どこかの元T大生の思考

不定期です。旅行と考えることが好きな元T大生が、たまーに駄文を公開します。旅の記録を語る[旅]、何かに対する見解や主張をぶつける[論]、自分の生き方について思いを巡らせる[憂]、趣味などについて書き散らす[雑]の4つのカテゴリーで。

[論32]人々の行動の結果としての、地域振興の難しさ

久々の記事の公開は、真面目な記事で。下書き自体は1年前から用意していたものの、持ち前の怠惰により清書していなかった記事である(内容的には昨年8月にでも出すべきであった)。

 

 


東京圏以外の人口増加(社会増)及び人口維持にかかる難しさについて、[論29]では主に「東京圏一極集中を抑制できない社会構造」「国や地域の施策」などマクロな視点から考えてみた。今回は「人々の行動」というもう少しミクロな視点から、アニメ作品の話も交えつつ考えてみたい。

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※本記事に書いてある内容は全て筆者個人の主観である。作品を公然と批判する等の意図は一切無く、また本内容は筆者の所属組織等とは無関係である。

 

 

 

地域振興の難しさはアニメも物語る


本題に入る前に、前座として私の観たアニメの話をしておきたい。


昨年夏に公開されたアニメ映画『映画ゆるキャン△』(今はPrime Videoでも視聴可)。実は私は特典目当てで3回も観に行ったのだが、雑多な感想はいつか執筆する[雑]カテゴリーの記事に譲るとして、今回の記事に関係することとして「同映画を視聴すると『地域振興の難しさ』を垣間見ることができた」ということを述べておきたい。

勿論、創作における「創作された設定」を安易に「現実世界」と結びつけて論じるのは危険であり、なおかつ私の解釈が誤っている可能性も多分にある。ただ、創作は時に現実世界のある側面を示唆する、というのも間違っていないと思う。


〈主観の入った解説開始〉

まず『ゆるキャン△』は山梨県南巨摩郡身延町を中心とした地域における、キャンプ好きの女子高生達の姿を描いた作品である。今回の映画は彼女らが成長して社会人になった後、「キャンプ場を作る」という目的のために再集結している様子を描いている。

さて社会人というからには彼女らは就職しているのだが、メイン5人のうち地元の山梨県で働いているのは公務員or準公務員になった2人。しかもそのうち1人はUターン。それ以外の3人は三大都市圏(山梨県外)のいずれかで働いている(大学進学有無・大学進学に伴う転出有無は不明)。このような設定、どうも「地方公務員などとなる人材を除き、若年層が大学進学or就職を機に大都市圏以外の地域から大都市へと流出しがち」という現実を反映している感じがする。

キャンプ場を作るからには、開業後にその運営を担う人材が必要である。しかしメインの5人はそれぞれ仕事を抱えており完全に自由ではない。映画を観た感じだと、運営を担うのはメイン5人でなく、(うち地元にいる1人と)地域おこし協力隊のようだ。地域おこし協力隊が「地域おこし」という必ずしも明瞭でない仕事を与えられた存在だと考えると、どうも「移住者はじめ『自由に使える人材』が地域振興で重要な役割を担っている」という現実を反映している気がする。

メイン5人は、全員自動車(二輪含む)を運転して行動している。当然の事実ではあるが、どうも「大都市圏でなけれは基本自家用車必須」という現実につながるような気がする。

キャンプ場の建設予定地となったのは、かつて別の交流施設が存在した場所。その施設はかなり山奥で、使われなくなって放置されていた。どうも「差別化の難しい交流施設は、アクセスが悪いと先行き良好と限らない」という現実を反映している気がする。

……しかし、ここまで述べたこと以上に私が着目したのは、この物語が山梨県を舞台にしている、という点である。メインの5人のうち3人は山梨県外に住んでいるが、キャンプ場を作るためorその他の理由で実家に帰るため、頻繁に山梨県内に自動車で来ている。山梨県は関東からすぐ来ることができる(なんなら山梨県は首都圏)し、名古屋からも遠くはない。これが青森県高知県とかだったらどうだろうか。……「定住人口でなく関係人口を獲得or維持するにしても、仕事のある地域からの近接性・アクセスが物を言う」という残酷な現実を反映している気もしなくはない。

