どこかの元T大生の思考

不定期です。旅行と考えることが好きな元T大生が、たまーに駄文を公開します。旅の記録を語る[旅]、何かに対する見解や主張をぶつける[論]、自分の生き方について思いを巡らせる[憂]、趣味などについて書き散らす[雑]の4つのカテゴリーで。

[論26]「偉い」という言葉への反抗——感染症対策について

1年半前に書き散らしていた文章を再構成して、本日公開する。公開日を本日にしたことに他意はない。

 

 

 

「偉い」だ?うるさいなあ

 

一昨年12月、感染者が今ほどひどくなかった頃の話。私は十分な感染症対策を取った上で、友人5人との会食を楽しんでいた。

ウイルスは発話やくしゃみなどを通して感染者の鼻口から出て、それが他者の鼻口に入ることで感染が拡大する。そう考えていた私にとって、会食というのはハイリスクな存在であった。当然当日の健康状態が良好だったので会食に参加することにしたわけなのだが、他の友人が感染している可能性も私自身が無症状感染している可能性も排除できない。そこで、「もし私が感染していたとしても友人に移したくはない」「もし友人が感染していたとしても私だけは感染したくない」という自然な思いから、食材を口に入れるときだけマスクを外す・会話する際はマスクを着用するという行為を徹底していた。

それを友人に指摘され、私は「マスク会食を徹底している」とありのままの事実を伝えた。するとある友人が、私に向かって「偉い」と言った。

 

昨年7月、就職活動も佳境を迎えた頃の話。私は他の就活生とともに、雑談を楽しんでいた。

若者がCOVID-19に罹患した場合、自身は重症化しづらいというが、それが周囲の中高年あるいは基礎疾患持ちに伝染したらそれなりに重い症状になるし、病床が埋まることで医療崩壊が生じかねない。そう考えていた私にとって、旅というのは決してノーリスクな存在ではなかった。私は旅が好きな身だし「移動自体」が悪いとは微塵も思っていないが、旅先で人との出会いがあり、そこで私が知らぬ間に居住地から持ち込んでいたウイルスを渡してしまうかもしれない。そこで、できるだけ自分が他人へウイルスを渡さないような状態で旅をするのがベストということになり、具体的にはワクチン接種が頭の中に思い浮かんだ。

雑談の中で「学生のうちにやりたいこと」を話していた際、私は「旅はワクチン2回打ってから行くようにする」と自分のポリシーを述べた。するとその話を聞いていた複数人が、私に向かって「偉い」と言った。

 

……「偉い」?

 

うるせーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!

別に私はあなた方に「偉い」と言われたくてそういう行動をしてるわけじゃねーんですよ!!!!!!!!!!

私は「自分の哲学」に基づく行動指針に沿って行動してるだけなんですよ!!!!!!!!!!

あなた方は私を無闇に評価するほど私の何を知ってるってんですか!!!!!!!!!!

てゆーかあなた方は何の分際で人に向かって「偉い」なんざ上から目線の言葉を投げかけてんですか!!!!!!!!!!

てか何ですか?あなた方「偉い」っていうことは自分はそんな行動取らないってんですか?感染症対策の基本をまるっきり無視するってことですか?

 

 

大人の他人のこと勝手に評価するな

 

「偉い」という言葉、どんな時に使われるだろうか。

一つ、「今日は偉い人が視察に来るので姿勢を正すように」など、「目上」「権力を持っている」といった内容を表すとき。

一つ、「えらいことになってしまった」など、「やばい」に近い内容を表すとき。

一つ、「ちゃんとお片付けできてえらい」など、主に子供を褒めるとき。

 

「マスク会食徹底しててえらい」「旅はちゃんとワクチン2回打ってからするのえらい」といった際の使い方は、おそらく3つ目であろう。というかそれ以外の2つが考えられない。

……なんでだろう、「えらい」と言われたことですごくバカにされた気がする。私は褒められる対象たる子供ではないのに。私は「えらいかえらくないか」という単純な評価基準で自身の行動を規定なんかしないのに。

 

 

「自分の思想」に従ってたら勝手に「社会が理想的として求めている像」になっただけなんだよ

 

すまんが、これに尽きる。私は別に、「社会が理想的として求めている像」になろうとしてなっているわけではない。

 

