どこかのT大生の思考

不定期です。旅行と考えることが好きなT大生が、たまーに駄文を公開します。思考をつらつら述べる[考]、旅の記録を記す[旅]、人間関係の悩みを書き散らす[拗]、その他趣味などを語る[特]の4つ。

[考37]卒業の季節と、時の流れと、薄れていく人間関係に寄せて

もうすぐ21歳らしいね。来年卒業らしいね。

 

3月は別れの季節である。ちょうど今日、東京大学でも学位授与がなされ、4年生の先輩方が社会あるいは大学院へと巣立っていく。

……ふと考える。ここで別れていった先輩方とは、今後関わることはあるのだろうか。今後の人生において、これらの先輩方の存在が大きく影響するライフイベントは、発生するのだろうか。「学部生」「サークルの仲間」といった共通点が消滅することで、「かつて知り合いだった疎遠な人」に成り下がらないだろうか。

今春卒業する先輩方は一個上であり、昨年までに卒業した先輩方より親密に関わっていたが故に、むしろそのようなことを考えずにはいられない。

 

思えば私は、過去の人間関係にこだわらない人間であった。というか、人間関係そのものにこだわらない人間であった。

中学を卒業する際には、好きだった仲間との別れに目頭を熱くした。しかしながら高校に入学するとそこで新たな人間関係を築き、中学の同級生とはすぐに疎遠になった。習い事も部活も同じで、くだらないやりとりばかりしていた腐れ縁の友人も、高校入学後しばらくすると連絡を取らなくなった。

中学を卒業する際、習い事をやめた。その習い事を通して仲良くなった仲間もいた。しかしながらやめた後、彼らとは一切連絡をとっていない。

高校時代、ある全国大会に出たことがあった。そこで全国の高校生と交流した。せっかく会ったのでとLINEの交換もした。しかしながらLINEでのやりとりは、長くて3日で途絶えた。

高校(男子校)の文化祭でフォークダンスがあり、友人が連れてきた他校の女子高生と踊ったことがあった。いろいろ話をした。しかしながら連絡先を交換せず、かつ連絡先を交換しなかったことを一切後悔しなかった。

高校の同級生や大学のクラスメート・サークル仲間などは、基本的にLINEを持っているので常に連絡を取ることができる。しかしながら(特定一部の親しい友人を除き)その人に用がある時にしか連絡しないため、サークル内での仕事など「その人と私を繋ぎ止める存在」がない限りは連絡せず、かつてお世話になったような人でも疎遠になっていく。

そもそも私は、特定個人への関心が薄い。特定個人と積極的に親しくなろうと努力することはなく、大学という疎な環境において構築された人間関係は、私の周りにおいてはほとんどが薄っぺらい。サークルなどにおいても、自分以外でグループが構成されていき、自分は「誰とでも話せるけど誰とも特段親しくない」という中途半端・真っ先に切り捨てられる位置に落ち着く。

 

このような過去を振り返る限り、私は卒業した先輩方と今後関わることは、ほとんどないのだと考えられる。寂しいものである。

 

……ここで「寂しい」と感じるということは、いくら特定個人に無関心と言っている私であっても、心の底には特定個人への関心があるということだろう。

わかる。「この人と今後関わらなくなることが寂しい」という感情の存在が。「この人ともっとお話ししたかった」という感情の存在が。

「じゃあ連絡取れば良いじゃん」と思われるかもしれない。だがコミュ障にとって、特に用がないのに連絡をすることは至難の業である。そもそも私自身は「誰とでも話せるけど誰とも特段親しくない」という位置にいるため、その人とも以前から特段親しかったとは限らず、突然連絡しても「なんでこいつから連絡が来たんだ?」という感じになりかねない。

 

……そのようなことを危惧し、連絡を取らない結果として、人間関係の疎遠化は進んでいく。

そして「この人ともっとお話ししたかった」という感情は、時が経ち新たな人間関係が構築される中で薄れていき、結局その人とは疎遠なままで終わる。

時の流れは、コミュ障っぷりと相まって、私の中の特定個人への関心を薄くしていく。

 

ところで私は、現在3年生だ。ということは、順調にいけば来年の今頃には大学を卒業するということである。まったく、時の流れは早いものだ。

2011年に地上アナログ放送が終了した際、移行措置としてケーブルテレビなどを用いたデジアナ変換が、2015年まで提供されると聞いたものである。その時は「遠い将来だな」と考えていたが、その将来はいつの間にかやってきた。それどころか、もうそれから6年が経とうとしている。6年というと小学校入学年限だから、相当な長さである。

2013年の秋、2020年に東京オリンピックが開催されることが決定した。その時の驚き、駅前で号外を受け取ったこと、私自身は鮮明に覚えている。その時「東京オリンピック」というのは7年後、遠い将来だと思っていた。しかしながら2020年はすでに終了した。

先日をもって、東日本大震災から10年が経過した。来月には熊本地震から5年が経過することとなる。あのニュースを見た時の衝撃、計画停電で早めに寝た記憶、最近あったことかのように思い出すことができる。しかし実際は遠い昔の話であった。

おそらく、これからの1年もあっという間に経過する。気づいたら私も卒業生になっているのであろう。(まあ無事に卒論が受理されたらの話であるが。)

そして同時に、自分自身が思うよりあっという間に、人間関係の疎遠化は進展していくのだろう。

 

時の流れといえば、実は明日が私の誕生日であり、私は明日をもって21歳になる。また一つ歳をとる。

これまで、誕生日というのは自分の成長と可能性の拡大を自覚できる、自分にとって喜ばしい存在であった。しかしながら最近は、誕生日を迎え歳をとることが怖くなってきた。

おそらく、これからは自身の可能性が縮小していく方向に人生が進んでいくからであろう。

 

大学生というのは自由な存在だ。勉学もアルバイトも遊びもサークルもできる。

大学生の時期というのはキラキラした時期だ。大学の友人と、大学生らしい遊びをし、青春を謳歌することができる。

大学生というのは可能性に満ちている。まだ何者にもなりきらない、これからの社会にとっての期待の星。

……そんな大学生も、私にとってはあと1年である。名残惜しいものである。

 

これまでの記事でも何度か触れてきたことではあるが、私には「青春コンプレックス」ともいうべきものがある。人間関係の構築に成功せず、人を好きになることができず、主にフィクションにおいて描写される「青春」を謳歌できなかったことに対する未練と、それが未来永劫実現困難であることに対する絶望である。

まだ大学生である限りにおいて、「青春」を取り戻せる可能性はゼロではないが、いざ大学生という立場を脱却すると、それは限りなくゼロに近くなる。

そして一生「青春コンプレックス」を抱えながら生きることになる。

そんな将来が、怖い。

 

おそらく私は歳を経るごとに、深い人間関係の構築が不得手になってきている。それどころか最近では、新たな人間関係の構築が怖くさえなってきた。

しかし現実は残酷で、そのうち「結婚」などという言葉が頭を離れなくなることだろう。しかしながら私は、それほど深い人間関係を築ける自信がない。

あるいは仮に結婚できたとして、結婚式に誰を呼べるのだろう。大学時代からも時が経つから、大学時代の友人とも疎遠になって、その人たちを呼ぶのにも負い目を感じるようになっているかもしれない。

 

……などと考えつつ、時は止まることを知らない。

結局、時の流れに身を任せつつ、「まあなんとかなるでしょ」の精神でやり過ごしながら、21歳の誕生日を迎える。

[考36]猫嫌いと、価値観への懐疑

なんでみんなあんな無能生物を好むんだよ(暴言)。あんな奴が可愛いと思われる価値観そのものをひっくり返してやりたいよ(暴言)。

※この記事に書いてあることは完全に個人の主観であり、愛猫家を真っ向から否定するものではないことは、最初に留意いただきたい。

 

 

猫が嫌いです

 

突然だが、私は猫が大嫌いだ。

私以上に猫を嫌っている人間はそうそういないだろう、と思う程度には大嫌いだ。

 

「そいつら」は、いつからだか我が家のそばに現れるようになった。私は生物含めて「特定の他者」に関心の薄い人間のため、突如現れた「そいつら」のことも特段気にしなかった。そんなの気にするよりは、自分のことを気にした方がよっぽど良いからだ。

しかしある時、「そいつら」は私の親に連れられて我が家の中に入ってきた。突然我が家はペット持ちの家になった。親は「そいつら」のためにトイレとケージを買ってきた。「そいつら」はどんどん成長して活発に動くようになり、ケージはどんどん大きくなり、家の階段の前には(侵入防止の)扉ができた。「そいつら」は何も気にせず走り回り爪を研ぎ、家の壁を大幅に傷つけた。

別にそれだけなら無視すれば良いだけなのだが、厄介なことに私の生活を侵害し始め、無視できない存在となった。親が不在の時、餌を与えるのが私の役割となった。米袋を「そいつら」が襲うのを防ぐために、米袋を入れるための大きな木箱を作らねばならなくなった。こたつでぬくぬくしようとしても、「そいつら」が否応なく私の邪魔をしてくるようになり、パソコンや図書館の本を置くことさえ迂闊にはできなくなった。リビングに干してあるワイシャツなどが「そいつら」の侵害を受けるようになり、即座に洗濯物を回収しないと酷い目に遭うこととなった。「そいつら」は爪を立てながら私の足をよじ登ろうとし、私に傷を負わせた。食事をするにも「そいつら」が食べようとするのを防がねばならなくなった。「そいつら」はしまいには家の階段の扉を勝手に開け、2階で私が講義をしているのを邪魔し、私の所有物を漁るようになった。そもそも「そいつら」はやたらうるさい声で鳴き、私にとっての騒音そのものとなった。