〈主観の入った解説終了〉


こう、映画ひとつからもそれなりに地域振興のいろいろを感じることができるのだが、『サクラクエスト』という全24話のテレビアニメはもっと凄い。富山県の「間野山市」(モデルは南砺市)における観光振興を描いた作品なのだが、現実の地域振興に付随する問題を非常によく描写している。(今から6年前の2017年放映、オタク受けしない?内容ゆえさほど話題にならなかったが、私としてはもっと評価されてほしい作品ダントツNo.1。)

以下、この作品の話をしつつ、この記事の本題に入っていこうと思う。


(注記:「田舎」という用語が未定義の状態で多用されているが、「多くの人に『田舎である』と認識されている場所」という再帰的な定義で用いているということにしたい。)

 

 

 

魅力的な職がありそうな大都市圏を目指す→人が流出する


「地方公務員などとなる人材を除き、若年層が大学進学or就職を機に大都市圏以外の地域から大都市へと流出しがち」


サクラクエスト』の主人公・木春由乃(『ゆるキャン△』の各務原なでしこと同じピンク髪)は、海沿いの田舎の出身だが地元での就職を拒み、「特別な何かになりたい」といって東京での就職を希望した。地元での就職を拒んだのは、端的には地元の仕事に魅力を感じなかったから。

一方、主要登場人物5人のうち1人・織部凛々子は間野山に生まれ育ち、間野山以外の世界を見てこなかった。そもそも、間野山を出るということ自体を考えていなかった。


[論29]の「本当に『雇用の創出』だけで良いのか?」において、私は以下のようなことを書いていた。つまり、職自体はあれど選択肢の限られる大都市圏以外より、選択肢の豊富な大都市圏の方が人々の多様な志向に合致する可能性が高く、ゆえに大都市圏での就職が選ばれるということだ。

地方移住者が生活できているのは(不労所得で生活している人でなければ)、その人がもともと職を持っているから(リモートワーク可能な職など)、あるいは移住先で職を得たから(新規就農者など)である。このような移住者がいるということは、地方には職はゼロではないということの裏返しである。

一方で、それが「魅力的な職」であるとは限らない。例えば農業は一部の人にとって魅力的な仕事だが、私をはじめとする大多数の人にとっては「必要性は分かりつつも積極的にはやりたくない仕事」であると思われる(農業人口の減少がこれを物語っている)。「素晴らしい観光地だから無くなってほしくない」という人に対して「じゃあそこで観光業に従事すれば?」と言うことはできるが、そう言われた人が全員「そうだね観光業に転職するよ!」と言うとは限らない。職の選択肢が限られている地域においては、何に「魅力」を感じるかという主観的な感覚が個人個人で異なる中、数少ない職のどれも「魅力的」とみなされない可能性がかなり高い。

それに比べて都会(東京圏)には、職に関して数多くの選択肢が用意されており、主観的な「魅力的」という指標に合致する確率も高くなる。


さらにこれに続くのが、以下の一文である。

そして国や企業の中枢は東京圏に置かれるものが多く、「高みを目指す」人にとっては東京圏で得られる職こそ価値あるものとなる。

私自身は「高みを目指す」人の多い大学および職場に身を置いてきた(←最高にムカつく言い方!)が、このレベルの大学及び職場は大都市圏以外にはなかなか無く、「高みを目指す」大都市圏以外出身者はどうしても大都市圏に来てしまう気がする(医者除く)。そして大都市圏の大学に来るとそこには大都市圏出身者が多く、大都市圏出身者にとっては大都市圏での就職が「普通」である(※)ため、就職で地元に戻るというのは選択肢に入りづらくなってしまうと思う。

(※:大都市圏で生まれ育つと(少なくとも私の経験上)、地元が大都市圏なのだから「地元に戻る」も何もなく、よほどの理由がない限り大都市圏を出ての就職は「ゆかりのないかつ条件の劣る仕事にわざわざ就きに行くイレギュラーなもの」と映ってしまう。)


加えて、実際に大都市圏の職に魅力があるか否かにかかわらず、木春由乃のように大都市圏での就職に過大にも近い夢を見てしまう、という側面も否定できないのではないか。


「選択肢が多い」「高みを目指せる」「夢がある」この3つの要素による「大都市圏の職が魅力的に思われる」という状況で、地域の貴重な若年層が大都市圏に流出するから、地域振興の担い手がいなくなっていく。


