どこかの元T大生の思考

不定期です。旅行と考えることが好きな元T大生が、たまーに駄文を公開します。旅の記録を語る[旅]、何かに対する見解や主張をぶつける[論]、自分の生き方について思いを巡らせる[憂]、趣味などについて書き散らす[雑]の4つのカテゴリーで。

[憂27]2023年を振り返って

自らの変わらぬ欲求と、着々と積み上がっていく年齢の狭間で。

 

 

2023年が終わる。

昨年2022年の暮れ、私は2022年のことを「人生で最も濃い一年の一つであっただろう」と評した。一方で今年2023年はどうか。社会人2年目を迎えた私であったが、「2022年に実施していたことを淡々と続ける」ばかりの、あまり面白味のない年であったかもしれない。しかし一方で、「淡々と続ける」だけであることに若干の焦りを覚える、そんな年でもあったかもしれない。

年の瀬に、2023年の自分を振り返って、今抱いている危機感をはっきりとさせておきたい。

 

 

 

自由への憧憬は、捨てられず

 

ちょうど一年前、私は下記のような記述をしている。

社会人になって私が思ったのは、私は「自由」をかなり愛していたということである。学生の間はかなりフラフラしており、そこに深い楽しみを覚えていたのが私であったのだ。それに対して社会人となると当然の如く「責任」がまとわりついてきて、迂闊な行動を取ることができない。

しかしながら当然であろうが、人間が成長するには「責任」を取るため適切な行動を取れるようになることが大事である。

 

9ヶ月が経ってなお、私は一人前の社会人とは口が裂けても言えないような状態だが、そろそろしっかりと「自由」への憧憬を捨て、「責任」を背負う覚悟を決めねばならないのかもしれない。

では果たして一年後、私という人間は「自由」への憧憬を捨てられたのかというと、決してそんなことはなかった。

趣味最優先なので趣味の時間が欲しく、休暇を希求する。気楽な一人行動を愛するが故に、伴侶を求めない。

 

 

 

仕事第一のマインドにできない

 

1年9ヶ月の社会人生活を経て改めて、私の生活の中心は仕事ではなく趣味である、ということを強く自覚してしまった。

 

大学時代の私にとって労働とは、「生活の中枢となる存在を実行するためにやらねばならないもの」「目標達成のための手段」という認識であった([論31]参照)。自由を奪われる労働という行為は基本的には忌避し、フルタイムに近いインターンなど「貴重な学生生活をそんなことに使うのか?」と絶対にやらない心づもりでいた。一方で、労働が生活の大半を占める社会人になれば、労働というのはそれ自体が自然と「生活の中枢」「目標そのもの」になっていくのではないか、と私は楽観視していた。

……しかし実際は、そうとも限らなかった。残念な社会人が出来上がってしまった。

活動可能時間のうち多くを取られるため「生活の中枢」になったのは間違いないが、「第一優先とするもの」かと言われればそうではない。私の頭の中は常に「次はどこの路線バスに乗りに行こうか」であり、常に有給休暇の取得計画を立てているものである。

そして「目標そのもの」になんかなりやしなかった。目標はやはり「国内全鉄道路線完乗」「路線バスと船のみで東京駅と全国を繋ぐ」であり、仕事で何らかの功績を上げることは二の次となっていた。

 

今私がいる業界及び区分というのは、いわば責任に対して賃金が割に合わない。崇高な精神のもとで自己犠牲的に労働しようとする人々によって支えられていると言っても過言ではない。

しかし私は、あまり深く考えずに「興味のある分野だから」ということでこの世界に飛び込んできた。いわば、他の人々と比べてやる気が圧倒的に足りない状態で入ってきた。今でこそ落ち着いてきたが、春頃には「何でこんなところ来ちゃったんだろう」と本気で悩むことが何日もあったものである。