「そいつら」という一切歓迎していない存在により日常生活が邪魔され、「そいつら」を無視することもできず、私は平穏な生活を侵害された。ついには、「そいつら」がいないというただそれだけの理由で一人暮らしをしたくなったレベルである。

 

妹は「〇〇たん可愛いのう」としつこいくらいによく言う。母親は猫撫で声(正直気持ち悪い)で「そいつら」に話しかける。父親は「そいつら」を目前にすると謎の動きをする。少なくとも、私以外の家族が「そいつら」を可愛がっているのは事実である。また家族以外でも一般の人間は猫に対して「可愛い」との感情を持つらしく、猫単体のみならず「ネコミミ」など猫から派生したものも「可愛い」とされる現状である。

しかし私は「そいつら」を一切可愛いと思わない。勝手にやってきて勝手に人間のリソースを食って、それでいて人間に対して何のリターンももたらさない、ただの図々しい生物である。邪魔者でしかない。あと、いろいろな人がハンドルネームなどで「〇〇ねこ」を名乗るのは気持ち悪くてたまらないし、「かまってにゃん❤️」「にゃーん」みたいな言い方は吐き気が出るほど嫌いになっている。マジで滅びろ。

私以外の人間の「可愛い」という感情のために、私の生活は犠牲になっている。

 

私はかねてより他者に関心の薄い冷酷な人間であり、それを見かねた親が「猫を飼えば少しは暖かい人間になるのでは」と言った。ペットを買えば愛着が湧く、という考えゆえのものであろう。私だって最初はそれを期待していた。

しかし実際は時間が経ったところで、可愛くないものは可愛くない。それどころか、ペットとして飼うことになったことであらゆる負の側面が明らかになり、それまで「好き」とも「嫌い」とも思っていなかったものが「大嫌い」になった。さらには時間が経つごとにどんどん活発になりうるさくなるため、鬱陶しさが増す。ただそんなことを親に言っても「意地を張るなよ」と言われ、友達に行っても「そう思う君は人間として失格」みたいなことを言われる。いや私は本気で「そいつら」を嫌っているんだって。

気になる存在と接触する回数が多いとそれに対する感情が大きくなっていく、という「単純接触効果」が存在する。主に恋愛の場面で用いられる理論だが、異種族間においても当てはまることであろう。それが私の場合は、「嫌い」という感情を助長する方に働いた。

猫を飼えば必然的に「可愛い」という思いと愛着が湧く、という実際は何の根拠もない考えを押し付けられ、それが成り立たない私は「おかしい」「失格」ものとされる。

 

人間の悪口を滅多に言わない(そもそも他者に興味がないしわざわざそれを探すことに価値を感じない)私であるが、「そいつら」に関しては否応なしに生活を侵害してきて構わざるをえないため、ヘイトレベルのとんでもない悪口が数々思いつく。「人間なしに生活できない下等生物」「ネズミがいなければ『可愛い』以外の一切の価値を人間にもたらさない無能」「それどころか人間および人間の所有物を傷つけるマイナスの存在」「『可愛い』ただ一点において辛うじて人間に欲されるだけの雑魚」「リターンをもたらさないくせにやけに餌をねだりにゃーにゃーうるさい声で鳴く我儘と図々しさ満開の生物」「人間の赤ちゃんと違って、成長が一切人間の期待につながらない、なぜ育てるのか意味がわからないレベルのカス」……流石にここらへんでやめておこう。

 

 

「犬が苦手」は許されて「猫が苦手」は許されづらい謎

 

たぶん、犬が嫌いあるいは苦手な人は多くいると思う。現に私も、歩いていて知らない番犬にひたすら吠えられた経験は腐るほどあるため、犬は苦手だ。

一方で「猫が嫌い」「猫が苦手」という声はあまり聞かない。犬の方が番犬としての役割を果たすし利口なのに、そんな犬より無能(過激表現)な猫が嫌われないというのは、本当に謎な現象である。

その理由は「犬は人を襲いかねないが猫は人を襲わない」といったところなのだろう。……いや、猫って本当に人を襲わないのか? 少なくとも私は脚を襲われ出血したが。

 

「猫は可愛い」「全人類は猫を好きである」といった価値観が、もはや社会全体を支配しているように思える。そして多くの人は、その価値観に対して一切疑いの目を持たない。

しかしよく考えてみると、「可愛い」と思われるような犬ですら「苦手」「嫌い」という人は存在するのであって、「可愛いから全人類は好きである」という理論は一切正しくない。

現状は、なぜか猫という特定の種だけが「社会の価値観」という謎の力により守られている状態である。

 

特定生物にだけ当てはまる謎価値観を、堂々と展開しないでくれ。

 

 

現代人はそもそもなぜ猫を飼うのか

 

ネズミが家の中にいることも無くなった現代、なぜ猫は飼われるのか。

私は猫を積極的に飼う理由が一切理解できないため、この問題を考えずにはいられない。

 

まあ答えは結局「可愛いから」「癒しになるから」なのであろう。

現代の猫は愛玩動物である。現代人は生活において様々な苦しみを抱えており、猫はそれを癒してくれる存在として機能するのだと思われる。おそらく他の愛玩動物であるハムスターなんかも同様だ。

 

……だからこそ、「癒し」を求めない&「可愛い」という感情を持たない人にとって、実際猫というのは無意味そのものなのである。少なくとも私には猫は不要だし、メリットが存在しない分デメリットが大きく出て邪魔者となる。

だが、社会の価値観として「猫は可愛い」「全人類は猫を好きである」というものが存在し、猫という存在が無意味となる「癒し」を求めない&「可愛い」という感情を持たない人の存在は無視される。

……特定の価値観にそぐわない人を無視するって、それセクシュアルマイノリティに対してやったらやばいって分かるよね??? 猫の好き嫌いだって極端な話、同じだと思うよ。

 

その勝手な価値観で、一部の人間を無意識に抑圧しないでくれ。

 

 

なぜ「猫を守らねばならない」「猫を虐待してはならない」「猫を殺してはならない」のか

 

猫を積極的に飼う理由は「可愛いから」「癒しになるから」だろうが、飼うきっかけとしては我が家のような「野良猫として迷い込んできたから」「かわいそうで、保護する必要があると感じたから」というのも考えられる。

……だが本当に、「人」という自らの種の保存に一切関係のない猫という存在を、「かわいそうだから」などの理由で守らねばならないのだろうか。

 

私は冷酷な人間なので、他者の生命というのにそれほど関心がない。それでもなんとか人を傷つけず殺さずに生きているのは、「法律で明確に罰せられるから」「周囲の信頼を失うから」以外に「その人も自分と同じように懸命に人生を生きている存在だから」というのがある。しかし猫においては、人間とは異なる存在であり「自我」が存在しないため、殺さないことにおいて「その人も自分と同じように懸命に人生を生きている存在だから」という理由は存在し得ないはずである。

一方で動物愛護団体などの影響により、猫を虐待したり殺したりするのは非道とされる。その理由は「かわいそうだから」であろう。

……だが本当に、「かわいそうだから」という理由で虐待や殺害を行わないのは自明なのだろうか。

 

そもそも「かわいそう」というのは完全に人間のエゴである。猫が保護されないことや虐待や殺害を「嫌」と思っているかは本当はわからない。それどころか、本来の生物システムにおいて弱者(猫)が強者(人間)に危害を加えられることは自然の摂理ともいえ(※この理論は割と怪しいので読者は容赦なく突っ込んでほしい)、人間が猫を守ることは決して自明ではない。

 

異なる種のことを勝手に理解した気持ちになって、謎のパターナリズムをさも当然のように展開しないでくれ。

 

 

去勢は「かわいそう」というけれど

 

私の母親は「そいつら」の去勢手術が終わると、「かわいそうでしょう」と私に向かって言った。

でも去勢は、人間の生活を守るために仕方ないことである。避けることはできない。私は「人間に見つかってしまったのが運悪かったな」と言った。

そもそも「そいつら」は、人間に捕まってこのように育てられなければ、完全に野良のままであれば、わざわざ手術を受けることもなかったかもしれない。繁殖期になる前に、早いうちに死んでいたかもしれない。「かわいそう」とはいうが、「そいつら」をその状態にした犯人の1人は拾ってきた母親よ、あなたである。

 

答えに窮するような問いを、さも自分は一切悪くないかのように出さないでくれ。

 

 

ゴキブリって「可愛くない」ですか?

