どこかのT大生の思考

不定期です。旅行と考えることが好きなT大生が、たまーに駄文を公開します。自身の生に関する思いを述べる「自省」、旅の思い出を記す「旅記」、社会に対して言いたいことを唱える「主張」、人間関係の悩みを書き散らす「拗人」、その他自分の姿や趣味などを自由に語る「特筆」の5つ。

[主張7]「怒る」「人を嫌う」ということ

「人の行動を嫌う」と「その人自体を嫌う」を区別せよ。

 

 

 

前回は「友達」について話したが、交友関係においてつきものなのが「すれ違い」である。

いくら親しくたって、順風満帆に行くとは限らない。時には考えや目指すものが異なって衝突し、友達に対してキレてしまうこともあるだろう。その時に友達のことを嫌いになりそうになることもあるだろう。

これはもちろん友達に限らない。先輩後輩や上司部下の関係、恋愛の関係や親子の関係などでも同じだ。人を怒ることもあるし、人を嫌うこともある。

今回はそんな「怒る」「人を嫌う」ということについて書こうと思う。

 


「怒る」という行為。相手が自身や社会にとって不利益な行動を起こした時などに、起こる反応である。

この「怒る」ことの意味とはなんなのか。これに意味を求めるなら、「鬱憤を晴らす」「相手に反省を促す」といったところだろうか。

…では、本当にそういう場合に怒る必要があるのだろうか。私はそれが疑問だ。鬱憤を晴らす?そりゃ人間をサンドバッグとして使ってるようなもんだろ、他のやり方を使え、これじゃ相手が傷ついたり不快な思いをしたりするだけだ。相手に反省を促す?じゃあおとなしく言葉で諭せばいいじゃん。別にそこで必ずしも強い口調を使う必要はないだろう。人間、少しは論理的な生物だろ?

むしろ怒るという行為はネガティブな影響も及ぼしうるのではないか。例えば、私の母親は私の妹に対してよく怒る。これは妹の素行不良もあるかもしれないが、母親の比較的短気な性格も影響している。その結果として、怒っている声を聞いた私は非常に不快な気分になるし、母親自身もむしろ苛立ちの感情を高めているように思える。結局怒るってよくないじゃん。

 


それでも現代人はよく怒る。私自身はバイトくらいでしか経験したことがないが、部下の失敗に対する上司の激怒などはイメージできるものだ。彼らがなぜ怒るのかといえば、私は「ストレスが溜まっているから」だと思う。先ほど「人間をサンドバッグとして扱うようなもん」と述べたが、まさにストレスのはけ口なのである。

ストレスのはけ口に人間を使って、その人間がストレスのはけ口に他の人間を使う。明らかな悪循環である。だから、ストレスのはけ口は人間以外にしてくれ。人を諭すのに、ストレス発散の意味合いを加えるな。

 

 

私は「怒る」という行為を久しく行っていない。むしろ怒り方を忘れたまである。でもそれでいいんじゃないか。そもそも諭し方は平和でいいんじゃないか。無理に怒る必要はない、私はそう思う。

 


そして、人を怒る際はその人に対する「嫌い」という感情がつきまとうことがある。

「嫌い」ってなんだろう。それを見ることや聞くことで強めの不快感を感じる、そのような負の感情とでも言えるだろうか。危険を察知する本能的な能力で、極めて自然な感情なのだろうか。

じゃあ、嫌いにならないにはどうすればいいのか。大切なのは「寛容」「不干渉」とも言えるだろうか。

 

 

私は、ほとんどの人を嫌いにならない。というかなれない。人を嫌いになったところで何の利点があるのか、それが全然わからないのである。だって単に不快な感情を抱くし、付き合いが億劫になるし、誰を嫌いなのか知っている人間にはおのずと気配りを要求することになるし。

「好き」の対義語は「無関心」と言われることがある。「嫌い」と「好き」は根本は同じ「関心がある」という感情だから移り変わりうる、と言われることがある。でも、そんなすぐには変わらない。じゃあ最初から「関心がある」だけでいいじゃん、別に嫌いにならなくていいじゃん。

こう言っている私も嫌いな人はいるため、「人を嫌いになること」自体を否定はしない。ただ、寛容になって嫌いになる基準を下げた方が、人付き合いの面では確実に良いだろう。みんな、人を嫌いすぎだ。

 

 

さて、この感情に関して気をつけねばならないのは「人を嫌う」と「行動を嫌う」を区別せねばならないということだ。ある人間が自分にとって好ましくない行動をとったところで、すぐにその人間の全てを否定してしまうのはナンセンスだということだ。

とりわけ議論の際などに、これは重要となる。フランスの哲学者ヴォルテールが言ったとされる「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」という言葉もあるが、たとえその人の考え方が大嫌いでもその人自身を全面的に否定して聞く耳を持たないのはダメである。

現代人、結構これができていない人が多いのではないだろうか。意見が食い違ったからといってその人自体を嫌いになり、対話自体を拒否することがあるのではないだろうか。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」と言うように、その人の大したことのない行動まで批判していないだろうか。そうして激しい議論が萎縮するという問題も生じていないだろうか。

批判する際は、その人個人でなくその人のした行動を批判すべきだ。逆に「この人は好きだから、この人のこの行動はダメだけど批判しない」というのも違う。望ましくない行動は、全て平等に批判され嫌われるべき。それが正しい批判そして「嫌う」ということだろう。

これができれば、「人を嫌いになる」ことも減るだろう。これも一種の「寛容」「不干渉」である。

 

 

「怒る」が全てではない。「人を嫌う」は扱い方に気をつけなければならない。

今以上に「怒る」「人を嫌う」が少ない社会が来て欲しい、精神的にか弱い私はそう思う。