どこかの元T大生の思考

不定期です。旅行と考えることが好きな元T大生が、たまーに駄文を公開します。旅の記録を語る[旅]、何かに対する見解や主張をぶつける[論]、自分の生き方について思いを巡らせる[憂]、趣味などについて書き散らす[雑]の4つのカテゴリーで。

[雑3]「なんでもないような風景」を撮ること

どっか行きだした今週、そして多く撮られる「なんでもないような風景」の写真。

 

 

 

私は今、鳥取県のとある鉄道路線で乗車しながらこのブログを書いている。昨日から低予算の限界ひとり旅が始まったのだ。

そのほかにも、今週は富士山にも行っていた。突然関東の外に出始めたようだ。

 


今週の振り返り。

8/5(月)、委員会の総会。終わったらほかの委員と駄弁ったりして、その後に自分のバッグでUber Eatsの配達に繰り出した。渋谷周辺中心で、稼ぎは3,000円くらい。

8/6(火)、でかい配達バッグを持って配達へ。港区中心に7,000円くらい稼いだ。途中で翌日必要なものの買い物をしたりもした。翌日に備え早く帰り、早く眠りについた。

8/7(水)、サークルで富士山に繰り出した。富士宮口から入り、宝永山を経由して御殿場ルート赤岩八合目で宿泊。疲れた。

8/8(木)、ご来光を見るために2時くらいに起き、富士山頂上へ。無事ご来光を拝むことができた。綺麗だった。そして御殿場ルートで下山、大砂走りが意外と長くて大変だった。下山後は温泉でくつろぎ、でかい「富士山ラムネ」なるものを飲んだりもした。

8/9(金)、一日中配達。途中で委員会の仕事のため、駒場に一回行った。代々木・原宿周辺→渋谷→恵比寿→麻布→新橋という謎の飛ばされ方をし、東京タワーを下から拝むこともできた。14,000円くらい儲けたので満足。

8/10(土)、6日間で予算3万円の限界ひとり旅へ。埼玉の自宅から京都の高校同期宅まで、鈍行でノロノロ向かった。詳しくはそのうち旅行編で。

8/11(日)、京都を出て福知山とか豊岡とか竹田城とか鳥取とかに行った。これも詳しくはそのうち旅行編で。

 


旅に出るということで、いつも以上にiPhoneで写真を撮った週だった。

それでは、その「写真の撮影」について今回は語ってみよう。

 


私は、「なんでもないような風景」を撮るのが好きだ。この「なんでもないような風景」というのは、別に構図をしっかりと決めて景色を捉えるでもなく、被写体たる人間の良い表情を求めるでもなく、ただ単に「自分が見ている風景」の一部を自然に切り取るような形で撮るものである。人間が入っていようが、その人がカメラ目線でなく微妙な表情をしていようが、関係ない。自身が見る世界のありのままを写していれば、それでいいのだ。

 


そもそも人間、普通は写真を撮る際に可能な限り「綺麗な写真」を撮ろうとするのだと思う。この「綺麗な写真」ってのは、「余計なものが写っていない」「被写体が鮮明に写っている」「構図が洗練されている」などといったものだ。

たしかに、カメラガチ勢で一眼レフなどで力を入れて写真を撮る人については、これは極めて自然なことだと思う。しかしそうでもないような場合、自身の撮った写真はプロのカメラマンに敵いなどしない。特に有名な観光地の写真なんかそうであろう。少なくとも私は、一眼レフなど持っていないし、自身の撮影技術が彼らに敵うとは到底思っていない。すなわち、自分の写真が「とても綺麗な写真」になるとは思わないのだ。

なら、「綺麗な写真」とは違う意味での「良い写真」を撮れば良いではないか。

 


じゃあその「良い写真」ってなんだ。

写真は、私にとっては「生活の記録」の意味合いが大きい。だから私は、「良い写真」ってのは「あとで見返すことで、自身がそこにいたことをありありと思い出せる存在」だと思っている。要は完璧なセルフ旅テロができるってこと。それも自身の経験と切り離してではなく、完全に自身が過去経験したものとして。

 


だから、必ずしも完璧な写真を撮る必要はない。むしろ「自分が見ている風景」の一部を自然に切り取ったような写真の方が、その時の様子をよく思い出せるのではないか。例えば、謎アングルからの写真とか、自分の体の一部分が入っている写真とか、自分が動いたか対象が動いたかでブレちゃった写真とか、逆光の写真とか、同行者とかはしゃいでいる子どもとかが写っちゃった写真とか。

あとで見返すと「あ、こんなこともあったな」「あ、こんな人もいたな」と思えてますます楽しいものだ。

 


これ、必ずしも旅行中などに限らない。日常生活ででもある。なんでもないような景色を撮ることで、写真を撮らなければ忘れてしまう「そのときにどんなことがあったか」をあとで思い出せるのである。

かつてこんなことがあった。私の高校卒業時、私の母親が高校生活を振り返るムービー(写真を流していく形式)的なものを作っており、その際に高校の部活の風景の写真を求められた。しかし私のiPhoneのなかには、なかなか普段の活動の写真はなかった。当たり前の光景すぎて、写真に収めようと思わなかったのである。

そもそも当たり前に思える光景だって、写真に収める価値がある。それが当たり前じゃなくなるかもしれないし、写真を見てみることで「当たり前」に潜む美しさを感じ取れるかもしれないし。実際、最近私は通学路で見られる「なんでもないけど夏っぽい風景」に対して趣を感じるようになった。

 


あと、話が少しずれるかもしれないが、私は最近いわゆる自撮りを撮るようになった。これ、自分が写った写真は自身がそこにいた確固たる証拠となるから、「生活の記録」として非常に良いんだよ。別に自分の笑顔を見返してニヤニヤしてるわけじゃないよ…?

自撮りでなく他撮りでも一緒で、自分の存在を確実に記録することができる。だから私は、有名な観光スポットに行った時は極力自身が写った写真を撮る(or撮ってもらう)ようにしている。

これ、自身の存在を象徴するぬいぐるみを写真に入れるのもいいだろう。結局それは、自身がそこで撮影した証拠になるから。

この際、必ずしも背景が完璧に綺麗である必要はない。自身の存在が一番大事だから。

 


…などと言ってきた一方で、可能な限りは「綺麗な写真」を追い求める気持ちもある。プロには敵わないとはいえ、自身の手で可能な限り「綺麗な写真」を撮ろうとする。それには、プロにかなわずとも「自分が撮った」という付加価値があるのだろう。また、あとで見返してみて「あの時はあんな感じで撮るのに苦労したな」などと思い出せるかもしれない。

例えば、他人の存在を前提とした(要はモデル的なのを配置した)写真とか、プロが撮らないようなマイナーなところ(通学路とか)の写真とか「自分しか撮れない写真」なら、たしかに可能な限り美しく撮りたいだろう。プロが撮るような有名観光地でも、その撮り方を真似して自分オリジナルの極力「綺麗な」写真を撮るのには意味があると思う。

…っていうか、写真なんて完全に同じコンディションで複数枚撮ることはできないからね。そもそも「綺麗」の面でプロの写真と比較すること自体間違っているかもしれない。

 


とはいっても、結局「綺麗」には追い求められる限界がある。だから、そこを重視するより「生活の記録」としての「なんでもない風景」をキャプチャすることに重きを置いたほうがいい、少なくとも私はそう考える。

 


これが、私が「なんでもないような風景」を写真に収めようとする理由だ。どうだろうか。

私はこのようにして、自身の存在の記録のために、今日も「なんでもないような風景」を撮り続ける。

 


それではまた。