 

猫と正反対のイメージを持たれる生物といえば、まずゴキブリが存在するだろう。あらゆる人類に(なぜか)好まれる猫と異なり、ゴキブリはいるだけで「気持ち悪い」と言われ駆除の対象となる。

猫が大嫌いな私から言わせてもらえば、この場合ゴキブリだって「かわいそう」である。ゴキブリの場合、人間から「積極的に殺すべきもの」と認識されていることがさらにかわいそうである。

 

謎の価値基準で生命に順位をつけ、その中で「かわいそう」を決めないでくれ。

 

 

まあどうしようもないんだけどね

 

こんな感じで色々と猫に対して恨みごとを言ったところで、私の生活は変わらない。そんな簡単に解消できる関係性ではない。大嫌いな存在が生活の一部になっている、この状態はしばらくは変わらない。

 

というか私は「そいつら」に対して「消えてほしい」とは思うが「死んでほしい」と思っているわけではない。というのも、別に「そいつら」は猫として生を全うしているだけであり、「そいつら」に罪はないからだ。

だからこそ、この問題はどうしようもない。

 

正直、やはり私が家を出ていくことが最適解のようである。まあ就職まであと1年ちょいの辛抱か。

 

若者、猫に家を追い出され(そうにな)る。

[考35]2020年を振り返って

2020年最後25分になってから書き始める文章。

 

 

2020年が終わる。

一言で言って仕舞えば、今年は「波乱の1年」だった。当然である。

 

新型のウイルスが世界中で大流行し、我々の「普段の生活」は失われた。「当たり前」が崩れ去り、数々の予測できなかったような変化が生じた。

大学生は講義をオンラインで受けるようになり、サークル活動なども通常通りに実施できなくなった。学園祭はオンラインになった。参加しようと思っていたプログラムは感染拡大防止のため中止された。またインターンシップの一部がオンラインで開催されるようになる一方、業界によっては新卒採用を取りやめ、就活の様相は大幅に変化した。

そして通学の消滅は、我々の生活そのものにも変化を加えるようになった。通学定期券が消滅したこともあって、埼玉在住の私は都内で友人と会うことが少なくなった。大学の図書館に行くことも少なくなった。

……私自身が2020年を通して感じたのは、「当たり前」の脆さと将来の予測不可能性である。

 

それが長期間続いた。今や「普段の生活」が失われるというより、新たな「普段の生活」が形成されつつある。

基本的にマスクを着用する。三密を避けるために換気がなされる。多くの場所で手指の消毒を行う。風邪をひいたら休む(というか休まされる)。毎日通学はしない。イベントはオンラインが原則。多くの人がzoomを使える状態。

……私自身が2020年を通して感じたのは、「普段の生活」というものの可変性である。

 

ただ一方で、変わらないものもある。

今や第三波が来ていると言われるが、会食を自粛する動きは春ほど見られず、人と会って飯や酒を入れる人がいる。「オンライン飲み会」なるものが誕生したが、それは人口にめちゃくちゃ膾炙したわけではない。偉い人が会食をしたとの記事もあった。「人と会い一緒に食べたり飲んだりする」ことの価値というのは、変わらないようである。

……私自身が2020年を通して感じたのは、「普段の生活」が変容しても変わらないものの存在である。

 

そのような状況下、主に通学の消滅により、私には新たなる空き時間や金の余裕ができるようになった。それを踏まえてバイトの時間が短縮し、睡眠時間が増加し、趣味の一つであるアニメ視聴にかけられる時間も増えた。何かができない代わりに、それに代わる別の価値を有するものに時間を当てることができた。

……私自身が2020年を通して感じたのは、危機的状況・制限のある状況における時間の有効活用の可能性である。

 

医療従事者は苦しみ、医療優先を声高に要請する。一方で観光業従事者や飲食業従事者も苦しみ、経済優先を声高に要請する。どちらの言い分も分かるし妥当である。だが、この両方を実現させることは非常に難しい。

……私自身が2020年を通して感じたのは、異なる立場の人間における議論の難しさと、すべてを解決する策の不存在である。

 

これらを感じさせてくれた、そんな波乱の1年であった。

 

4年しかない大学生活の貴重な1年である。「こうなってほしくなかった」という思いも当然存在する。

だが、この1年を通して、この1年を経験しなければ学ばなかったようなことも学べたと思う。

波乱は、私にいろいろなことを教えてくれた。

 

おそらくこの生活は、2021年に入ってからもしばらく続くと思う。

「やりたいことができない状況」が早く改善してほしいと思いつつ、それまでの生活も、まだ楽しんでいきたいものである。

 

 

2020年は大変お世話になりました。

2021年も引き続きよろしくお願いします。こちらのブログも更新して参りますので、ご愛顧お願いします。

[拗9]他者への無関心の成れの果て

特定個人を好きになれるって、それだけで素晴らしい能力だよね。……と、個人に対して無関心な私は思うのでありました。

 

 

個人への無関心

 

つくづく私は、自分以外の個人に対する関心が薄い人間だよな、と思う。

 

私には、恋人がいない。昔から常に一緒にいる「竹馬の友」と言えるほどの幼馴染がいない(親しい幼馴染自体はいるが)。なんでも打ち明けられる心の友だってそれほどいない(いる分にはいるが)。

しかも幼馴染や心の友だって、いたとしても全然依存しない。

 

これは別に人間不信というわけではない。

ただ、私が個人に対して関心が薄すぎるだけなのである。

 

 

人見知りしない、人の顔を覚えられない、周囲の人間関係に疎い、芸能人に興味ない

 

私は一切、人見知りをしない。初対面だろうが一切緊張せず、あたかも以前から知り合っているかのようなテンションで話しかけることだってある。

これは一見、とても良いことだ。しかしながらこれは裏返すと「たとえ知り合いであっても初対面と同じようなテンションで話す」ということである。つまり、([考9]でも触れている通り)相手にとっては私はよそよそしく見えるということである。

utok-travelandthinking.hatenablog.com

……こうしてみると、一気に印象悪く聞こえるね。

私には「とりあえずあらゆる人に対してとる態度」というのがある。あらゆる人に対して、初対面であれ知り合いであれこの態度をとる。

 

私は、人の顔を覚えるのが著しく不得手である。新しく覚えるどころか、以前親しかった人の顔を思い出すことすら不得手である。このせいで、知り合いにあっても「あれ、あなた誰だっけ」となって「とりあえずあらゆる人に対してとる態度」を取ることがある。

 

私は、自分の周囲にある人間関係に著しく疎い。誰が誰を嫌っている、誰と誰が付き合っている、そういうことは誰かを通してゴシップとして認識するのみである。自ら積極的に「その個人」の人間関係を知ろうとはしない。

 

私は、芸能人に対する興味がとてつもなく薄い。人の顔を覚えるのが苦手というのと相まって、誰が誰だか分からないしそれに詳しくなろうともしない。誰が誰と熱愛とかそういう報道にも一切興味がない。

 

これらはなぜかというと、私にとってそういう人はただの「私でない人間A」でしかないからだ。

 

 

「私でない人間A」

 

私にとって、特に親しい一部の人を除くほとんどの人は全員、「その人しかいない個人」でなく「ある個人」として捉えられる。

私が一番大切にしている「私個人」でない限りにおいて、みんな「私でない人間A」なのだ。

 

その人はたとえ私の知り合いであっても、私の人生に大きな転機を与えるわけではない。その人の思いがどんなであれ、私を大きく変えるわけではない。その人の人間関係がどんなであれ、私の生き方には関与しない。もしかすると私に大きな影響を与えるのかもしれないけど、その人が関わる人ってのは私以外にもいるし、その確率ってのはわずかだ。

そんな人のために自分の貴重な時間を割こうとは、それほど思わない。だいたい私は自分を大切にするし、自分以外にすぐ影響されるほど柔ではない。

だからこそ、必ず影響を与えてくれる特別な存在でないという意味で「私でない人間A」。

 

逆も然り。私はたとえその人の知り合いであっても、その人の人生に大きな転機を与えるわけではない。私の思いがどうであれ、その人を大きく変えるわけではない。私の人間関係がどんなであっても、その人の生き方には関与しない。もしかすると私が大きな影響を与えるのかもしれないけど、その人が関わる人ってのは私以外にもいるし、その確率ってのはわずかだ。

そんな人のために自分の貴重な時間を割こうとは、それほど思わない。だいたい私は、自分を大切にするし、自分以外の人に影響を与えるモチベはほとんどない。

だからこそ、必ず影響を与える特別な存在でないという意味で「私でない人間A」。

 

そんな「私でない人間A」個人には、ほとんど興味が湧かないのである。初対面だろうが知り合いだろうが気にしないし、顔がどんなかもそれほど気にかけないし、どんな人間関係を持っていようとどうでもいいし、有名だろうがなんだろうが知らない。

その人個人の内面を知ったところで得られるものはあまりないから、そんなのはどうだっていい。

 

ただ私は、「私でない人間」は全員区別する。その証拠というか分からないが、私は人の名前を覚えることだけは苦手でない。

だから「私でない人間A」「私でない人間B」「私でない人間C」……。

 

彼ら彼女らが私の中で「私でない人間A」でなく「特別な個人」になるには、結構なステップが必要であろう。

だが私は「私でない人間A」への関心が薄いため、そもそもこのステップが進みづらい。

 

 

「人間一般」に関心がある

 

それでも私は、人との交流を断とうと思ったことはない。人間自体に一切が関心ないわけではない。

 

たぶん、「人間一般」に関心があるんだと思う。

例えば「私でない人間A」がどういう人間関係を持とうが知らないが、「どういう経緯で恋仲になったのか」というのは「人間一般が恋仲になる経緯の1つ」ということで非常に興味がある。「私でない人間A」が私のことをどう思おうが知らないが、「私を嫌っているか」というのは「人間一般が私に対して抱く思いの1つ」ということで非常に興味がある。

 

ちなみに私はTwitterやこのブログに思考を垂れ流すのだが、これは「人間一般が私の思考に対してどう思うのか」というのを知りたいからである。「『私でない人間A』がどう思うか」はどうでもいいから、特定個人にのみ送りつけるようなことはしない。