ただし当然のことながら、大都市圏の職が魅力的に思われるという状況下でも非大都市圏の若年層は完全にゼロになっているわけではない、ということは留意しておく必要がある。織部凛々子のように、必ずしも上昇志向を持たず(←悪口ではなく客観的な記述)大都市圏の職を求めない場合、大都市圏をまなざさず地域に止まる。現実、私の地元(東京圏だが郊外ゆえ地元就職も多い)の友人においても、私の母方の地元(首都圏だが中山間の過疎地域)のいとこにおいても、特段東京での就職を希望せず地元に住み続ける者は当然に確認できる。

 

 

 

労働者は決まった時間労働する→地域振興にガッツリ携われる人は限られる


「移住者はじめ『自由に使える人材』が地域振興で重要な役割を担っている」


サクラクエスト』において、東京での就職に失敗した主人公の木春由乃は、見知らぬ土地・間野山において観光振興という仕事を図らずも与えられ、観光協会会長・門田丑松のもと奮闘する。間野山の観光協会には、四ノ宮しおりという地元出身の女性職員がいた。このほか地元出身の緑川真希・織部凛々子および移住者の香月早苗を含む、計5人の女性で観光振興活動を進めていくが、真希と凛々子は実質無職、早苗はフリーランスであった。


先ほど、非大都市圏の若年層は完全にゼロになっているわけではない、とは述べた。しかしながら現実において、管見の限り、地元に住み続けている若年層が地域振興にガッツリ関わる例はさほど多くなく、むしろ移住者や高齢者ほど積極的な気がしてならない。

私はこれについて、上昇志向のない地元若年層は何もしなければ地域が消滅しかねないという事実を知るきっかけに欠ける(←悪口ではなく客観的な記述)(※)という要素に止まらず、定職の有無および性質が影響しているのではないか、という仮説を唱えたい。すなわち地元に住み続けている若年層は、四ノ宮しおりのようなそれを仕事にしている者、あるいは緑川真希や織部凛々子のようなフリーターor無職でもない限り、フルタイム労働者であるが故に自由に地域振興活動に参加することができないがちということだ。(この理論だと大学生は参加しやすいだろうが、そもそも大学のない田舎には大学生など殆どいない。)

これに対して移住者は、大半が「消滅に向かっている地域」という認識を有した上で移住を選び、かつある程度仕事の融通が効く状態(地域おこし協力隊その他地域振興関係の仕事、休学中か休暇中の大学生、フリーランス、リタイア者等)であり、香月早苗のように地域振興活動に参加しやすいと考えられる。

(※:私自身、自分の地元における人口減少・少子高齢化に伴う問題については、大学入学後に『地方創生』概念に触れたことでようやく自覚したものである。上昇志向の有無にかかわらず、何もしなければ地域が消滅しかねないという事実は、意外と知るきっかけが限られているのかもしれない。)


この事実は、自治体の「地域おこし体験」的なものがやたらと地域外の大学生を対象にしている、という事実につながっていると思う。なぜなら大学生は、人的資源として動かし/動いてもらいやすいという意味で「自由」だ(と思われている)から。

地域振興における不自然なまでの「よそ者」「若者」信仰、場合によっては従来の住民を蔑ろにするこの考え方も、「自由に使えるから」「自由に動けるから」という要素ゆえのものなのかもしれない。


地域の若年層が必ずしも地域振興を担わない以上、「自由」な移住者を獲得できない地域では、地域振興が進まない。

 

 

 

自分にとって生活しやすい場所を選ぶ→田舎は選ばれづらい


「大都市圏でなけれは基本自家用車必須」


サクラクエスト』では、JR城端線に相当する鉄道路線が登場するほか、現実の南砺市営バスと同じ車体の路線バスが登場する。しかし特に後者においては、「本数が無く不便な存在」あるいは「基本的に乗客がほぼいない路線」として描かれる。


私の母方の地元もそうだが、基本的に大都市圏を除けば公共交通機関というのは使い勝手が悪い。なんなら私の地元もそうで、行きつけの美容院までは4kmほどあるのだが公共交通機関で行くのは困難である(可能ではあるが大迂回で、徒歩以上に時間がかかる)。

