どこかの元T大生の思考

不定期です。旅行と考えることが好きな元T大生が、たまーに駄文を公開します。旅の記録を語る[旅]、何かに対する見解や主張をぶつける[論]、自分の生き方について思いを巡らせる[憂]、趣味などについて書き散らす[雑]の4つのカテゴリーで。

[憂16]「物語」の呼び起こす、心のざわめき

「物語」と、それに伴う時間の不可逆性の自覚が、不思議な心のざわめきを引き起こす。

 

 

心のざわめき?


最近、心のざわめきが何かと止まらない。


とはいっても、「胸騒ぎ」のように何か心配ごとゆえに不安が高まっているわけではない。でもだからといって、自分の将来に関する懸念とも、いつぞやに抱いた恋愛に関係する思いとも、もっと普遍的に人を恋しく思う感情とも、死への恐怖ともちょっと違う。

これまで私は、いろいろなことを考えては悩んでいたものである。[憂3]を書いた昨年の初夏には恋愛という行為について思い悩み、[憂13]を書いた今年4月には自身の恋愛不能を嘆いた。

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今年4月にはそのほかにも、[憂11]のように自身の感情そのものを問い、また[憂12]のように人との接触機会減少を嘆いていた。

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でも今はたぶん、それらよりもっと根本的なことを考えてしまっている。たまにぼーっとして、勉強も手につかなくなってしまう。


この心のざわめきは、何かが違う。

 

 

ざわめきの現れる共通点


このような心のざわめき、これまでに経験したことがないわけではない。

高校生時代にも、たまに感じることがあった。大学生になってからだって、些細なきっかけで同じような状態になることがあった。

そして今だって、この心のざわめきはたぶん、当時と大まかには同じきっかけから生じている。

では、それは何か。


このような心のざわめきが激しくなるのは、決まって「他者の物語に心を動かされたとき」「自分の過去を振り返るとき」「自分が長らく思い描いていたことが実現しそうなとき」の3パターンのいずれかである。

思えば、自粛期間で私は従来の10倍以上の頻度でアニメやweb漫画(物語)を見るようになり、また「5年前の日記をつけてみる」という無謀な取り組みのもとで過去を振り返るようになり、そしてこの夏にはとある希望が実現しようとしている。現在というのはこのように、まさにこの心のざわめきが現れやすいタイミングらしい。


考えてみると、これらにおいては共通して、「物語」がプラスな感情とともに「時間の不可逆性の自覚」を私にもたらしてくる。これが、心のざわめきに繋がってくるのだろう。


これらは決して私にとって悪いことではなく、むしろ私が楽しんでいる事ばかりである。いくら心のざわめきが生じようと、その行為をやめようとは思わない。

でも、やっぱりざわめきは止まらないものである。

 

 

「他者の物語」による影響


人間は、前世の記憶を確と持って生まれてでもいない限り、無知の状態から自らの生を始める。その中で自身の生きる道の参考となっていくのは、他者が「物語」という形で提供する「他者の生き方」である。

それを提示してくれるのは、最初は親という最も身近な存在であり、そのうち先生や友人や先輩や著名人、ひいては歴史的人物やフィクションにおける登場人物にさえなる。このとき、その物語を語る他者と、その物語で語られる他者は必ずしも同じとは限らない。

だからこそ、他者により語られる「他者の物語」を見ては「かっこいい」「こんな生き方をしたい」と思うものだ。幼い頃の私だって、武田信玄の伝記や斎藤道三の生い立ちを読んでは「かっこいい」と思ったものである。

口伝や伝記・フィクションという形で語られる「他者の物語」は、自分の生を豊かにしてくれる。この中でも、その人物をありありとイメージしやすい作品だと、感情移入ができるからなおさらであろう。「他者の物語」は単に娯楽として消費されるのみならず、自分の生に否応なく関わってくるのである。


しかし「他者の物語」が受け手としての自分にもたらすものは、「かっこいい」「こんな生き方をしたい」という素直な思いだけでない。もちろん、真逆の「かっこ悪い」「こんな生き方をしたくない」という思いだけでもない。

むしろ厄介なのは、「こんな生き方をしたいけれど、自分にはどうしても難しい」という思いである。

「こんな生き方をしたい」「こんな生き方をしたくない」については、そこで抱いた思いをこれからの自分の人生における指針とすれば、それだけで済む。しかし「こんな生き方をしたいけれど自分にはどうしても難しい」は、これからずっとその生き方に憧れつつも絶対に成就することはない、という絶望的な状態になりかねない。


私は前回の記事[雑14]を書いたくらいにはアニメや漫画、それも設定が複雑すぎないものが好きである(設定が複雑すぎると面倒くささが勝って視聴する気が起きない)。

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まあその分野に関する知識はまだ浅いけれども。そしてアニメや漫画はフィクションであるとはいえ、名作なら生きる上での指針を与えてくれることが多い。