 

また、私が「私でない人間A」を思いやるのは、たぶん「その人を思いやって」というよりか「人間一般を思いやる一環として」もしくは「人間一般に対する自分の社会的地位を維持するため」である。

 

 

「人脈」という不思議な言葉

 

私は、人脈が豊富な方だと自覚している。

いろいろな活動に手を出していることで「知り合い」は非常に多く、また無難な性格が幸いして多くの知り合いとは良好な関係を維持していると思う。初対面でも臆せず話せる性格(後述)ゆえに新たに知り合い関係を作るのも難くなく、1つの組織内でも顔は狭くないと思う。

 

ただ、それは「友達が多い」を意味しない。

というのも、個人への無関心が災いしてその知り合い個人との連絡を密にせず、心理的距離が狭まらないどころか離れていくのである。個人に対する関心が薄い私にとって、知り合いは一定程度親しくならない限り「特定の名前を持つ『私でない人間A』」の域を脱しない。そして「私でない人間A」である限りにおいて、私はその個人を特別に誘うこともなく、結局ただの「知り合い」であり続ける。

そもそも、大量にいる知り合い全員とコンスタントにコミュニケーションを取るなんて至難の技であり、人脈の広さは(これは[考9]でも言ったことだが)人脈の維持コストの高さゆえに、深い交友関係に対して負の影響すら持ち得る。

utok-travelandthinking.hatenablog.com

 

私は現在サークルの1つを休んでいるのだが、それを親に話したら「下級生の他大女子との人脈が……」など言い出した。私からしたら非常に気持ち悪い発言であるが、「気持ち悪い」以上に「たとえ人脈があったとして効果はあるのか?」という思いもある。

私はすでにある程度の人脈がある。東大以外の大学生との人脈もあるにはある。おそらくこれ以上に人脈を増やしたところで、コストがかかるだけである。むしろ今持っている人脈を維持することの方がよっぽど大切だろうが。

 

ところで広い人脈というのは「『私でない人間A』を知っている人との話のタネになる」という効果もある。もはや今後の私が人脈に求める第一の効果ってのは、これなのかもしれない。

 

「人脈」というものは広ければ広い方が良いもの・広げておくべきものと盲目的に考えられがちだが、そうとも限らないのである。

 

 

プライドが阻む信頼関係

 

人脈の果たす役割としては、「セーフティネット」すなわち「困ったときに頼るアテがある」というのがあると思う。

 

ただ、私はこれを使いこなせない。

というのも、私はプライドが高いがゆえに「困ったときに頼らない」というか「頼れない」からである。まず自分のことは自分で蹴りをつけたいと思うから、積極的に頼ろうとは一切思わないのである。

そもそも「私以外の人間A」であり特別でない存在の中から、誰かを選ぶすなわち「特別な存在」とするというのが非常にハードルが高いのである。これは私が「誘う」という行為が苦手なのともつながるが([拗3]と[拗8]にも書いている)、「私以外の人間A」に序列をつけるのは困難なのだ。

utok-travelandthinking.hatenablog.com

utok-travelandthinking.hatenablog.com

 

そして、困ったときに頼らないからこそ、その人との信頼関係も醸成しづらい。そしてそれが、「私以外の人間A」から「特別な個人」への進歩を阻むこととなる。

 

 

人間関係についてだけ自信がないわけ

 

私は自分に対する自信、「自分が自分にとって魅力的である」という自信はとんでもなく強い。一方で、「自分が他人にとって魅力的である」という自信はとんでもなく弱い。

 

自分は他人にとって魅力的でない、というか自分は他人にとって魅力的であり得ない、と考えてしまうのは「自分はその人を特別に思えないから」である。

私は前述のように、知り合いであっても「私でない人間A」として扱ってしまい、「私でない人間A」から「特別な個人」への進展が起こりづらい。私がその人を「特別な個人」として扱えない以上、その人との関係は深まりづらく、私がその人にとって「特別な個人」になることも難しい。それゆえに、私はその人にとって魅力的たり得ない。

 

 

恋愛や結婚に絶望的に向いていない

 

さて、現代社会における異性愛の人間では「男性が女性にアプローチする」というのが原則として求められる。

もちろん女性から男性へのアプローチもあるし、同性同士のアプローチもあるし、アプローチが存在しないことだってある。しかしながらこの社会では異性愛規範が強く働くうえに、男性側から告白やプロポーズを行うのが普通という価値観が(フィクション作品などを通して)存在するだろう。

この過程で、男性には「パートナーたる女性を選ぶ」ことが求められる。

 

だが、私にとっては恋愛対象は「私でない人間A」である限り差別化されない。(私は異性愛かつ交際経験皆無ゆえ)「私でない人間A」の女性であれば基本的に対象として眼差してしまうのだが、その先で「好き」と思うのにはとんでもないハードルが存在する。

告白とかプロポーズとかの対象として「特別な存在」となる存在なんて、果たしているのだろうか。少なくともこれまで生きてきた20年の中ではいなかった。

だいたい私は「お前しか愛さない」なんて言える気がしない。その人は本当に「私でない人間A」を超え、他の「私でない個人A」と差をつけて愛せる存在になるのだろうか。

 

だからこそ、私が男女交際とか結婚とかできる気は本当にしない。

私が拗らせているのは、こういう背景もあるのである。

 

 

それは本当に「羨望」なのか?
 

私は、大学入学以降に知り合った人々と、「サークルなどの団体全体で行われる行事」「団体全体に対して募集がかけられる行事」を除いて一泊以上のイベントをしたことがない。宿泊を伴う旅行のみならず、誰かの宅で行われるオールだって経験したことはない。そもそも大学入学以降に知り合った人々とは、個人的な日帰りの遊びだってほとんどしたことがない。

すなわち私は、「私」という個人として誘われることもなければ、「誰々」という個人を誘うこともない。これはほとんどの人が「私でない個人A」の域を出ないというのもあるだろう。

 

さまざまな場面で、人の惚気を聞くことがある。それはすなわち、その人は恋愛および男女交際をしているということである。

インスタなどを見ると、人が友人と旅行している姿が見える。それは時に、男女のペア(付き合っているか否かを問わず)であることもある。

私は[拗6]で述べた通り「普通の恋愛関係」というのに興味があるし、「普通の大学生の旅行」というのに興味がある。

utok-travelandthinking.hatenablog.com

これは「人間一般」への興味ともつながる。それもあってか、そういう旅行には憧れることもある。羨ましいと思っているのかもしれない。

 

……だが、それは本当に「羨望」なのだろうか。

正直なところ、「私でない人間A」によって時間が奪われるというのは、自分の時間を大切にしたい私にとっては望ましい事態でない。「私でない人間A」としての大学以降の友人と遊ぶことも、「私でない人間A」としての異性と付き合うことも、宿泊を伴う長時間のもの・関係性が形成されたゆえに長期間継続するものとなることで時間を奪われるのは、本当に羨ましいとは限らない。

……とりあえず憧れているのだと思っていたけど、実はそれが実現したところで、自分にとって理想ではないのかもしれない。この羨みというのは、実態を伴わないものなのかもしれない。

 

そもそも私は、恋人という存在自体を必要としていないのかもしれない。というのも、仮に存在したとして「私以外の人間A」であれば他の人と同じだし、だからといって「特別な個人」になるまでのステップは手間がかかるし、そもそも今の人間関係で事足りているのである。

 

 

「誰でもいい」のかも?

 

それでも私は、いわゆる男女交際を経験してみたいという思いが存在することは変わらない。

だがこれは、「男女交際」を経験するためなら誰でもいいのかもしれない。すなわち、女性であれば誰でもいいのかもしれない。「私でない人間A」でもいいのかもしれない。

 

でも、「私でない人間A」の中から相手を選ぶのが困難であるため、「誰でもいい」と言いつつその先は存在しない。

実は新たな人脈に「出会い」を期待することがあるのだが、それは新たに出会うすなわち以前の人間関係が薄い存在として、以前からの「私でない人間A」とは区別される「私でない人間A」を選択対象としようという思いがあるのかもしれない。

 

……なんて言うけど、結局結婚するなら「私でない人間A」のままでは不十分だ。だからといって結婚しないのは、老後に孤独になりたくないので防ぎたい。

すなわち、いずれ「誰でもいい」なんて言わずに「特別な個人」を作らなきゃいけないんだよなあ。

 

個人に対して無関心なのって損よね。

この先、私ってどうなるんだろ。

[考34]多すぎる「やりたいこと」と逃れられない悩み

選択とはすなわち、何かを犠牲にすること。その犠牲は取り戻せるかもしれないが、若さそして人生は有限である。

 

 

「やりたいこと」ってなんだ?

