どこかの元T大生の思考

不定期です。旅行と考えることが好きな元T大生が、たまーに駄文を公開します。旅の記録を語る[旅]、何かに対する見解や主張をぶつける[論]、自分の生き方について思いを巡らせる[憂]、趣味などについて書き散らす[雑]の4つのカテゴリーで。

[論31]働く意味を探して

勤労が生活の中心となる40年間を迎えるにあたって。

 

 

全日制の学生からフルタイムの労働者に変わる、これは人生において経験される変化の中でもかなり大きなものだと思う。

一般的に「真っ当な生き方」と呼ばれる生き方をする場合、生活において最も時間を割く存在が「勉学」や「研究」でなく「勤労」となり、それがリタイアするまでの間ずっと長く続く。

「〇〇大合格」や「××のテーマの研究を進める」や「△△に就職する」といった比較的明確な目標があった学生時代と比べ、自身の人生を自身で切り開かねばならない度合いが強まり、自由の増大とともに責任も増大する。いわば、人生の目標が見つけづらくなる。

そして勤労の意味合いが、以下のように変わってくる。

 

大学時代の私は、「4年間しかない大学生活を充実したものとして過ごす」を大きな目標として過ごしてきた。その際、「4年間」という制約が自分自身を動かす原動力となり、「このセメスターを逃したらもう履修できないだろう」と考え多くの講義を履修したり、学生時代全都道府県宿泊・JR全路線完乗達成を目指して半ば計画的に行動したりできた。

そしてそういった行動を実行するにあたっては、お金が必要であった。その活動資金を調達するために、私はアルバイトをするに至った。

アルバイトを行う最大の目的は「学生としての営みにおける目標達成に必要な資源を調達すること」、すなわちアルバイトという勤労は「生活の中枢となる存在を実行するためにやらねばならないもの」「目標達成のための手段」であり、それ自体が生活の中心あるいは目的であったわけではなかった。またアルバイトをする意義として「人生経験を積むこと」というのも考えたが、それは私にとってはあくまでも目標達成のための資金調達に付随するものであり、必要資金の調達という範囲を超えて「人生経験」のために労働することは「生活の中枢となる存在」すなわち学生生活を侵食するものであるが故に全く望ましくない、とすら考えていた。

(こういう「アルバイトは生活の中心でない」という考え方ができるのは、安くない学費については親が工面してくれた(自分は学費以外の費用だけを負担すればよかった)ため調達すべき資金が多額でなく済んだという、恵まれた家庭環境のおかげであるというのは重々承知の上である。)

 

一方でフルタイム労働者となると、その社会人生活は早期退職しなければ40年弱は続くわけであり(将来的な労働力不足でもっと長く続く気もする)、人生における目標として例えば「20代のうちに〇〇をする」と言ってもストレート大卒就職の場合は7~8年間残っている。自分自身を動かす原動力たり得る「この間にこれをやらねば」みたいな制約が、学生時代と比べて若干緩まる気がする。もっとも結婚して家庭を持てば「子供を養う」というのが目標……というか半ば義務のようなものとして立ちはだかるが、20代とりわけ20代前半前半のうちの結婚なんてもはや「大多数の人がやるもの」ではない。

その制約が緩まった環境で、フルタイム労働者となるため一般的に給与は学生時代より高くなり、必要な活動資金を上回る額が手に入りやすくなる(しかし薄給ゆえ手に入らない可能性もあるというのが業界あるいは日本経済全体の問題ではある)。というかアルバイトのようにシフト増加で調整することができないため、「必要な資金分だけ働く」ということが難しくなる。

勤労は「生活の中枢となる存在を実行するためにやらねばならないもの」というより、「生活の中枢」となる。「目標の達成のための手段」であれば良いけれども、その「目標」は見つけづらくなる。

 

