選択とはすなわち、何かを犠牲にすること。その犠牲は取り戻せるかもしれないが、若さそして人生は有限である。
「やりたいこと」ってなんだ?
某活していると、「なぜここを志望したのか」ということが問われることも多い。その中で私は、「自分は何をやりたいのか」を考えざるを得なくなった。
……さて、私は何をやりたいのだろう。その答えを考える時、私の頭の中には様々な選択肢が思い浮かぶ。
……だがそれは、すべて実現できるとは限らない。
進学選択を経て
選択は、ある意味前進である。後戻りできないところに自身を置き、将来のルートをある程度強制的に設定して前進を促す。選択を怖がらず、決断しなければならない。そう自分に言い聞かせ、進学選択に挑む。
私は[憂1]において、こんなことを書いていた。
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そして進学選択を経て社会学に進学し、「将来のルートをある程度強制的に設定」した。
社会学に進んだこと、後悔はしていない。
「社会学」の名を振りかざせばもともと関心のあった「地域/コミュニティ」「ジェンダー/マイノリティ」の両方を学ぶことができるし、研究テーマはまあ自由に自分のやりたいことを設定できる。理論を学ぶのも面白いし、何より「科学」を通して世界の解像度が上がるのが楽しい。
むしろ、ここを選んで良かったと思っている。
ただ、たまに「これでよかったのか」「もしここに行っていたら……」と思ってしまうことはある。
私が進学選択で迷ったのは、工学部の建築系3学科および教養学部であった。都市計画に進んでいれば関心事項のひとつであるまちづくりについて詳しく知れたはず、社会基盤に行けば好きな交通のことをより深く学べたはず、建築も昔から関心のひとつだったから面白かったはず、人文地理は昔から大好きだったし社会学よりもっと「地域」に目を向けられたかも知れない、総社なら(まあ行けたらの話だが)社会科学を網羅してもっと広い視点を持てたかも知れない、他にも……まああげたらキリがない。ちなみに法学部に行かなかったことは一切後悔していないし、完全に正しい判断だったと考えている。
社会学で学べることがどれだけ充実していても、これらの想いが消えることはない。
これ、たぶん他の学科に進んでいたとしても同じことを考えていた気がする。今度は「もし社会学に行っていたら……」とか考えていた気がする。もはや、こう考えるのは仕方がないことなのかもしれない。
学科というのは(学部にいる間は)一個しか選べないし、転学科したとしても卒論を書く学科はひとつである。すなわち絶対に「何かひとつを残してそれ以外を捨てる」のである。「他学科履修すればいいじゃないか」などのたもうても、やはり卒論を書くかそうでないかは大きく違う。
だいたい、私の「やりたいこと」というか「学びたいこと」がひとつに定まってさえいれば、こんなこと考えることもなかった。「学びたいこと」が拡散しすぎたが故の悩みであり、原因は欲張りなままでいた私にある。
課外活動でやりたかったこと
まあ現実の私を知っている人なら承知の事項かと思うが、私は複数の課外活動団体を掛け持つ人間である。
やりたくないのに入ったものなど存在しない。すべて「やりたい」から入ったものである。そうしたら最大で同時5個、通算7個の団体に所属することとなった。
合唱。これは私が高校時代から興味があったものである。高校の男声合唱が割とガチだった(すなわち忙しそうだった)のと高校では別のことをやることにしたのとで、結局高校時代はやらなかった。だが大学に入って「サークルならまあ部活ほど忙しくないだろう」とのことで、興味に任せて入ったものである。実際やってみたら歌うのは楽しかったし、入ってよかったと思ったものである。……ただ自分の忙しさもあり「続けたい」という思いが少し薄れてしまったので、今はお休み中。
学園祭。高校時代は制作に徹していたが、大学ではもう少し運営に携わりたいと思って高校時代と別の分野で携わってみた。しかもその中でも多様な担当をやってみた。しんどいけど楽しいものである。
山登り。運動不足を反省して、景色に魅せられて、そしてあるアニメに影響されて?、始めた。私自身が忙しいためあまり参加できていないが、楽しいものである。
あとその他にも3つから5つ存在するがここでは割愛しておく。
大学の課外活動をきっかけとして「やりたいこと」を始めることができ、忙しい中でもある程度は取り組むことができ、満足だ。
……実は大学で取りこぼしたものがひとつある。それは私の場合は「演劇」であった。
実はこれも高校時代から憧れていた。めちゃくちゃ興味があった(ちなみに役者に興味があった)。大学でも始めてみようか悩んだ。でもまあ忙しいだろうと感じて、上記の3つに負けてやらないことにした。
これを始めなかったことで、私の頭の中に「もし演劇をやっていたら……」という思いが残ることになった。
でも、逆に演劇に手を出していたら間違いなく他のどれかを犠牲にしていた。その際には別のことについて「もしこれをやっていたら……」と思っていたのだろう。
ちなみに「ある地域と深く関わる」というのも、やってみたいことのひとつであった。