都会に限った話であろうが、若者の車離れという言説がある。所有(若者の金がないから所有できないとは言われる)どころか運転もその傾向がありそうで、鉄道のない沖縄は旅行先として若干忌避されているらしい。路線バス大好きの私からすれば「路線バスでまわれば良いじゃん」という感じだが、そもそも路線バスは鉄道ほど一般的に移動手段として認識されづらいようである。

……となると、鉄道は日常の移動経路にそぐう路線でなく、路線バスは本数が少なすぎて普段遣いできたものではない、そういった地域は「車離れ」している都会の若者にとっては非常に暮らしづらい、どころか暮らすのが不可能に近いとも言える。


……もっと話を広げてみよう。


サクラクエスト』の香月早苗は地方移住において、数ある地域から間野山を明確な理由をもって選んだわけではないし、虫が嫌いな彼女は田舎暮らしに馴染めず東京に帰ることを検討していた。


先ほど、移住者の存在が地域振興において重要であるみたいなことを述べたが、そもそも(定職又は不労所得等により暮らせるという前提のもと)移住を志す者は移住先として「自分にとって生活しやすい場所」を選ぶと思われる。この「自分にとって生活しやすい場所」は、自分の苦手なものや嫌いなもの(自家用車の運転、虫、地縁的結合など)が無い、あるいは自分の好きなもの(自然、魅力的な住民、地縁的結合など)があるといった根拠により判定されるはずだ。

要は、多くの人にとって「自分にとって生活しやすい場所」と捉えられる場所こそ、多くの移住者を集めることができ、地域振興が可能になるのである。これは逆に言えば、誰にとっても「自分にとって生活しやすい場所」でない地域、すなわち人々が苦手なものや嫌いなものだらけ&人々の好きなものが少ない地域には、人は移住してこないということでもある。地域に人を集めたければ、その地域には「自分にとって生活しやすい」と多くの人に思わせる要素が必要だ。


では、多くの人にとって「自分にとって生活しやすい」と思わせる要素とは、なんだろうか。これは[論29]の「「田舎」は本当に魅力的なのか」にも別の書き方で書いてある内容だが、私の主張の根幹なのでほぼ同じ内容をもう一度論じておく。


まずは移住者の声から見てみよう。「なぜここ(移住地)を選んだのか?」という質問への移住者の回答として、耳にタコができるほどよく聞くのが「住民(の温かさ)」である。(まあとりあえず無難な回答だからって適当にこう答えただけで本心は『適当に選んだらたまたまこうなった』ってような人も多いだろうけどそれは置いといて)こうやって答える人は要は「人とのつながり」が「自分の好きなもの」で、だからこそ移住先が「自分にとって生活しやすい場所」であるのだろう。そういう移住者の言葉の裏にあるのは、「都会は人のつながりが薄くて物足りないor怖いorつまらない」という観念である。

しかし考えてみれば、都会で人のつながりが薄いというのは、都会の住民がそうなることを望んで行動してきたことの帰結とも捉えられる。必要最低限の付き合いのみにするというのは、分業化された社会においては合理的な選択だろう。しがらみがないことは住民個々人の縛られない生活を可能にし、「都市の空気は自由にする」ともいう。となると、「都会は人のつながりが薄くて物足りないor怖いorつまらない」という観念は、むしろ都市に居住する住民からすれば「人のつながりが薄いから良いんじゃん……」という風に捉えられる可能性もあるのだ。(なんなら私もそう思う。)


もう一つ留意したいのは、早苗のように「自分にとって生活しやすい場所」と思って移住してきたものの、自分の苦手なものがあるため実は「自分にとって生活しやすい場所」ではなかったため結局出ていってしまいそうになる(あるいは出ていってしまう)、ということも十分あり得るということだ。

さらに厄介な話として、全ての地域住民が移住者を心から受け容れる訳ではない、というのもある。こちらも少し前の話になってしまったが、福井県池田町の「池田暮らしの七か条」や、高知県土佐市のニールマーレの件を思い出して欲しい。「郷に従わない」移住者は白い目で見られるし、場合によっては客観的に見ておかしいような方法で排除される。(もちろん、全ての地域がそういうわけではないと信じているが)(『サクラクエスト』でもそういうエピソードがあるように、場合によっては移住者側が全面的に悪く擁護の余地が無いこともあるが)。