ところで現代の理解しやすいアニメ作品・漫画作品においては、主要な登場人物が10代であることが多い。主人公が高校生である割合がやたら高い。主要な対象年齢とか物語の作りやすさとか考えると、まあそれもそのはずなんだけど。ところが私は大学受験が終わってからハマった人間であり、今やもう20歳である。

さて、この年齢差が「こんな生き方をしたいけれど自分にはどうしても難しい」という悲劇を生む。これは、ファンタジー世界でなく日常世界を扱う作品でだって十分にあり得る。当然ドラマでも小説でもあり得る。

例えば、共学高校におけるドタバタを語った作品(こんな作品は腐るほどある)については、その作品における登場人物の生き方に憧れたとしても、男子校高校卒業者である私にとっては大体不可能である。また、高校生・大学生のアルバイトにおけるドタバタを語った作品(こんな作品もごまんとある)についても、大学3年生ゆえにアルバイト開拓の可能性が著しく低い私にとっては、その真似はほぼ無理に近い。それに、恋愛模様を語った作品(こんな作品も当然とんでもない数ある)については、(私の過去の記事をお読みの方ならお察しの通り)相手が存在せず憧れるのみで終わる。だいたい私はもう成人しており、10代の繰り広げるピュアなやりとりなんてもうできない。

それだけでない。大学3年生にもなると、この後の人生においてできることがどうしても限定される気がしてしまい、たとえその作品で語られる「他者の物語」が成人であれ実現可能なものだとしても、実現が困難に思われてしまうのである。例えば理系研究者を扱った作品(まあこんな作品も結構あるでしょ)なんかだと、文系の私が今後それを目指すことは困難に他ならない。某人気ドラマは銀行員を扱うわけだが、某活中の今の私ならまだ可能性があるにしろ、もう少しすると仮に銀行員に憧れたとしても目指すことは難しくなる(まあ私は銀行の良さがかけらも理解できないが)。

(ちなみに本筋からは外れるが、演劇などにおける「演技」を通してのみ、唯一この「こんな生き方をしたいけれど自分にはどうしても難しい」を解決することができる。だからこそ他者になりきって「他者の物語」を演じることができる演劇は、魅力的だ。)


私は「青春コンプレックス」を抱えている、と自覚している。すごく気持ち悪いようだけれども。

別に自身の過ごした中高時代を激しく後悔しているわけでもなく、むしろ正しい過ごし方だったと思うくらいであるのだが、自身の青春時代に経験できなかった「物語」を提示された瞬間、どうしても「それ自分もやってみたかった」と思ってしまうのである。出身高校(男子校)に対する愛着は誰にも負けないと自負しており、この高校を選んだことを最高の選択だと思って今も生活しているが、それでも男子校コンプレックスは消えない。これまでの人生における重要な選択はほとんど意味があったと思いつつも、「別の選択肢を選んだ場合」を考えずにいられない([論20]参照)。

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他者の物語が提示してくる「憧れるけれど自分にはもはやできない/できなかったこと」こそが、自分の心を痛めつける。ここにおいて、時間は不可逆であるという残酷な真実を突きつけられ、それを前にして自分は何もできなくなる。ただ憧れの生き方がそこに存在しながら、自分にはそれを実現するにはもう遅いという事実。


それが、羨望と時間の不可逆性の自覚による絶望感・無力感が混ざった、あの心のざわめきのような妙な心的状態を呼び起こす。

 

 

「自己の物語」による影響〜過去の出来事から


「こんな生き方をしたいけれど自分にはどうしても難しい」という悲劇は、必ずしも「他者の物語」に限らず、自分の過去の振り返りすなわち「自己の物語」においても生じ得る。

(前提として、私は恵まれた少年時代・青年時代を過ごさせていただくことができた。親には感謝してもしきれないところである。)


「5年前の日記を書く」なんてたいそうな事業を行わなくても、ふとした瞬間に自分の過去は思い起こされるものだ。

写真フォルダをぼんやり眺めては、過去の旅行の写真が出てきて思い出す。「去年の今日って何やってたっけ?」と思って手帳を見返しては、その日およびその日近辺にあった楽しい出来事を思い出す。掃除中に古いものを見つけては、それの存在とともに当時を思い出す。

ここで、「他者の物語」が「自己の物語」をふと思い出すのに寄与することもある。例えば友人との会話中に過去の思い出が登場すれば、その思い出と当時の日常を否応なく思い出すだろう。作品中に遊園地に関する感動的な物語が登場すれば、自身の遊園地に関する記憶を思い出すだろう。