 

某活していると、「なぜここを志望したのか」ということが問われることも多い。その中で私は、「自分は何をやりたいのか」を考えざるを得なくなった。

……さて、私は何をやりたいのだろう。その答えを考える時、私の頭の中には様々な選択肢が思い浮かぶ。

……だがそれは、すべて実現できるとは限らない。

 

 

進学選択を経て

 

選択は、ある意味前進である。後戻りできないところに自身を置き、将来のルートをある程度強制的に設定して前進を促す。選択を怖がらず、決断しなければならない。そう自分に言い聞かせ、進学選択に挑む。

私は[考1]において、こんなことを書いていた。

utok-travelandthinking.hatenablog.com

そして進学選択を経て社会学に進学し、「将来のルートをある程度強制的に設定」した。


社会学に進んだこと、後悔はしていない。

社会学」の名を振りかざせばもともと関心のあった「地域/コミュニティ」「ジェンダー/マイノリティ」の両方を学ぶことができるし、研究テーマはまあ自由に自分のやりたいことを設定できる。理論を学ぶのも面白いし、何より「科学」を通して世界の解像度が上がるのが楽しい。

むしろ、ここを選んで良かったと思っている。

 

ただ、たまに「これでよかったのか」「もしここに行っていたら……」と思ってしまうことはある。

私が進学選択で迷ったのは、工学部の建築系3学科および教養学部であった。都市計画に進んでいれば関心事項のひとつであるまちづくりについて詳しく知れたはず、社会基盤に行けば好きな交通のことをより深く学べたはず、建築も昔から関心のひとつだったから面白かったはず、人文地理は昔から大好きだったし社会学よりもっと「地域」に目を向けられたかも知れない、総社なら(まあ行けたらの話だが)社会科学を網羅してもっと広い視点を持てたかも知れない、他にも……まああげたらキリがない。ちなみに法学部に行かなかったことは一切後悔していないし、完全に正しい判断だったと考えている。

社会学で学べることがどれだけ充実していても、これらの想いが消えることはない。

 

これ、たぶん他の学科に進んでいたとしても同じことを考えていた気がする。今度は「もし社会学に行っていたら……」とか考えていた気がする。もはや、こう考えるのは仕方がないことなのかもしれない。

学科というのは(学部にいる間は)一個しか選べないし、転学科したとしても卒論を書く学科はひとつである。すなわち絶対に「何かひとつを残してそれ以外を捨てる」のである。「他学科履修すればいいじゃないか」などのたもうても、やはり卒論を書くかそうでないかは大きく違う。

だいたい、私の「やりたいこと」というか「学びたいこと」がひとつに定まってさえいれば、こんなこと考えることもなかった。「学びたいこと」が拡散しすぎたが故の悩みであり、原因は欲張りなままでいた私にある。

 

 

課外活動でやりたかったこと

 

まあ現実の私を知っている人なら承知の事項かと思うが、私は複数の課外活動団体を掛け持つ人間である。

やりたくないのに入ったものなど存在しない。すべて「やりたい」から入ったものである。そうしたら最大で同時5個、通算7個の団体に所属することとなった。

 

合唱。これは私が高校時代から興味があったものである。高校の男声合唱が割とガチだった(すなわち忙しそうだった)のと高校では別のことをやることにしたのとで、結局高校時代はやらなかった。だが大学に入って「サークルならまあ部活ほど忙しくないだろう」とのことで、興味に任せて入ったものである。実際やってみたら歌うのは楽しかったし、入ってよかったと思ったものである。……ただ自分の忙しさもあり「続けたい」という思いが少し薄れてしまったので、今はお休み中。

学園祭。高校時代は制作に徹していたが、大学ではもう少し運営に携わりたいと思って高校時代と別の分野で携わってみた。しかもその中でも多様な担当をやってみた。しんどいけど楽しいものである。

山登り。運動不足を反省して、景色に魅せられて、そしてあるアニメに影響されて?、始めた。私自身が忙しいためあまり参加できていないが、楽しいものである。

あとその他にも3つから5つ存在するがここでは割愛しておく。

大学の課外活動をきっかけとして「やりたいこと」を始めることができ、忙しい中でもある程度は取り組むことができ、満足だ。

 

……実は大学で取りこぼしたものがひとつある。それは私の場合は「演劇」であった。

実はこれも高校時代から憧れていた。めちゃくちゃ興味があった(ちなみに役者に興味があった)。大学でも始めてみようか悩んだ。でもまあ忙しいだろうと感じて、上記の3つに負けてやらないことにした。

これを始めなかったことで、私の頭の中に「もし演劇をやっていたら……」という思いが残ることになった。

でも、逆に演劇に手を出していたら間違いなく他のどれかを犠牲にしていた。その際には別のことについて「もしこれをやっていたら……」と思っていたのだろう。

 

ちなみに「ある地域と深く関わる」というのも、やってみたいことのひとつであった。

2年生になり、周囲の友人たちに憧れのようなものを抱いて興味を抱いた。2年生までサークルや免許合宿にかまけて機会を逃し続けてきたので、3年生になった今年こそはと思っていた。しかしコロナにより頓挫した(居住地のせいで拒否られた/プログラム自体が中止になった)。

「2年生の時になんらかのプログラムに参加していれば……」という思いは残ってしまった。

でも、2年生の時に手を出していたら間違いなくサークルの合宿などを犠牲にしていた。その際には別のことについて「もしこれをやっていたら……」と思っていたのだろう。

 

学科とかとは違って課外活動では複数行うことが可能だが、人間にはキャパシティがあるためどれか犠牲にせざるを得ない。

「やりたいこと」が多い限り、「もしこれをやっていたら……」という思いは絶対に消えない。

 

 

アルバイトでやりたかったこと

 

私は多くのアルバイトを経験したことがある。単発も含めてしまえば、たぶん15くらいの業種を経験したことがある。

これは「やりたくないのにお金のために渋々やっていたもの」も存在する。

 

そもそも私は労働なんてしたくなかった。だが自分で自由に使える金(すなわち趣味の旅行やサークルに使うための金)を確保するためには労働せざるを得ず、その中で「せっかく労働するなら少しでもやりたいと思うものをやりたい」という思いがあった。

東大を目指す中高生や、東大の新入生に対してアドバイスを行う仕事。自分の経験を生かしてドヤ顔をし……いや、役に立つアドバイスをするのが絶対に楽しいと思って始めた。実際に楽しい。

レジャー施設。前回の記事でも書いたように私は「非日常」が大好きなので、それを支える仕事には憧れがあり、一員になってみたいという思いがあった。実際に楽しかった。

他の「やりたいこと」を実現するためには金が必要なのでアルバイトせざるを得ないが、そのアルバイトすら「やりたいこと」にできれば楽なものである。

 

だが、「やりたいこと」だけで金が得られるとは限らない。時給が高いことから儲かると考えて始めた家庭教師、「せっかくなら社会勉強としてコンビニでもやってみるかー」という感じで始めたコンビニバイト、本当に金欠の時にはやらざるを得ない派遣の軽作業、これらは続けるうちに「やりたくないこと」になる。

当然ながら、「やりたいこと」だけで生きるってのは難しいってことだ。

 

 

「将来の夢」

 

最初にちょっとだけ触れた某活の話に戻ろう。

 

就職の準備。まあこれから自分がどのような職業に就くかを決める機会ということで、いわば自分の夢の再発見となる。

 

私の場合、自分の夢すなわち「やりたいこと」が何か探っていった結果、「自分の力を生かして社会に奉仕すること」もしくは「自分がやって楽しいと思える仕事をやること」の2つが考えられた。前者はすなわち公務員ということになるが、ここで後者を突き詰めてみると「鉄道系」「旅行業」という答えが出てきた。

……これは考えてみると、小学生や中学生の頃の原体験に基づく当時からの夢であった。当時から憧れがあった。そして今なお、それをやったら絶対仕事が楽しいだろうな、やりたいな、という思いがある。こないだ企業説明会に参加した際は、再び惚れてしまった。

 

……さて、私はなぜ「自分の力を生かして社会に奉仕すること」すなわち公務員をやりたいと思ったのだろうか。「自分がやって楽しいと思える仕事をやること」と比べてインセンティブが小さく、今になってなぜ目指したのか分からなくなってきた。選んだからには当然理由はあったのだろうが、鉄道業や旅行業より強い理由づけが見当たらない。

ここで公務員を選んでしまえば、自分の夢を確実にひとつ捨てることになる。……そう思うと、公務員を目指すモチベーションも低下してしまった。

 

でもたとえ「自分がやって楽しいと思える仕事をやること」を選ぶとしても、どっちかを捨てることになる。

そして将来、「もしこっちをやっていたら……」という思いを抱くことは、どうしても避けられない気がする。

「将来の夢」すなわち「やりたいこと」が複数ある限り、これは宿命だ。

 

 

若さと人生は有限

 

「そんなにやりたいことがあるならすべてやればいいじゃん」「時間がない? そんなの人生ゆっくり生きればいいだけさ」

こう言われたって、若さは有限。そのうち気力がなくなり、「もしこれをやっていたら……」という思いを一生抱いて生きていくことになるだろう。それに残念なことに、「やりたいこと」にかまけてゆっくり生きていると、他の「やりたいこと」を真に実現するためのキャリア形成が難しくなってしまう。

そして人生は有限。「老後にこれをやろう」と言ったところで、老後がどれくらい残されているかなんてわからない。あと、やりたいことをなんでもやろうとすると、[考30]で述べたような器用貧乏になる。

utok-travelandthinking.hatenablog.com

 

 

「やりたいこと」が多い状態は決して悪いことはなく、むしろ人生を楽しませてくれ豊かにしてくれ生きる気力を与えてくれる。これは私のバイタリティにもつながっている。

しかし「やりたいこと」がありすぎる限り、どうあがこうと「もしこれをやっていたら……」と思うこと、それに苦しまされることは避けられない気がする。

……ところでフィクションって、「やりたいこと」を擬似体験できる、実は結構優れたツールなのかもしれない。

 