2年生になり、周囲の友人たちに憧れのようなものを抱いて興味を抱いた。2年生までサークルや免許合宿にかまけて機会を逃し続けてきたので、3年生になった今年こそはと思っていた。しかしコロナにより頓挫した(居住地のせいで拒否られた/プログラム自体が中止になった)。
「2年生の時になんらかのプログラムに参加していれば……」という思いは残ってしまった。
でも、2年生の時に手を出していたら間違いなくサークルの合宿などを犠牲にしていた。その際には別のことについて「もしこれをやっていたら……」と思っていたのだろう。
学科とかとは違って課外活動では複数行うことが可能だが、人間にはキャパシティがあるためどれか犠牲にせざるを得ない。
「やりたいこと」が多い限り、「もしこれをやっていたら……」という思いは絶対に消えない。
アルバイトでやりたかったこと
私は多くのアルバイトを経験したことがある。単発も含めてしまえば、たぶん15くらいの業種を経験したことがある。
これは「やりたくないのにお金のために渋々やっていたもの」も存在する。
そもそも私は労働なんてしたくなかった。だが自分で自由に使える金(すなわち趣味の旅行やサークルに使うための金)を確保するためには労働せざるを得ず、その中で「せっかく労働するなら少しでもやりたいと思うものをやりたい」という思いがあった。
東大を目指す中高生や、東大の新入生に対してアドバイスを行う仕事。自分の経験を生かしてドヤ顔をし……いや、役に立つアドバイスをするのが絶対に楽しいと思って始めた。実際に楽しい。
レジャー施設。前回の記事でも書いたように私は「非日常」が大好きなので、それを支える仕事には憧れがあり、一員になってみたいという思いがあった。実際に楽しかった。
他の「やりたいこと」を実現するためには金が必要なのでアルバイトせざるを得ないが、そのアルバイトすら「やりたいこと」にできれば楽なものである。
だが、「やりたいこと」だけで金が得られるとは限らない。時給が高いことから儲かると考えて始めた家庭教師、「せっかくなら社会勉強としてコンビニでもやってみるかー」という感じで始めたコンビニバイト、本当に金欠の時にはやらざるを得ない派遣の軽作業、これらは続けるうちに「やりたくないこと」になる。
当然ながら、「やりたいこと」だけで生きるってのは難しいってことだ。
「将来の夢」
最初にちょっとだけ触れた某活の話に戻ろう。
就職の準備。まあこれから自分がどのような職業に就くかを決める機会ということで、いわば自分の夢の再発見となる。
私の場合、自分の夢すなわち「やりたいこと」が何か探っていった結果、「自分の力を生かして社会に奉仕すること」もしくは「自分がやって楽しいと思える仕事をやること」の2つが考えられた。前者はすなわち公務員ということになるが、ここで後者を突き詰めてみると「鉄道系」「旅行業」という答えが出てきた。
……これは考えてみると、小学生や中学生の頃の原体験に基づく当時からの夢であった。当時から憧れがあった。そして今なお、それをやったら絶対仕事が楽しいだろうな、やりたいな、という思いがある。こないだ企業説明会に参加した際は、再び惚れてしまった。
……さて、私はなぜ「自分の力を生かして社会に奉仕すること」すなわち公務員をやりたいと思ったのだろうか。「自分がやって楽しいと思える仕事をやること」と比べてインセンティブが小さく、今になってなぜ目指したのか分からなくなってきた。選んだからには当然理由はあったのだろうが、鉄道業や旅行業より強い理由づけが見当たらない。
ここで公務員を選んでしまえば、自分の夢を確実にひとつ捨てることになる。……そう思うと、公務員を目指すモチベーションも低下してしまった。
でもたとえ「自分がやって楽しいと思える仕事をやること」を選ぶとしても、どっちかを捨てることになる。
そして将来、「もしこっちをやっていたら……」という思いを抱くことは、どうしても避けられない気がする。
「将来の夢」すなわち「やりたいこと」が複数ある限り、これは宿命だ。
若さと人生は有限
「そんなにやりたいことがあるならすべてやればいいじゃん」「時間がない? そんなの人生ゆっくり生きればいいだけさ」
こう言われたって、若さは有限。そのうち気力がなくなり、「もしこれをやっていたら……」という思いを一生抱いて生きていくことになるだろう。それに残念なことに、「やりたいこと」にかまけてゆっくり生きていると、他の「やりたいこと」を真に実現するためのキャリア形成が難しくなってしまう。
そして人生は有限。「老後にこれをやろう」と言ったところで、老後がどれくらい残されているかなんてわからない。あと、やりたいことをなんでもやろうとすると、[憂15]で述べたような器用貧乏になる。
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「やりたいこと」が多い状態は決して悪いことはなく、むしろ人生を楽しませてくれ豊かにしてくれ生きる気力を与えてくれる。これは私のバイタリティにもつながっている。
しかし「やりたいこと」がありすぎる限り、どうあがこうと「もしこれをやっていたら……」と思うこと、それに苦しまされることは避けられない気がする。
……ところでフィクションって、「やりたいこと」を擬似体験できる、実は結構優れたツールなのかもしれない。
まあ、これからずっと「もしこれをやっていたら……」という思いとともに生きていくしかないのだな。別に私が悪いというわけじゃないんだから。