なんなら私は、別に「社会が理想的として求めている像」ではない。

「社会が理想的として求めている像」、ワクチン2回接種済みでも感染の危険が指摘される今日、長旅なんてしないだろ。もし「偉い」と言われたいんだったら、恐らく今頃は自粛生活をしている。旅をしてるのは単に私がしたいからであって、それが「偉い」行為ではないからといって、当然やめるはずもない。

 

ただ私は旅をしながら、黙食にはとてつもなくこだわる。これは「偉い」と言われる行為だ。

なぜ、「偉い」行為でない旅をしながら、「偉い」行為である黙食にはこだわるのか。これは私が「偉い」という評価基準にこだわらず、「自分のやりたいことをリスクを低減させつつ実行している」に過ぎないからである。

私個人は、移動そのものによる感染リスク・感染拡大リスクはそれほど高くないと思っている。問題は、移動に付随して生じる感染リスク・感染拡大リスクである。私はどうしても旅をしたいが、一方で旅を強制終了せざるを得ない「自らの感染と発症」はとんでもなく恐怖であり、私が無症状で感染している場合に他者に感染させることによる「感染源としての自分への非難」も恐怖である。その恐怖を低減させるために、飛沫感染の元となる食事中のノーマスクでの会話をやめ、食事は静かに済ませているのである。

まあこの黙食へのこだわりは、「自分の思想」とでもいうものなのかな。

 

あくまでも私は私のやりたいことをやろうとして、その際に「自分の思想」に従った行動をしていて、その結果として私の行動が生まれるだけである。

「偉い」という言葉は私に対して無力である。私もこの言葉はあまり使いたくない。

 

 

「偉い」という言葉の裏側

 

とか言いつつ、私も「偉い」という言葉を口走ってしまったことがある。それは、制限速度を律儀に守っている自動車に対してだ。

周知の事実ではあるが、道路の制限速度というのは有名無実化されている。40km/h制限の道路を40km/hで走行なんてしていたら、後続車から睨まれてしまう。55km/hくらいは出さざるを得ない。

 

私は口走ってしまった「偉い」という言葉に、無意識にどんな意味を込めていたのかを考えた。

おそらく私がその言葉にこめていた意味は、「律儀だね、でもそれって迷惑になりかねないよ」「律儀だね、でも私はそんなことしないよ」というものであった。

 

もちろん、私がこの時「偉い」という言葉にこめた意味が、すべての「偉い」という言葉に当てはまるとは限らない。

ただ、黙食やワクチン接種後の旅実行に対して向けられた言葉にも、そのような意味が込められていたのかもしれない。

 

うーん、他の人よりも黙食を徹底することって、その場に居合わせる他の人にとって迷惑になるのかなあ。

 

 

理解を示そうとしてくれる人と一緒に行動したいよね

 

昨年12月。課外活動の関係で、1グループが2回に分けて1泊2日の調査を実施する機会があった。それが終わった後、忘年会みたいなことをした。

課外活動の実施にあたり、大学からは一応黙食を徹底するよう言われていた。しかし私とは違う日時で調査に行った仲間は、「黙食なんて徹底するわけないだろう」といった態度で話をしていた。黙食を徹底していた私は、「まあ私は口を開けると変な話しかできない人なので話さないようにしてたんですよね〜」と、誤魔化さざるを得なかった。

 

今年2月。高校の友人3人とスキーに行った。

スキー場で昼食を食べている際、友人が私が黙食を徹底していることに気づき、「お疲れさまです」と言ってくれた。その夜、我々4人は非常に静かに食事をしていた。友人は私のことを理解してくれたのだと、私は考えている。

 

私の「自分の思想」を分かってくれる人、分かってくれなくてもそれを否定したい人、そういう人と一緒に行動したいものね。

ただまあ同時に、私もそれを分かってもらえるような努力をしなければならないね。誤魔化した話も、誤魔化さずに「いや私は徹底しているんですよ」ってちゃんと言えば、反応は変わった可能性が高いから。

 

大学卒業を控えた私が、なかなか人と会う約束をする気が起きないの、こういう考えの違いとそれによる軋轢が怖いからなのよね。

 

 

妥協

 

自分の立場を保ちつつ、「自分の思想」を貫きたい。

でも、人間関係ってそんな簡単じゃない。

自分の「哲学」を貫徹すると時に孤立する。

孤立は嫌だ。

 

結局、妥協なのかな。

 

でも、「自分の思想」について、妥協しない部分は持ち合わせておきたいもの。

自分を保つために。