まあ、これからずっと「もしこれをやっていたら……」という思いとともに生きていくしかないのだな。別に私が悪いというわけじゃないんだから。

[特14]「非日常」に、魅せられて

非日常を支えたいし、非日常を味わいたい。

 

 

歴史の終わりに触れて〜最後まで変わらぬ「非日常」

 

2020年8月31日、私はとしまえんにいた。

94年の歴史に幕を閉じる、まさにその日である。

 

私は以前としまえんで目一杯遊んだ記憶もないし、強い愛着を抱いているわけでもない。ただ、訳あって最終日に行くこととなったのだ。

営業最終日であっても、としまえんは普通に遊園地であり、普通にレジャープールであった。入園制限期間の平日だったからなのかもしれないが、めちゃくちゃ混んでいるという訳でもなかった。そこにはただ、遊園地という空間を楽しんでいる客と、その空間を楽しいものにするため尽力しているスタッフがいた。

とはいえ、「明日からはもう永遠に見られない」と考えた瞬間に、見える景色は変わった。もう遊べなくなるのか。そしたらこのアトラクションはどうなるんだろう。スタッフさん達は何を考えて最終日を過ごしているのだろう。明日からは、どこに勤めるのだろう。時間の都合上、私は完全に閉園する瞬間に立ち会うことはできなかったが、「今日で終わり」というのはしっかりと感じていた。

 

遊園地、それは「非日常」の空間である。決して安くない金を払って、日常生活では味わえないスリリングやメルヘンを感じ、家族や友達や恋人と思い出に残る時間を過ごす。

そして非日常の空間は、それを支える人がいるがゆえに「非日常」として存在し得る。遊園地のスタッフは、客の「非日常」を支えるべく勤務している。それこそスタッフにとっては「日常」でありマンネリ化するかもしれないのだが、それでもずっと「非日常」の実現のために尽力している。もう何も残らない本当に最後の日まで、変わらずに。

 

その「非日常」は、明日からはもう見られない。最終日というのは「非日常の中の非日常」である。客としては、これまで愛着がなかったとしても、なにか哀愁を感じてしまうものである。

でもその中で、いわばいつもと変わらぬ(というかいつもから素晴らしい)サービスによって「非日常」を提供してくれるスタッフがいる。そこで体験できる「非日常」の質は、最後の日まで変わることがない。

ただ、スタッフの心の中も穏やかでないかもしれない。親しんできた職場、ずっとそばにあったアトラクション、そして客の笑顔、そういうものと別れることになる。遊園地勤務が非日常であったとしてももはや日常になっていたとしても、最終日はやはり特別な「非日常」となってしまうのだろう。

 

「非日常」の終わりというのは、美しい。

 

 

歴史の終わりに触れて〜「日常」が「非日常」になる瞬間

 

時は遡って、2020年3月31日。私は渋谷駅玉川改札の前、少し開いた空間にいた。

東急百貨店東横店が85年の歴史に幕を閉じる、まさにその日である。

 

私は以前東横百貨店を頻繁に使ったわけではないし、強い愛着を抱いているわけでもない。ただ、いざ無くなってしまうと考えると、どうしても名残惜しくて使いたくなってしまったのである。当時不足していた、ズボンのベルトと手帳を買うことにした。

某キャンパスに通学していた私にとって、通学時に嫌でも見ることとなる東横百貨店は「日常」でしかなかった。あまりにも「日常」であるがゆえに、強いて「使おう」と思ったこともなく、「あーそういやあったな、今日はちょっと寄ってみるか」くらいにしか思っていなかった。

しかし、閉店が近づくにつれてそれは「非日常」の場と化してきた。「日常」「日常」でなくなる日が、近づいていた。そして営業最終日には売りつくしのセールが実施され、閉店を惜しむ客に囲まれた東横百貨店はすっかり「非日常」となっていた。某感染症のせいで大きなセレモニーなどは実施されなかったが、最後の客を送り出した後の閉店の際には、店長(確か)が言葉を述べた後に全従業員が並んで頭を下げながら、シャッターが下がっていった。あの光景は、おそらく一生忘れない。

 

通勤客であふれる乗換通路の横に佇む百貨店、これは多くの人にとって「日常」の存在だったかもしれない。

普段生活を送っている分には、特に強く意識することもないかもしれない。当たり前の存在として捉えているかもしれない。私自身当然そうだった。

 

でもそれがいざ終わってしまうとなると、不意に「日常」の中に隠れていたさまざまな思い出が蘇ってくるものである。

東横百貨店の閉店時、私の横に立っていた若い女性が涙を流された。それを気遣った隣の女性(私自身はチキンなので話しかけられるわけもなかった)が話しかけられたところ、どうやら少し前まで東横百貨店で勤務なさっていた方だったと。その若い女性は、勤務当時の様子を思い出されていた。そして声をかけた女性の方も、子ども時代の思い出を少し語られていた。

「日常」が終わりを告げ「非日常」になる瞬間は、改めてその「日常」の中にあった新鮮な感情や思い出を呼び起こす。

 

「日常」の終わりというのも、これまた美しい。

 

 

「非日常」を求めて旅に出る

 

私は旅が好きだ。

 

旅は、非日常そのものだ。

家という日常生活を過ごす場所を離れ、必要な限られた荷物だけを持って出発し、普段の生活では得られない体験や見られない景色を楽しみ、平常時とは異なる寝床に眠る。

まさに非日常の代表的存在、といっても過言ではないだろう。

 

なぜ、私は旅が好きなのだろう。

「鉄道に乗りたい」「美しい景色を見て心を浄化されたい」など理由は様々に考えられるが、やはりその中でも「非日常を味わいたい」というのが大きい気がする。

 

旅そのものが、非日常である。一人旅だろうが少人数での旅だろうが大人数での旅だろうが、これは変わらないだろう。

一人旅の場合、「ひとりで長い間行動する」これ自体が非日常でありワクワクする。少人数の旅の場合、「親しい人間と語らいながら長時間行動する」これは非日常。大人数の旅だって、通常行かないところにみんなと行くってだけで非日常だ。

単なる旅でなく「それまで知り合いでなかった人と関わる」「宿泊型プログラム」だと、これまた違った「非日常」性がある。新たな人との出会いと交流、これだって非日常だ。一緒に行く人でも、行った先で出会う人でも。

 

旅において、私は特に「美しい景色」を好む。

車窓から見える棚田、昼の山頂から眼下に望める風光明媚な自然、夜の山頂から望める美しい夜景、海岸や崖に見られる奇勝、そして西側に開く海岸から眺める日没。自然だけじゃない、賑わいを思わせる地方都市の商店街、歴史的建造物と街並みの残る重伝建、整備された山紫水明の庭園、小さな港町の静かな小路。

これは、「非日常」だからこそ良いのだろう。当たり前じゃないからこそ、その良さを求めて旅をする。当たり前じゃないからこそ、それに触れて感動する。

 

逆にオフィス街だとか閑静な住宅街だとか単なる里山だとかチェーンストアだとか、そういうのは私にとっては「日常」の一部だから、旅の過程で見ても感動はしない。また、毎日長距離通学するみたいに旅が日常の一部となってしまうと、感動は薄れる。

旅は、それが「日常」と遊離しているからこそ良いのである。

 

 

「非日常」と「日常」の境目

 

……いや、そうとも限らないかもしれない。

 

実際のところ、長期間旅をしてから「日常」の景色に戻ってきた瞬間、これも何とも言えない気持ちを抱くものである。非日常が終わってしまうという寂寥感、非日常を振り返って感じる楽しさと懐かしさ、逆に不安定な非日常から安定した日常に戻ってきたという一種の安心感。

また、見知らぬ地にて見知った景色を見たときなども、懐かしさや安心感を抱いてしまうものである。だってさ、見知らぬ土地なのにマックとかファミマとか見つけたらなんか安心しない……?

旅が日常の一部となる、これは感動が薄れるのは確かであるが、その中で何らかの非日常的アクションが生まれると突然面白くなる。日常と化してしまったルートの中で、いつも寄らないところにふと寄ってみて、そこで突如非日常を感じる。

そういう「非日常」と「日常」の境目のあの微妙な感覚も、また面白いものである。

 

そもそも、旅は必ずしも日常と遊離していない。例えば旅先から関東の友人と連絡を取ったり通話したりすることはよくあるし、旅先でレポートや作業をすることもよくある。

さまざまなことに追われている状況では、逆にこうやって「非日常の中にありながら日常に戻れる状況」ってのが面白いのかもしれない。というか、自分の「非日常」を日常にある誰かに伝えて反応をもらうってことが、面白いものである。……まあレポートや作業については、それと遊離した状態で旅した方が楽しいってのは確実だろうけどね。

 

でも、「非日常」があるからこそ面白いというのは確かであろう。すべてが「日常」になってしまうと、その面白さは無くなってしまう。

必ずしも遊離していないとしても、「日常」とは異なる「非日常」が確と存在する、それが面白さを生んでくれる。

そしてこれは、旅に限ったことではない。遊園地だってイベントだって冠婚祭だって店の閉店時だって、たとえ日常生活の一部と絡んでいたとしても、結局「非日常」が面白さの源泉なのだろう。

 

 

「非日常」を支えるのが、かっこよくて面白くて

 

