは、夫婦同姓において夫側に合わせる人が多く、女性は結婚を通して姓を変えることが多いという日本の状況を反映しているのだろうか。

・構成員同士がほぼ対等な集団において、「呼び捨てで呼ばれやすい人」と「敬称付きで呼ばれやすい人」が存在する気がする。この両者が分かれる現象の裏には、何らかの構造がある可能性がある。(それは具体的には何だろうか。何がこの2つを分けるのであろうか。)

 

 

……うーん、いろいろと調査してみたい。