このようにして過去を思い出すことすなわち「自己の物語」を再構築することは、当時の自分の行為を改めて見つめることにつながる。例えば自分の注意不足によるインシデントがあったとすると、「当時の自分に忠告したい」となるものである。自分の努力による成功体験があったとすると、「当時の自分を褒めたい」となるものである。

当然それだけでない。楽しい思い出であればそれを懐古し、場合によっては追体験しようとさえすることだろう。ここで「当時は楽しかった」となるのだが、それは「それに比べて今は……」「当時の自分にはもう戻れないのだな」という悲観的な考えにもつながりかねない。

これこそ、個人の内部における「こんな生き方をしたいけれど、自分にはどうしても難しい」の現れである。


「自己の物語」であれば記憶が存在するがゆえに、「他者の物語」以上にその生き方の「良さ」が感じやすいことだろう。だからこそ、「自己の物語」における「こんな生き方をしたいけれど自分にはどうしても難しい」は、より残酷となる。そしてれっきとして「過去」であるから、再現は「他者の物語」以上に難しい。感染症が蔓延り「密」が避けられる世の中、「密」ゆえに楽しかったいろいろな出来事は封印され、少なくとも今後2年の「若い間」に再現することは困難にほかならない。

そうして、時間の不可逆性が「こんな生き方をしたいけれど自分にはどうしても難しい」という悲劇を生む。

例えば、高校時代の写真をふと見つけることで、部活仲間(?)と過ごした非常に楽しい時間を思い出す。自分で経験したことだから、その楽しさすなわち「良さ」が鮮烈に感じられる。しかし今や大学・学年はバラバラになり、かつてのように毎日集まるなんて不可能である。それに彼らには今や「友達より大事な人」が存在するし、この先大学を卒業して社会に出たら一層集まりづらくなる。その集まりが「密」であったら、それはしばらく再現不可能だろう。ゆえに、その楽しい時間を完全な形で再現するのはもはや困難に近い。


「あたりまえの温もり 失くして初めて気づく」(合唱曲『証』より)

まさにその通りである。過去は取り戻せない。その幸せはその時にしか感じることができない。時間が経過して初めて、社会が変容して初めて、その幸せの真の価値に気づくことができる。だけれどもその時にはすでに「こんな生き方をしたいけれど自分にはどうしても難しい」となっており、どうすることもできない。

自分の過去に根ざす「楽しかったけれど自分にはもはやできないこと」が、自分の心を痛めつける。ここにおいて、時間は不可逆であるという残酷な真実を突きつけられ、それを前にして自分は何もできなくなる。ただ楽しかった生き方がそこに存在しながら、自分にはそれを再現するのは困難だという事実。


それが、懐古と時間の不可逆性の自覚による絶望感・無力感が混ざった、あの心のざわめきのような妙な心的状態を呼び起こす。


だから、今をめちゃくちゃ楽しめ。幸せを享受しろ。

……自戒を込めて。

 

 

「自己の物語」による影響〜過去の語りから


「自己の物語」は、今の自分が過去を振り返って語るもののみならず、過去の自分が未来を想像して語るものも存在する。

それはいわゆる「将来の夢」であり、いわゆる「高校でやりたいこと」「大学でやりたいこと」である。これは日記や文集を見返すことで思い出される。


過去の自分が語る「自己の物語」が実現している場合、それは満足という形で現れる。目標が達成されているわけだから。

一方でそれが実現していない場合、厄介にほかならない。過去の自分が想像して憧れた「未来の自分」は実現されないまま、もう実現されずに永遠に葬られるのだから。

これこそ「こんな生き方をしたかったけれど、今の自分にはどうしても難しい」である。


例えば、私は中学時代よりずっと、「若いうちに恋愛を体験してみること」を夢見て生きてきた。しかしそれは実現することなく、今までずっと恋人居ない歴=年齢を貫いてきた。また高校時代の私は、「大学において完璧な人間関係を築くこと」を夢見ていた。しかし大学の人間関係は、高校時代と比べて「成功している」と断言するのはいささか難しい。

そして1年半前くらいより私は、「ある地域に密着して第二の故郷を作ること」を夢見てきた。しかし今や感染症流行(とそれに伴う市井の懸念の増幅)に伴い来訪を拒まれ、それはこの夏においても実現することはない。学部生活における長期休暇なんて残り4回しかないのに、その4回とももはや絶望的である。


「あの時頑張っていたら実現していたかもしれなかった」それは今や無意味である。そしてそれは未来永劫実現することがない。

自分が過去語った物語が提示する「希望したけれど今の自分にはもはやできないこと」が、自分の心を痛めつける。ここにおいて、時間は不可逆であるという残酷な真実を突きつけられ、それを前にして自分は何もできなくなる。ただ目指していた生き方がそこに存在しながら、自分にはそれを再現するのは困難だという事実。