結論、多くの都市住民にとって田舎は「自分にとって生活しやすい」場所ではなく、また「自分にとって生活しやすい」と思っていても実は違うということが多々発生する、それが事実だと考えられる。

隣の花は赤いし、隣の芝生は青い。自身の置かれた環境に対する欠点がどうしても目につきがちで、その欠点を補える環境において別に存在する欠点には、なかなか目が向きづらいのだろう。


多くの人にとって「生活しやすい」と感じてもらえる地域でなければ、移住者の獲得は困難。しかし人口の大半を占める都市人口において、田舎に「生活しやすい」と感じることは多くない。

 

 

 

アクセス・宿泊環境・訪問目的の劣るところに積極的には行かない→それら要素の足りない地域は圧倒的不利


「差別化の難しい交流施設は、アクセスが悪いと先行き良好と限らない」

「定住人口でなく関係人口を獲得or維持するにしても、仕事のある地域からの近接性・アクセスが物を言う」


サクラクエスト』では、地域振興としてとある大きなイベントが開催された。そのイベントにおいては人気ロックバンドのライブ開催が実現し、間野山の外から大量の客が押し寄せ、過去に例を見ないほどに賑わった。しかし間野山に宿が不足していたため宿泊は近隣地域に流れてしまい、しかも客が押し寄せたのはライブ当日のみでその後は元通り閑散、リピーターが来ることもほぼ無く特典として配布された商品券も全く使われず、効果はごく限定的・一時的なものにとどまってしまった。


ここでは定住の話から離れ、その地域に定住していないが当該地域に良い効果をもたらす者にフォーカスして考えてみたい。定住者の獲得競争が減っていくパイの奪い合いであるのに対し、こちらは全体の総和が増えていく可能性があるのでより期待できよう。

まず、定住者以外から地域に与えられる良い効果として最も想像しやすいのは、観光による収入であろう。観光資源の存在により、当該地域に全く縁のない者を集客できれば、その者が地域に金を落とすことで地域経済が潤う。ただし高々一泊二日程度の旅行で人一人から落とされる金額はさほど多くないため、大きな効果を見込むのであれば当然ながら「大量の者に来てもらうこと」が必要となる。この場合、就業の考慮等が不要な点で移住より圧倒的にハードルは低いが、その地域には「観光に行きたい」と多くの人に思わせる要素が必要だ。

一方、経済効果を超えた可能性を見込めると思われるものとして、「関係人口」という形での地域への参画も存在する([論29]の「地方自治体における「関係人口」の意義」で言及しているので参考にされたい)。当該地域の出身者が定期的に帰省することで金を落とすことのほか、全く縁の無かった者が何らかの縁で頻繁に通うようになり金を落とす、場合によっては地域振興の政策的援助を行うことで単に金を落とす以上の効果をもたらす、といったことも期待可能である。ただし例えば「1回来て提言しただけで終わり」「10年に1回の頻度でしか来ない」などであれば効果は極めて限定的だし、大きな効果を見込むのであれば「特定の者にそれなりの頻度で継続的に来てもらうこと」が必要となる(※)。この場合、観光集客同じく移住より圧倒的にハードルは低いが、その地域には「何度も足を運びたい」と思わせる要素が必要だ。

(※:オンラインコミュニケーションツールの発達した現在、オンラインのみでも密接に繋がることは不可能では無いが、まずオンラインだと地域に金が落ちないし、政策的援助の観点でも現地を見た方が適切な提言ができることは論を俟たないだろう。)


では「観光に行く」「何度も足を運ぶ」が実現しやすいのはどういう場所か。

まず、どちらにおいても「居住地からのアクセスが良い」が要素として存在することは間違いなかろう。例えば極端な例、小笠原諸島がいくら魅力的だったとしても、行って帰ってくるのに基本1週間かかるから多くの社会人にとって観光のハードルは高いだろうし、高頻度で帰省や訪問をするなど困難極まりない。そして東京圏の人口が多い現状において、これは東京圏からのアクセスが重要であるということを意味する。現実の事例だと、アニメによる地域活性化の成功例(「観光に行く」メインだが「何度も足を運ぶ」の側面もあり)として知られる鷲宮・大洗・沼津・秩父などはいずれも東京からさほど遠くない(※)。作品世界において間野山のリピーターが現れなかった理由として東京圏からの距離があるかどうかまでは必ずしも読み取れないが、一要素として存在すると考えるのは不自然ではないと思う(ちなみに現実世界でも、南砺市の頑張りにかかわらず『サクラクエスト』の聖地巡礼は残念ながら賑わっていない印象である、これもアクセスが悪いせい?)。