「ワーク・ライフ・バランス」という言葉に腹が立つことがあった。なぜ労働が当然の如く第一優先になっているのだ、と。働かなくて済むなら働くわけないじゃないか、と。でも実際は労働に身を捧げる人がいて、むしろそういう人の方が多いとも言えるかもしれない。仕事が二の次になる私の方がおかしいのかもしれない。

 

なぜ仕事をするのか?上記のように自己犠牲的精神が欠如しかつ独身である私にとって、その答えはもはや「稼ぎを趣味に使うため」と「ニート期間があることで再就職できなくなる等の事態が起こらぬよう、将来の選択肢を狭めないため」でしかなくなっていた。ちなみに労働のその他の効能として「頭を使わないと頭の機能が鈍って早く老化するし、日常に彩りが無くなる」という人もいるが、私レベルになるとそれは趣味で十分補える。

 

趣味を持っていることは、人生の豊かさや職場以外でのセーフティネットの構築といった点で、しばしば肯定的に捉えられる。しかし同時に、仕事に集中できないことがあるということをも意味する。特に私のように時間のかかる趣味があれば、趣味優先の生活になった場合どうしても仕事の側が疎かになり過ぎてしまう。

趣味というものとうまく付き合わないと、私のように仕事第一のマインドにできない、社会不適合者が出来上がってしまう。

 

 

 

拗らせた挙句、パートナーを欲していない

 

学生時代、私はかなり拗らせた人間であった。このブログの「拗らせ」カテゴリーなんかかなり酷いものである。

ところが社会人になり、拗らせることは著しく少なくなった。もはやどうでも良くなると同時に、そもそも私が一人行動を好む故にパートナーの存在は「邪魔」であると完全に思い込んでしまったのである。

 

視聴頻度は下がったが、私は今でもアニメ好きである。青春模様を描いた作品はよく観るものである。

しかしそこで受けるダメージというのが「こんな青春を送れれば……」とかそういうのでは全くなく、「もう自分って高校卒業してから6年経つんだな……」みたいな方向に完全シフトしているのである。まあ恋愛関係にある男女を羨ましいと思わないことはないが、「でもそのせいで自分の人生振り回されるの嫌じゃね?自分が学生時代そうじゃなくて良かったー」とか本気で思ってしまう大変に残念な人間になっているのである。

 

飲み会の場でそういう話になった時、提供できる話が一切ない。そしてそれが平気になっている。

今こそ一人で動ける体力があるから良いが、老後を一人で過ごすのは厳しいと思っているので結婚願望はある。それなのに、今すぐに行動することで自分の時間を犠牲にするほどじゃないと勝手に思い込み、何も行動しない。

いよいよ、本当にどうしようもない人間になってきている。

 

こういうふうに、私は社会人になっても内面全然成長していない。それどころか、「悪化している」という見方すらできてしまう。

 

 

 

一方、人生は進んでいく

 

当たり前だが、年齢は積み重なっていく。私のいる世界だと年功序列だから当然責任はついてくるし、周囲で結婚する又は結婚秒読みという人も増えてきた。

そう考えると、私はこのまま自由を愛し続ける成長しない人間で良いのだろうか、と思うようになってきた。

 

趣味を愛すること自体は悪くない。しかしもう少し仕事にウエイト置かないと破綻する。

一人の時間は素晴らしい。しかし危機感を持って何らかの行動をしないと、老後を孤独に過ごす独身男性の出来上がり。

 

一年経って全く変わらなかったのだから、私のマインドを変えるというのはなかなか難しいと思う。

でも、2024年こそは何らかのアクション起こさないともっとどうしようもない人間になっちゃうよな、とも思う。

 

欲求に忠実にいるだけでなく、しっかりと将来のことを考えて行動できる人間に、2024年はなりたい。大したことない目標みたいだが、私にとっては大した目標なのである。

 

 

2023年の最後に。

結局あまりブログも書けなかった一年でしたが、来年こそは[論]カテゴリーの真面目な内容を綴るのも、[雑]カテゴリーで路線バス乗り継ぎなど趣味を語るのもいろいろやりたいと思います。

2024年もよろしくお願いします。