それが、希望と時間の不可逆性の自覚による絶望感・無力感が混ざった、あの心のざわめきのような妙な心的状態を呼び起こす。


だから、その「自己の物語」の成就に向けて、今できるだけの努力をしろ。後回しにすると、社会が変わってしまって実現できなくなるかもしれない。

……自戒を込めて。

 

 

「自己の物語」による影響〜未来の想像から


先ほど「今をめちゃくちゃ楽しめ」と書いた。

しかしながら、いくら今を楽しんだところで、その楽しい「今」は二度と戻ることがない。今努力を怠って「自己の物語」が実現できなくなったとき、その後悔対象となる「今」は戻ってこない。

この事実は、過去でなく未来について考えるにあたっても、心に響いてくるものである。


「自分が長らく思い描いていたことが実現しそうなとき」、心は希望と楽しさで満たされる。だって「自己の物語」が実現しそうなのだから。

しかし残念ながら、それだけにとどまらない。その「長らく思い描いていたこと」が実現したところで、やがてそれも過去の出来事となり、結局その先においては「楽しかったけれど自分にはもはやできないこと」となる。ふとそれを考えてしまうと、そのことを純粋に楽しむこともできなくなる。

これこそ「こんな生き方をしたいけれど、それが終わると再現が難しくなる」である。


楽しい出来事は長くは続かない。終わりが近づくにつれ、「終わってほしくない」という思いが現れてくる。でもどうしようもできず、終わりは確実に到来する。そしてその終わりが到来した瞬間、「楽しかった」という思いとともに激しい虚脱感に包まれる。

例えば、私は国内の旅が好きである。「ここに行きたい」と考えて計画を立て、それを実行に移すことで、自分の希望が成就しようとする。しかしいざそれが始まると、目標の完全な成就とともに完全な終焉に近づくのみであり、だんだんと虚脱感に苛まれていってしまう。そしてそれが完結すると、もう「過去の楽しかったこと」として記憶に残されるのみとなり、取り戻すことはできなくなる。


楽しいことが実現することは、非常に楽しくて心が躍る。でもそれはどうせ「過去の楽しかったこと」になる。

自分が現在語る物語が成就するとき、やがて「楽しかったけれど自分にはもはやできないこと」が現れるという想像が、自分の心を痛めつける。ここにおいて、時間は不可逆であるという残酷な真実を突きつけられ、それを前にして自分は何もできなくなる。ただ楽しいだろう生き方がそこに存在しながら、それには必ず終わりがあり、その先の未来における自分にはそれを再現するのは困難だという事実。


それが、楽しみと時間の不可逆性の自覚による絶望感・無力感が混ざった、あの心のざわめきのような妙な心的状態を呼び起こす。

 

 

でも「時間の不可逆性」が人生を面白くしてくれる


他者のものであれ自己のものであれ「物語」に触れることで、羨望・懐古・希望・楽しみといったプラスな感情を抱く一方で、時間は不可逆であるという事実を感じてしまい絶望・無力というマイナスな感情を抱く時、この心のざわめきが生じる。

物語に触れて「これはめちゃくちゃ良い生き方だ」「これは絶対楽しい」そう思う。……でも時間を巻き戻すことができないから、それを実現させることはもうできない。


タイムリープできれば良いのにな。タイムトラベルじゃなくて、意識が過去の自分に乗り移るタイムリープの方。某お笑いコンビのツッコミ(?)が「時を戻そう」とかいうけれど、本当に時を戻せたら良いのにね。あとタイムリープものはフィクションでも多数見られるけれど、現実でもそれができたら良いのにね。


……でも実は、「物語」に触れることで実感するこの残酷な「時間の不可逆性」こそが、人間生活を面白いものにしてくれるのかもしれない。

 

今を逃すと実現できないかもしれない危険性、今楽しくてもその楽しみには終わりがあるという事実、やり直しのきかない恐怖、これを自覚することこそが人間生活を実りある豊かなものにしてくれるのかもしてない。

その過程で「実現できない絶望」による心のざわめきが生じたとしても、それまた人生における一興。というかこの不思議な心のざわめきは、決して悪いものではない。

 


20歳の今ですら、この有様である。この先年齢を重ねて元気とか可能性が縮小するにつれ、この心のざわめきは拡大していくことだろう。

どうか、この心のざわめきと付き合いながら生きていきたい。自身の生き方を広げてくれる「物語」に触れることを楽しみながら。

 

夏が始まる。

夏というのは「物語」に富む季節なので、心のざわめきも大きい。

今、例年と比べて非常に制限されてはいるが、「物語」に影響された夏を思いっきり楽しみたい。