関連して、どちらにおいても「宿泊施設がある」も無視できない。例えば大洗の場合、以前から観光地であったために宿はそこそこ存在していたという。一方、鷲宮のような日帰り可能な場所ならさておき、宿泊が必要な遠さなのに宿泊施設が一切無い或いはあっても著しく高額であるといった場所だったら、(実家や宿泊可能な知人宅がその地域に存在する者が「何度も足を運ぶ」場合を除き)人々は行くのを躊躇うだろう。間野山のように近隣地域でカバーすることも可能といえ、その分宿泊にかかる金は近隣地域に吸い取られてしまう。

そして何よりも基本となるのは「訪問する目的となるものがある」である。当たり前のことを言っているようだが、ライブを目的として訪問してきた者は、ライブの他に目的が無ければ訪問しない、ということだ。「目的となるもの」を突発的なものでも作れれば間野山のように「観光に行く」を喚起し大量の訪問者を集めることができるが、あくまでも一時的にであってそれが消えた瞬間に「観光に行く」は雲散してしまうし、訪問者に「〇〇目的で来たけど実は××も面白いことが分かった!また来よう!」「調べたら△△が大きな問題になっているんだな……地域を守るために自分も力になれれば」と思ってもらえなければ「何度も足を運ぶ」は実現されない。加えて、本来目的である〇〇のためだけに来ておりその他の要素には一切関心がなく、「目的となるもの」となる可能性を秘めた××や△△に気づく(誰かがそれに気づかせる)ことが極めて困難である訪問者も多いだろうから、目的の移行による「観光に行く」から「何度も足を運ぶ」への転換は容易で無い。さらには、そもそも〇〇自体が地域に何の良い効果ももたらさない場合だってあるから、「目的となるもの」の質も重要となる。

ある2地域を考えたとき、他の要素が共通しているとして、これらアクセス・宿泊環境・訪問目的の3要素で劣位に立っている地域は選ばれづらいだろう。そして厄介なことに、アクセスの改善は一地域の頑張りではどうしようもない部分が大きいし、宿泊環境の整備は時間を要するし、訪問目的の形成は今日の情報社会においては「都合良くインフルエンサーが関わってくれるか」「バズるかどうか」の世界であり半ば運ゲーである(人気バンドが関わってくれた間野山は相当幸運な事例だろう)。

(※:この章においては余談だが、[論29]の「結局、地理的条件と人」で述べている通り、定住人口獲得の勝者である流山市明石市も結局アクセスが良いのである。)


観光客の確保にしろ「関係人口」の形成にしろ、アクセス・宿泊環境・訪問目的の3要素は基礎となり、ここにおいて他の地域に敵わない地域は非常に不利である。


ここまで、実は『映画ゆるキャン△』から(筆者が偏った見方で)読み取れた内容をベースに書いてきたが、ここから2章はそれを超えた内容を書いていこう。(疲れてきたので雑になります。すみません。)

 

 

 

「地域にこうなってほしい」というそれぞれの想いがある


サクラクエスト』において、主人公達(観光協会)の企画した地域振興の取り組みに対して商工会から「そんなことは望んで無いんだよ」という意見が上がるシーンがある。


マクロ的視点からの記述がメインであった[論29]において、私がどうしても主張したかったが故にミクロ的視点でありながら取り上げたのが「積極的な『よそ者』に問う、その課題意識は本当に適切か」であり、以下のようなことを書いていた。

「よそ者」として「地域づくり」に従事する人は、場合によっては明確な課題意識を持って地域へやって来る。その際、「住民の皆さんにまちづくりの楽しさを知ってもらいたい」「住民の皆さんに誇りを持ってもらいたい」「ブランド力のある街にしたい」みたいなことを言う人がいる。

 