私は例えばティッシュ配りのアルバイトを断続的に続けていたが、これは「生活の中枢となる存在を実行するためにやらねばならないもの」「目標達成のための手段」だからこそ耐えられたものである。私はティッシュ配りに何の楽しさもやりがいも感じなかった(社会への貢献という意味での存在意義がまるで感じられなかった)が、ただ「必要資金を調達して別の目標を達成するために必要な分だけやればいい」という事実があったが故に、お金だけを求めてそれに従事することができた。「人生経験を積む」という理由もつけて自分を納得させることもできた。

しかしながらそれをフルタイムの勤労で「生活の中枢」として実行せよと言われたら、どれほど金がもらえようと私は拒否するだろう。何の楽しさもやりがいも感じられないものが生活の中心になり、それを(そもそも「目標」を見つけづらい環境で)「目標達成のために必要な分だけ実行する」ことも難しい、そんな状況は苦痛でしかない。

 

必要最低限の稼得を超えた勤労の目標、見つけることが容易でなくなる中でどうやって見つければ良いのだろうか。それは家庭を持てば見つけやすくなるだろうが、多くの人は就職後すぐに家庭を持つに至るわけではない(し、私自身は[憂]で散々述べたような属人的なdisabilityを抱えているが故に家庭を持つに至ることが困難と認識している)。

いろいろ考えて、結局「やりがい」が重要なのではないかという単純な結論に至ってしまった。もはや考えれば分かること過ぎて説明するまでもないが、仕事の中で「自分の仕事は個人/社会に〇〇というインパクトをもたらすのだ」という認識が得られれば、まさにボランティア活動参加のモチベーションのように、「仕事をすることで〇〇というインパクトをもたらす」それ自体を目標とすることができる。勤労を「目標のため必要な金を稼ぐための手段」というより「目標のため自分が職業人として行動するための手段」として捉えるということだ。もちろん「やりがい」という綺麗事だけで勤労という苦痛をこなすことは困難だし、「やりがい搾取」は望ましくないだろうが、それでも仕事に「やりがい」を見出すことは重要なのだろうと改めて思う。

「自分の仕事は個人/社会に〇〇というインパクトをもたらすのだ」という点は、実際にそういうインパクトをもたらさないとしても、そう認識できれば良いのだろう。というか、自分をそう認識させることでいわば「騙す」ことが、フルタイムの労働者であり続けるためには必要なのかもしれない。

 

私は、まだ家庭を持つことを諦め切れてはいないが、一生を独身で過ごすこともある程度覚悟している。しかし独身で過ごすとなると、「自分の生活費だけ稼げればいいんだからパートタイマーでも良くない?」「苦労してフルタイムで働く必要なくない?」などと思ってしまうことも今後あるんじゃないか、と思っている(今はまだ思っていない)。そもそも「自分が今後生きる意味」それ自体を疑問に持ってしまうかもしれない。

ただし子孫を残さない中で「自分が生きた意味」をこの世に残すためには、私の性格では結局フルタイムの労働者としてそれなりの働きをすることが一番良いのではないか、と現時点で思っている。「自分が生きた意味」を残すためにフルタイムの労働者であり続ける、いつか「フルタイムの労働者であり続ける」が目的になってしまい真の目的を忘れてしまうかもしれないけど、そのために「やりがい」で自分を「騙す」ことは今後続ける必要がありそうだ。

 

缶コーヒーで有名なジョージアのコピーといえば、「世界は誰かの仕事でできている。」である。

私が漫画アプリcomico連載作品で一番好きな作品『パステル家族』で、主人公の明河原マヨは「働いている人はみんなカッコいいです(んだよ)!」という素敵な言葉を言っている(4話、29話など)。

どちらも些細な言葉かもしれないけど、「自分が世界の一部を作っている」「働いている自分はかっこいい」こういうのでも、今後働く上での割と大きなモチベーションになるのかもしれない。

 

「自分が生きた意味」をこの世に残すため、仕事に「やりがい」を見出して勤労のモチベーションを維持して、今後働いていきたい。

 

……まあ、大学卒業直後の自分がこう思っているだけであり、1年後や5年後や10年後の自分が同じことを考えているかは当然分からない。その時私がこの記事を読んでどう考えるかは、少し楽しみではある。