旅は、自分一人でできるものではない。……これは「一人旅はできない」って言っているわけじゃなくて、「誰かの働きなしには一人旅さえできない」ということである。

公共交通機関を使った旅の場合、交通機関を運転したり切符を発券したりしてくださる方々がいてこそ、その交通機関を使って旅ができる。旅先でご飯を食べる場合、作って売ってくださる方々がいてこそ、美味しい名産を食べることができる。どこかに泊まる場合、フロントで応対したり床を整えたり清掃したりしてくださる方々がいてこそ、ちゃんと寝ることができる。

その「非日常」は、誰かの尽力によって成り立っている。

 

それって、すごくかっこいい。誰かの特別な体験を、自分が支えることで実現させる。たとえ裏方でも、尽力者として直接感謝されるわけではなくとも、誰かの「非日常」を支えるってだけでかっこいい。

そして、すごく面白い。自分が誰かの「非日常」の一部になり、支えるはずの自分までもがそれを楽しむ。

もちろん、旅に限ったことではない。

 

いろいろなアルバイトを経験したことのある私だが、ずっと「非日常を支える仕事」をしてみたいと思っていた。イベントの案内スタッフや結婚式場のスタッフに応募したこともあったが、なかなか都合が合わなかった。そこでこの夏休みは、(十分な感染防止策を取った上で)とあるレジャープール(としまえんではない)の案内スタッフをやってみた。

やっぱり、かっこいいものである。お客さまの夏の楽しい思い出は我々が支えているのだ、我々が安全な形で「非日常」の形成に寄与しているんだ、という感じ。

そして働くこっちも楽しいものだ。はしゃぐ子どもの笑顔を見ると、こちらも笑顔になる。働く側も「非日常」を提供するにとどまらず、自ら一種の「非日常」を楽しんでいるようなものだ。

 

 

「非日常」を支えたくて

 

「非日常」が、大好きだ。

 

私は高校時代より、学園祭・文化祭の実行委員的なことをやっている。その原点はやっぱり「非日常を支えるのがかっこよくて面白い」だろう。

 

これまでで3つの祭りに2年ずつ関与しているわけだが、それぞれで関わった部分は違った。

高校時代は、門の制作に関わっていた。「当日前の制作」の側面で関わったことになる。原点は中学3年の時、高校の文化祭に行って門の凄さに感動し「これ作るのに関わってみたいなあ」と思ったことだ。来る人から注目される特別な存在としての門、それを作る一部になれるのは自分の誇りにもなると思った。ほかにやることもあったがゆえ深く関与することはできなかったが、確かに楽しかった。また当日はグッズ販売列の整理やスリッパ配布・回収など、主に裏方としてヘルプに入り、それまた面白さを感じていた。

大学の学園祭のうち1つでは、ごみ回収・レンタル品管理・車両入構管理などを担当した。「当日の裏方」の側面で関わったことになる。1年生の時に希望していた担当に入れなくて半ば渋々やったものであったが、そこで裏方の面白さを感じ、2年生の時も続けることになった。来場者側からはあまり注目されず汚れ仕事みたいなものもあり、参加企画の人に貶されることすらあったが、「でも僕のおかげで充実した学園祭ができてるんだよ???」などと思えば楽しいものである。

もう一方では、キャンパスツアーを担当し、ガイドとして当日に来場者の前で話すこともあった。「当日の表方」の側面で関わったことになる。裏方も面白かったがやはり来場者と直に触れられるのも面白そうと感じ、希望したものだ。やっぱり来場者の楽しそうな顔や感謝の声を直に聞くことができるのは、非常に楽しいものである。それが自分が企画立案制作したものであるから、なおさら。

全部違った形であるが、すべて「非日常を支えている」という点で面白いものだった。

 

今年は、学園祭がオンラインになった。

私は普通の対面のキャンパスツアーを実施するつもりで関わり統括をしていたのだが、当然オンラインへの転換を迫られた。実地でなくなることで「非日常」感が薄れてしまうこと、そこでキャンパスツアーの意義が低下してしまうことは、懸念材料だった。だが一方で、もともと非日常たる学園祭が例のないオンライン開催すなわち「非日常」になるというのには、不謹慎ながら少しワクワク感もあった。

当日は、確かに非日常だった。そして私たちは、確かに非日常を支えていた。キャンパスツアーには多くの方々が参加してくださり、喜びの感想もいただけた。今回は私がガイドとして話すことはなかったが、すべてのキャンパスツアーを統括して支えたという自負と、それゆえの面白さおよび一種の満足を感じていた。

 

たとえオンラインになってしまっても、「非日常」を支えるのはかっこいいし面白い。そして、それを支えられてよかった。

ただそれでも、やはり対面の面白さには敵わないかもしれない。「非日常」の空間が現実に存在してこそ、その「非日常」性とそれゆえの面白さは強く存在するのだろう。また、オンライン化の過程で多くの「非日常」を提供するコンテンツが断念されてしまうのも、見ていて苦しかったものである。

オンラインの「非日常」を支えるのも面白いけど、願わくばもう一度、対面での「非日常」を支える役割を。

 

 

また「日常」が始まる

 

さて、明日からAセメスター(秋学期)が始まる。夏休みという「非日常」が終わり、授業という「日常」が戻ってくる。

ほとんどがオンライン授業という、今年4月まででは「非日常」でしかなかった事態だが、今や「日常」となってしまっている。

明日からは、そんな「日常」を過ごす。

 

だが、「日常」の中にも「非日常」は潜んでいる。

というか、「日常」があるからこそ「非日常」は存在するのだろう。

 

私はどうしても、「非日常」が大好きだ。

「日常」の中に潜む「非日常」を楽しみつつ、また生きていきたいものである。

[考33]所詮バカなんだよ人間は

みんな違って、みんなバカ。こんなこと言ってる私だって大バカ。

 

 

社会の大多数は……

 

東京大学という空間に暮らしていると、忘れてしまいがちな事実がある。

それは「世の中の大多数の人間は、それほど深く考えずに生きている」ということだ。

 

東大生の多く(クソデカ主語)は、自分のこれからの身の振り方を思い悩み、政治に関して自分なりに考えた上で意見を持ち、かつさまざまな意見に寛容であると私は感じる。そしてそれに刺激されて別の東大生も、深い問題について考えるようになるのかもしれない。

一方で東大の外などでは、その時の楽しさのみを考えて真面目な話を「そんな難しいこと考えてもつまんねえぞ!」と突っぱね、「〇〇が言っているから」「個人的に××が嫌いだから」といった薄っぺらいことで政治的意見を決め、自分中心に世界が回っていると勘違いして自分に合わない意見を「お前が何を言おうとお前が間違ってるんだよバーカバーカ」とすべて突っぱねる、そんな人も少なくないのではないか。言ってしまえば「バカ」である。……もちろん東大の中にだって、こういう人はいると思う(ここ大事)。

こういうバカは、いかなる正論も言ったところで聞く耳を持たない。「考えること」を「つまらないこと」「めんどくさいこと」と捉えているので、深く考えることなんてしない。

 

そして、そういう人が「世論」を形作り、また選挙を通して国政に影響を与える。

仕方ない、今の日本の民主主義社会では普通選挙・平等選挙が原則で、よく考えている人であれ脳死で投票している人であれ同じ価値の一票を持つんだから。

だから、非常に残念なことに、バカを無視することはできない。

 

 

「社会を変える」とかいう無謀

 

「社会を変えたい」という言葉、たまに見かけるものである。

だが、私の持論は「そんな簡単に社会を変えられたら苦労しねえよ」「社会なんざ一個人が変えられるようなもんじゃねえよ」というものである。少なくとも、1年とかそういうレベルで変わるものじゃない。てかCOVID-19が流行して社会が大きく変わりかねない今ですら、「出社こそ正義‼️」「ハンコなきゃダメ‼️」みたいな古い考えしか持たない執行部は残っているんだろうし。

この「社会」ってのがどういうレベルの概念なのかによるが、少なくとも「地域社会」「高齢者重視の社会」「日本社会」みたいな大きいスケールの社会だと、変えるのは困難ほかならない。

 

いやだってさ、どんな正論をかざしてもさ、聞く耳を持たない人間にはかけらも響かないじゃん。どうせ「いや俺は今のままでいいし面倒だしよくね?」「俺に口ごたえするなんていい度胸だな、消えろ」「お前にそんなこと言う権利あるん?笑」って言われて終わるんじゃん。馬の耳に念仏。

社会にはバカが一定数あるんだよ。そういう奴を変えるってのは99%不可能だから、社会ってのはそう簡単に変わらない。

「社会を変える」みたいな文言を見るたびに、恥ずかしくさえなる。

 

……ただ、この難しい「社会を変える」という行為であるが、3つのやり方でならできるかもしれないと私は思う。

1つは「国レベルの最高指導者になる」。独裁が親裁かを問わず、特定社会に普遍的な制度を権力をもって変更してしまえば、その社会は変わらざるをえない。例えば極端な話、「COVID-19罹患したら死刑ね❤️この政策に逆らっても死刑ね❤️」みたいにしたら、社会は感染を極力避ける方向に変わるはずである。

続いて「有能な状態で10年単位くらいの長期間にわたってしつこくずっと努力する」。一般論としてしつこい人はめんどくさいから、しつこく続けると相手方も妥協するかもしれない。ただ妥協を引き出すには、自分の側もそれなりに有能で、それなりの真っ当な意見を提示する必要がある。

 

 

人間というバカに適合的な「マスメディア」という害悪

 

もう1つは「マスメディアを牛耳る」である。

 