……「よそ者」のエゴを押し付けるべからず。


実際、私の居住する地域について、「よそ者」が「住民は地域に誇りを持てていないから変えなければならない」と述べたことがあった。それを知った私は、「舐めてんのか?住民のこともよく知らない分際で」と怒り狂いそうになった。

私は自分の居住する地域が「魅力的」とは思っていない一方、愛着と誇りは持っており、ただし「ずっと存続してほしい」とも思っていない。別に私からすれば、この地域が「消滅可能性都市」として消滅に近づいていくことは、仕方ないことだと割り切っているのである。むしろこんな不便で高齢者だらけの住宅街が人口を吸収するくらいなら、農山漁村に人口を振り分けた方が100倍良いとすら思っている。

「住民はこう思っている」という決めつけは、その「よそ者」のエゴかもしれない。そしてこれこそが、「よそ者」が地域に入ってくる上で生じる難しい点だと思う。

 

明確な課題意識を持って地域で何かをする人がいるけれど、それを「地域のためになる」と本気で考えているのであれば、それは危険だと思う。

それよりは「自分がやりたいからこうする」と言った方が、まだマシ。

さらには「まだマシ」とはいえ、その行動のモチベーションが「地域のためになる」でなく「自分がやりたいからこうする」だったにしろ、そこにあるのはあくまでも「自分がやりたい」である。至極当然であるが、それは必ずしも「みんながやりたい」とは一致しない。


「よそ者」と地域住民の思惑が異なる場合のみならず、そもそも地域住民の中で「みんながやりたい」の合意が取れていない場合だってあるだろう。ある人が「自分がやりたい」と思っていることをやるべきでないと思う人、あるいはやってもらってもいいが自分はやりたくないという人がいてもおかしくない。強固なコミュニティだったとしても、全員が全く同じことを考えているとは限らない。

というのもそれぞれ立場は微妙に異なるため、それぞれの立場の者が合理的に考えたところで「こうあって欲しい」の姿はどうしても違うものとなってしまうから。何としてでも観光客を誘致したい観光協会と、観光客不在ながら生活ができておりオーバーツーリズムの問題も懸念する商工会では、どちらも地域のためを真剣に思っていながらも「こうあって欲しい」の姿は対立するだろう。さらに場合によっては権力関係も絡んでくるので、厄介だ。

そこでしっかりとした合意ができず、「自分がやりたい」を独断で進めたところで、人は対立した状態の者に積極的に手を貸したくはないだろうし、協力者が失われるだけである。すると、地域のことをよく知る当人が真に地域のためを思って実施している取り組みであろうと、どうしても効果は限定的にならざるを得ないだろう。


住民間でも個々の立場は異なるのだから、今後の地域に求める姿は、必ずしも住民間で一致しない。「自分がやりたい」を押し出しすぎて対話ができないと、地域振興は破綻する。

 

 

 

移住者はその地域を「捨てる」ことができる


サクラクエスト』の主人公である木春由乃は、地域振興においてかなり中枢的な仕事をしていた。しかしその仕事は、そもそも一年間の契約であった。それが終わった時、由乃は……。そして、担い手のいなくなったその仕事は……。


由乃が実際にどうしたかは視聴して確かめて欲しいが、選択肢として「その地域に残る」のほか「地元に戻る」というものもあるのは確かである。移住者においてはルーツとなる土地が他にあり、元々の住民のように「ここしか無いので逃げたらやばい」という状況では無いため、本当に困ったら逃げることは難しくないし、困っていなくても特定の出来事を機に離れることが容易にできるだろう。「地域おこし協力隊」の任期終了後の定住率が決して高くないのも、この事実の裏返しだろうか。

また、由乃のやっていた仕事が実際にどうなったかも視聴して確かめて欲しいが、属人的な業務であれば引き継ぎ先が現れず霧消してしまう可能性もあるのは確かである。そもそも人手が絶望的に不足している地域であれば、属人的業務でなくとも貢献者が一人減るのは大打撃だろう。


移住者に頼っていると、その移住者がいなくなった際に困ることがある。しかし移住者はいなくなることが比較的容易。

 

 

 

さて、ここまで以下の内容を論じてきた。


・「選択肢が多い」「高みを目指せる」「夢がある」この3つの要素による「大都市圏の職が魅力的に思われる」という状況で、地域の貴重な若年層が大都市圏に流出するから、地域振興の担い手がいなくなっていく。


