妄想すると元気になるぞ。
「この作品は半分フィクション、半分ノンフィクションです。」
1年前ほどに[憂14]にて、私は自分が「ふつう」であるとの判断のもと、「自分にはない、人を魅了できるだけの「物語」の持ち主に、憧れている。」「でも、自己アピールを書く際とか、そのように人を魅了できるだけの「物語」が自分にもなければならない。」などと書いていた。
utok-travelandthinking.hatenablog.com
これを書いた当時、自分は自身について回る「物語」なるものの存在を欲していたのだと思う。
ここで、ふと考えた。
……物語がないのなら、自分で勝手に構築しちゃえばいいじゃない!
……これまでの自分の人生を「物語」として再編集してみればいいじゃない!
……自分を主人公に据えた作品をイメージしてみればいいじゃない!
ってなわけで、自分を主人公とした作品をちょっと考えてみようと思う。
……でも、これまでの自分の人生を淡々と述べるだけでは「物語」になるほどのインパクトは存在しない。
ここで、ふと考えた。
……それなら、自分の「こうあれば面白い」「こうなりたい」という姿をイメージして、それをも体現する存在として自分を描いてしまえばいいじゃない!
ってなわけで、「自分のツラを被った自分の理想に近い姿」「自分のツラを被った自分が面白いと思う姿」を主人公とした作品をちょっと考えてみようと思う。
この作品の注釈はこうだ。
「この作品は半分フィクション、半分ノンフィクションです。」
『大学生Aの手記』
私をモデルにした「A」という人物を主人公にしよう。
タイトルは仮に『大学生Aの手記』とでもしておこう。ちなみにタイトルは今2秒で考えた。
……何も考えずに「手記」としてしまった。それでは、Aは主人公でありながら、語り部ということになる。まあフィクションでもよくある形式だよな。
主人公は当然A、「現実の私自身が面白いと思う姿」である。
別に異世界転生とかを面白いと思うわけじゃないので、作品世界は2021年の日本にしよう。変な世界に飛ぶとしたら、それは夢の中での出来事だ。
それでは、こいつは手記で何を語るのだろうか。
……そうだな、現実の私を構成する要素は「旅行」「主張」「憂い」だから、これを含めよう。……いやいや、それだとこのブログそのものじゃん。
もう一つ、[雑]で語られないような日常や些細な出来事、これも含めよう。たぶん、短編集の形式になる。
ところで、こいつはA自分自身のことを手記の中でどう語るのだろうか。
……そうだな、「私」だとこのブログと紛らわしいから、「僕」としておこう。
そういえば、私自身は中学時代まで、日記をちゃんと書いていた。でもその日記は淡々とその日の出来事を述べるのみで、読んでいてその出来事を思い出すことができるが、詳しい心情などはわからない。それではこの『大学生Aの手記』では、現実の描写に加えて、Aの心情もちゃんと書くようにしようか。
……いや待てよ、心情をあまりに細かく書いてしまうと、読者の想像の余地がなくなってしまう。それでは、むしろ淡々と出来事を述べるだけの回も設けようか。ただ中学までの私のような貧弱な表現力でなく、このブログを書く中で身につけた表現力を活かして深い描写を心がけてみよう。
……何?読者なんていないだろって?そんな分かりきったこと言うなよ、ただ私は自己満足で作品を作ろうとしているだけなんだよ。
どうやら、作品の大枠が決まったようである。
登場人物
作品の型が決まったら、次は登場人物を決めよう。
Aはどんな姿をしているだろうか。……これはもはや、現実の私の情報を書くのみである。
・男性
・身長はやや低め、体重は標準体重より少し多め
・視力が著しく悪く7割の確率で眼鏡をかけているが、絶望的に似合わない
・ファッションセンスがない
・複数サークルに所属
・複数のバイトを掛け持ち、これまでの経験職種は多数
・旅が好きで、お金がないため限界行動をする
・路線図オタク
・とてつもなく拗らせている、未リア
・猫があまりにも嫌い
・自己中、雑、逆張り、意識低い系、強欲で欲望に忠実(ひでえ)
・花粉症持ち、年中肌荒れがひどい(この情報必要か?)