バカは自分で考えようとしない。その時に何を頼りにするかというと、これまでずっと情報源としてきたマスメディアである。

マスメディアにまつわる問題については面倒がって考えることをせず、マスメディアが垂れ流す情報を「すごい人が言ってるから」みたいなノリで鵜呑みにする。そんで誰かがそのマスメディアを批判しても、その人はマスメディアと比べて劣ると考えて(もしくはそもそも自分の意見をアップデートしようと一切思わなくて)無視する。

だから、マスメディアは行政以外でバカを動かすことができる、ほぼ唯一の手段なのである(と過激な私は主張する)。

 

私は、マスメディアが大嫌いである。……とはいっても、マスメディアが提供するバラエティやドキュメンタリーやドラマやアニメがすべて嫌いってわけではない。マスメディアの「ワイドショー」「ニュース」が嫌いなのである。

それはやはり「自分にとって都合の良い情報しか流さない」言ってしまえば「偏向報道をする」からである。それを通して、自分の思いのままにバカな視聴者を操作できる。

自粛警察の横行やGo Toキャンペーンに対する的外れな批判の横行も、マスメディアのせいだろう。人というバカは不安や鬱憤が溜まると、ひたすら他人を叩くことで満足を得ようとするものであり、その心理につけ込んで「〇〇は悪」というイメージを植え付けてしまえば、みんながそれを深く考えずにひたすら叩くようになる。それは歪んだ「世論」となり、場合によっては適切な政策までも潰すこととなる(種苗法改正反対の件などは象徴的だろう)。

 

高3の時、現代社会の授業で「賛否が分かれる政策について新聞の社説を参考に自分なりに考察する」といったものがあった。私はそこで「カジノ法案(特定複合観光施設地域の整備の推進に関する法案)の是非」をテーマとした。私は長所および短所を勘案したうえで「賛成」という意見を持った。

……しかしながらいざ新聞の社説を見てみると、ことごとく「反対」ばかり!!!!! 読売・朝日・毎日・産経・日経のほか名だたる地方紙も揃って「反対」で(てか朝日と産経が同じ意見なんだぜ!)、20個くらい当たってみて「賛成」だったのは北國新聞ただ1つだけだった。「反対」の根拠として「依存症の人が増えて問題になる」「人の不幸で儲けるなんて非道」とかあったのも印象的。いやその理論だと公営ギャンブルパチスロもダメでは。

さすがに不可解だったので少し調べてみると、どうやらパチンコ店からの広告収入とかいう存在が関係していると。IRが合法化されてしまえば、現存するパチ屋は上位互換が生まれるため大損害である。だからパチ屋はIRに猛反対で、その業界が莫大な広告料を払いつつ出稿しているから新聞社は逆らえず、結果として偏った報道となると。……民間だから仕方ないのかもしれないけど、これがマスメディアの実態。

ちなみに、「賛成」の持論と「反対」ばっかの社説を紹介したうえで受講者に是非を問うと、綺麗に賛成と反対で半々に分かれた。これはメディアが「反対」ばかりなのとは違っている。さすが、頭のいい高校だけある。ちゃんと自分で考えて結論を出してるようだ。

 

……とか偉そうに言ってきたけど、私だって相当なバカだ。全知全能の神とかではなく何も知らないバカなので、報道(すなわちマスメディア)がないと情報に触れることができない。そして、たまにその報道を無批判に受け入れてしまう。

マスメディアの問題点は分かっているし、それに振り回されるバカにはなりたくないと思いながらも、バカなのでマスメディアから完全に離れることができない。うーん。

 

 

バカに合わせなきゃいけない

 

相対的にバカでない人間であっても、マスメディアを盲信するような相対的にバカな人間のことを、完全に無視することはできない。真っ当な理由で行動した場合であっても、バカに難癖を付けられ、それが原因でその行動を辞めたり謝罪したりせねばならなくなることがある。

それは、バカを変えるのは非常に難しいから。問題なく事を運ばせるためには、マスメディア以外が何を言っても変わらないバカが変わるのを待つのではなく、自分の側が変わらねばならない。

非常に面倒だし、非常に残念なことだ。

 

いつぞや、某巨乳キャラを用いた献血ポスターが炎上したことがあった。胸が現実離れしてデカいってのが燃えたんだっけか。公の場にこれを使うことが燃えたんだっけか。いずれにせよ、「バカ」が炎上させた事案だったと思う。

私自身は、ポスターに二次元キャラを使うのも、特定の部位を強調した絵を描くのも、すべて「表現の自由」であり否定されるべきでないと考える。というか私は二次元キャラが大好きなので、問題に思うどころか「素晴らしいじゃん」とすら思ってしまう。日本赤十字社は何も悪くないし、作者はもっと何も悪くない。

だが、あのポスターは炎上を招くこととなった。これは結局、「バカの存在の忘却」「ゾーニングの失敗」が原因といえるのではないか。すなわち、ポスターを出した日本赤十字社の考えが足りなかった、ということである。

社会の全員が適切に考えることができるまともな人間なら問題ないのに、やたら非難してくるバカがいるせいで、提供者は無難なものしか出せなくなる。そしてその「無難なものでないと非難される」という事実を忘れると、炎上して撤回や謝罪に追い込まれる。マスメディアが非難に加担し始めるとそれは悲惨だ。バカに合わせないと、面倒なことになる。

 

社会では全員が良識を持ってるわけではなく、理不尽な人間も存在する。だから「自分はこれが正しいと思う」で行動するだけでは生きられず、どうしても「社会的に黙認されるためにはこうしなければならない」で行動することになるのだ。

 

 

「他者理解」の難しさ

 

相対的にバカな人間は、相対的にバカでない人間を理解しようとしない。相対的にバカでない人間は、相対的にバカな人間の考えに共感できない。

これに限らず、一般に「他者を完全に理解する」というのは不可能に近い。みんなバカだから。これが私の持論である。

 

少しでも考えることができる健常者(この表現は可燃性が高いのであまり使いたくないが)であれば、誰もがそれぞれの「合理性」に従って行動している。例えば私の場合だと、「自分が楽しい」「自分が評価される基準となる」といったことで「自分の立場が良くなり自分が幸せになれる」というのを「合理性」の基準としている。一般に非合理的とされる行動(例えば純粋に利他的な行動)でも、別の側面(例えば他者からの感謝による満足感とパフォーマンスの向上)で見れば「合理的」だ。

だが、この「合理性」は人によって異なる。ある人は「社会貢献によって自分の存在意義を社会に還元する」を、ある人は「神の思し召しに従うことで死後救済される」を、またある人は「考えずに済み楽である」を「合理性」の基準とする。そして異なる「合理性」を持つ人間では、それぞれがその「合理性」を選択することに共感できない。例えば私は考える自己中なので、純粋に他者のために行動する人にも、宗教の教えを真摯に守る人にも、一切考えずに生きる人にも、完全には共感できない。

 

「合理性」に限らず、「感性」だって人それぞれである。例えば私は寿司・刺身や牛乳や生のトマトが大好物であり、蕎麦や茄子やセロリやオクラが好きでなく、また唯一どうしても食べられない食材がアボカドである。だが私の弟は寿司・刺身を好まず、私の従兄はトマトが大嫌いで、私の母は茄子とセロリを好物とする。私はどうしてもこの3人と分かり合えない。

 

人によって違うものといえば「経験」もである。例えば私は「知り合い女性の放った些細な発言」「1回だけ女性を好きになったが何故かすぐに冷めたという事実」「出会いだけは多いのに特に動かない感情」「人間関係の構築にことごとく失敗してきた歴史」などが原因となってかくも拗らせることとなったのであり、同様の経験のない人間には拗らせを理解されない(と考えている)。だが一方で、私は「相手がいるのに病んでいる人間」を経験不足ゆえ理解することができない。

 

他者の考えを理解することは難しい。人間はそれぞれの「合理性」「感性」「経験」に従って生きており、それを問い直す・手放すのは難しいから。他者の「合理性」「感性」「経験」に完全に共感することはできない、それだけ人間はバカだ。

 

 

そこで「理解しようとすること」の大切さ

 

難しいけれど、バカなりに理解しようとせねばならない。

 

「他者のために行動するなんて意味わからない」じゃねえ、そういう考えがあることを把握しろ。「茄子が美味しいなんて頭おかしいんじゃねえの」じゃねえ、感性は人それぞれだってことを自覚しろ。「相手がいるのに病むなんてふざけるな」じゃねえ、持てる人間ゆえの悩みもあることを想像しろ(これは自戒)。

 

そして自分の合理性・感性・経験を押し付けるな。相手に関する理解を放棄して「自分の考えこそ至高」となったら、それこそとんでもないバカだ。そもそも思想・信条の自由に違反する。そして自分以外の厄介なバカな存在を無視して行動すると、結局バカに非難されることになる。

 

 

他者に期待しないけど期待する

 

人間、すべての行動を完璧に成功できるはずがない。バカだから。

……そうなんだよ、だから他者に期待しすぎないほうがいい。誰だって完璧ではない、バカなんだもの。

……でも、それは自分だって完璧じゃないってのの裏返し。自分というバカだけで突っ込んでも、何もできない。だからこそ、自分以外の誰かに少しでも期待しつつ、頼らなければならなくなる。

難しいね。

 

せめて自分がバカであることを自覚しつつ、マスメディアに振り回されるなどバカのやる行動に染まらないよう注意しながら、生きていきたいものである。