・地域の若年層が必ずしも地域振興を担わない以上、「自由」な移住者を獲得できない地域では、地域振興が進まない。


・多くの人にとって「生活しやすい」と感じてもらえる地域でなければ、移住者の獲得は困難。しかし人口の大半を占める都市人口において、田舎に「生活しやすい」と感じることは多くない。


・観光客の確保にしろ「関係人口」の形成にしろ、アクセス・宿泊環境・訪問目的の3要素は基礎となり、ここにおいて他の地域に敵わない地域は非常に不利である。


・住民間でも個々の立場は異なるのだから、今後の地域に求める姿は、必ずしも住民間で一致しない。「自分がやりたい」を押し出しすぎて対話ができないと、地域振興は破綻する。


・移住者に頼っていると、その移住者がいなくなった際に困ることがある。しかし移住者はいなくなることが比較的容易。

 

結論、人々の行動の結果として、やはり地域振興にはかなりの困難が伴いそう、ということになる。『サクラクエスト』だって、アニメ作品にしては現実の残酷な側面を誇張なしに如実に描いていると思う(少なくとも『映画ゆるキャン△』よりは)が、一方で現実サイドからしたら「現実はこんなにうまく行かない」というコメントが上がるくらいである。


……さて、このまま悲観的な結論で終わってしまいそうだが、何か少しでも状況を良くする糸口は無いのだろうか。そう考えて、私の頭の中では「田舎への憧れ」というワードが思い浮かんだ。

 

 

 

都会から田舎に憧れる


確かに田舎は定住するには不便だし、観光にも「関係人口」になるにしても地域による。


しかしながら、先述の大都市圏以外から大都市圏に夢を見る現象と似たような形で、都市から田舎に憧れを覚えるという現象も存在するのではないか。それも政策により無理やり喚起されているものというより、自然に形成されているものとして。

個別のタイトルを挙げることはここではしないが、ゲームやフィクションでも「田舎で過ごす夏」を美化した形で描写する作品が多数存在し、そしてそれらに何らか感情を動かされている人は少なくないのではないか。「日本の夏」「日本の原風景」というワードから、青い空・一面の水田・背景の緑の里山という景色を思い浮かべる人は少なくないのではないか。先述のようなハードルにより断念しつつ、田舎を魅力的なものと考えて田舎への移住に憧れを持つ人は、決して少なくないのではないか。

今や首都圏人口が多数を占め、その他の地域でも住宅街での生活が多く、農山漁村集落で暮らしている人々は日本人全体からしたら僅かであると思われる。しかしそれでもなお、人々において田舎での生活に対して何らかの良い感情が形成されるというのは、少し面白い現象のような気もする。「隣の花は赤い」だけでは必ずしも説明できない、何らかの理由があるような気もするし、人々の集合における憧憬が社会的に構築されていると考えたら本現象の背景を分析する価値もありそうである(私が調べていないだけで既に論考があるとかならすみません)。


事実として先述の通り、田舎は都市住民の大多数にとって生活しやすい環境ではないだろうし、生活しやすいと思っていても実は違ったという現象も多々生じるだろう。しかしながら「憧れを持ち、生活を考える」だけなら自由である。そしてその憧れの強さゆえに、移住や「関係人口」化の際の現実とのギャップも許容範囲が広くなる(※)、すなわち移住や「関係人口」化が厳しい状況下ながら進んでいく、そういう可能性もあるのではないかと思う。

(※:憧れを持ちすぎて現実にすぐ失望してしまう、という形で逆に働く可能性もあるので注意が必要。)


「田舎での憧れ」という何らかの理由で形成された観念が、この厳しい状況下における地域振興の可能性を握っているのかもしれない。

 

 

 

最後に蛇足かもしれないが、『サクラクエスト』1クール目オープニング曲『Morning Glory』のCメロ→ラスサビ(アニメでは流れない)より。

 

夢見てる場合じゃないなんて誰が決めたんだ

ネガティブはゴミ箱へ捨ててゆこう

晴れのち雨、現実と理想の大体はすれ違ってばかりだけど

自分のペースで見つけていけたら

なにか変えられるかな