……え、折角なら理想を詰め込んだらどうか、これだとただのイカ東(※「いかにもT大生」という悪口みたいな表象)だぞって?いいんだよイカ東が主人公でも物語は成り立つんだから。ちなみにこの姿が私自身の理想というわけではないので注意していただきたい。
それ以外の登場人物はどうしようか。
とりあえず、現実の私との親密度が高い奴らから考えていこう。あいつとあいつとあいつ、あとあいつとあいつもいると面白そう、あとあいつも……。
ここでは、私の理想も少しだけ入れたい。「私のことを好きな人」とか想定するのは流石にその人に対して失礼すぎるし思い上がりすぎなので(おい)、せいぜい「相談に乗ってくれる気さくな友人」くらいでいいか。
どうやら、登場人物が決まったようである。
過去の出来事を俯瞰する
さて、それでは私の過去を『大学生Aの手記』として再編集してみようか。
「手記」だと語り手はA自身になるが、そのA自身もずっと同じ考えを持っているとは限らない。その過去を今(2021年5月16日)に語るかその出来事当時に語るかで、内容は変わってくるはずである。
……手記だから後者、その出来事当時に語る形式を中心としよう。でも作品に重層性を持たせるため、その出来事から時が経ってからふと語ってみる形式も取ってみよう。
参考に、私自身の過去を思い起こしてみる。過去の手帳やメモ、このブログなどは非常に参考になる。
フィクションの主人公ほど波瀾万丈ではないといえ、いろいろなことがあった。旅行中にバイトしたことも、上野公園でPCを開いて課題をやったことも、救急車で搬送されたこともあった。
さらには、手記形式なので「その時どう考えたか」を思い起こしてみる。SNSにおける自分の過去の投稿を見るのが最適解だ。
いろいろな感情を持っていたのだと思う。喜び、怒り、哀しみ、楽しみ。当然だ。
……そしてその出来事とその感情には、さらに過去の出来事が影響を与えているのかもしれない。
改めてこう見てみると、自分の過去というのものが重層性を持った大きな存在として、自分の目前に迫ってくる。あまりにもとっ散らかりすぎていて、一つの作品に再編集するには複雑すぎるかもしれない。
……そうか、フィクションの登場人物というのは確かに「物語」を有する存在だけど、それは現実に存在するような複雑性が縮減されて、特定の軸に限定された上での「物語」にとどまるのか。例えば例の作品のあいつは、それこそ昔中学で関わった人間とかいるはずだけど、作品としてはその人間の存在は捨象されているのか。
……うーむ、でも私は複雑な過去ゆえに私なのだよな。特定の軸に沿った何編かに分けつつ、複雑性をそのまま描くのも悪くないかもしれない。
さて、手記にするために感情を文章化してみようか。「〇〇ということがあり、それに怒りを感じずにいられないのである。」みたいに。うーん、これだけの表現じゃもの足りないから「実は過去こんなことがあって……」みたいなのも入れた方が良さそう。
……あれ、この感情ってなんで生じたんだっけ。過去のこの出来事がトラウマになっているとか?この人のこの言葉に触発されて?思ったより複雑だな。
……ふと、Aを主人公とする作品を構成しようとする中で、自分自身の過去を深くを顧みていることに気づいた。自分自身が思ったよりも自分自身の過去というものは複雑で、面白いものであったようだ。
なんというか、面白くなってきたぞ。
「ツッコミ」を入れてみる
たぶん、Aの手記は「それを記した当時のA」の視点でしか語られ得ない。でも、そのAの見解には間違った部分があるかもしれない。じゃあそれを訂正するものは何か?
……「未来のAによるツッコミ」あるいは「神によるツッコミ」かな。いわば、映像作品におけるナレーションだ。
なんというか、これがあるだけで、過去の支離滅裂な言動に説明を付与することができる気がした。「いやそんなことやっても意味ないぞーヒヨッコよ。」「こいつはこんなことしているが、まだ世間のことを知らない若造である。大目に見ていただきたい。」みたいな。
……あれ、なんか私自身の黒歴史でも許せそうになってきたぞ?
映像版のOPやEDでも考えてみようか
直近の記事で書いた通り、アニメ作品のOP映像やED映像というのは面白い。その作品が端的に表されているからだ。OP曲やED曲も然り。
utok-travelandthinking.hatenablog.com
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……じゃあ『大学生Aの手記』が映像になる場合、そのOPやEDはどうなるだろうか。
たぶん、こんな姿やこんな姿のAが登場して、このタイミングであいつが登場して、このタイミングであいつとあいつとあいつのグループが登場して、突然あいつが画面に現れてきて……。
ここまで来ると完全に妄想でしかないが、考えるのが楽しくなる。
同時に、自分自身の人生を振り返る良い機会にもなるものだ。
Wikipediaに載るとしたら?
有名な作品というのは、その作品だけでWikipediaのページが立つ。
そこでは、各登場人物の様子や物語の簡潔なストーリー、評価などが記されるものである。
それでは『大学生Aの手記』についてはどう記されるのだろうか?
登場人物については、まあ設定がそのまま書かれるのだろう。簡潔なストーリー、これは本編の要約だ。評価?どうなるんだろうな。
作品について考えを巡らせるの、自分というさほど面白くない(と思っている)人物がモデルの割には、なかなかに面白い。
未来の出来事も「作品」に組み込む
Aは私と表裏一体の存在であり、今後私が経験する出来事は、Aが経験する出来事として表象され得る。
……おっとつまり、私が今後経験する苦難についても「Aが経験する苦難」と捉えて、私は執筆者としていわば「神の視点」から俯瞰することができるのでは?
要は、苦しいことがあっても「このようなストーリーを持った大学生Aに降りかかる一つの出来事」と、なんというか客観視できそうということである。何が起ころうと、それは物語全体における一側面である。
そしてその物語は、単に「一つの物語」である。作品としての出来はあろうが、登場人物が変更し得ないストーリー自体に対して「良し」「悪し」の価値判断は付与されない。たとえ「胸糞悪い」「納得いかない展開だった」と文句が垂らされようと、それはその展開自体が倫理的に悪であることを意味しない。
こう考えるとなんか、少し生きるのが楽になった気がする。
執筆開始
ってなわけで、『大学生Aの手記』(仮題)、たぶんこのブログで始まります。
気が向いたら、ちゃんと執筆して徐々に公開します。