情報を効率良く摂取する、「不確実」な選択肢を選ばない、周囲が完璧だと思わない。
情報を効率良く摂取する、ということ
映画の要約を示す「ファスト映画」なるものが批判されていた時があった。「著作権違反になりかねない」という点は明らかに問題だが、それ以外に「正規の映画が視聴されなくなる」という点も批判されていた。
映像を早回しで視聴することが批判されていた時があった。細かな描写が飛ばされてしまうのがけしからん、みたいな言い分だった気がする。
……私はなんらかの行動が批判される様子を見た際、どうしても
「そういう行動が起こってしまう構造そのものに目を向けた方が良いのでは?」
と考えてしまう。
こういう、いわば「短時間で映像作品を効率良く摂取する」という行動は、どういった構造のもとで生じるのだろうか。
……私は、「現代社会には情報が多すぎる」というのがやはり根底にあるのではないか、と思っている。
世の中に出回る大量の情報というのは玉石混交であり、石(質の低い情報)を摂取するのに時間をかけると玉(質の高い情報)を摂取する時間がそれだけ減り、「もったいない」生活となってしまう。だからこそ、短時間でその情報(映像作品)の良し悪しを判断すべく、あるいはそれが石(質の低い映像作品)だったとしても極力それに割く時間を減らすべく、要約の視聴や早回し視聴という選択をとってしまう。
さらに厄介なのは、「周囲と話を合わせるために情報を摂取する必要がある」ということである。流行の作品について話せるようにするためには、その作品に触れる必要がある……が、その作品が自分にとって「玉」であるとは限らない(「玉」か「石」かは100%客観的基準ではなく主観でも判断されると思っている)。「石」かもしれないけれどそれを摂取しなければならない、それなら極力時間を割きたくない、というのは不自然ではないだろう。
「丁寧に情報を収集すべき」という「べき論」を振りかざされたとしても、それに抵抗した方が「上手く」生きられるのなら、その「べき論」は大きな意味を持たなくなってしまう。
私は「ファスト映画」は観たことがないが、映像を早回しで視聴することはよくやってしまう。加えて、なんらかの作業をしながら適当に視聴する、ということは早回し視聴より頻繁にやっている。これはまあ、「丁寧に細かなところまで味わって視聴すべき」という観念の持ち主からすると、けしからん行動ではあると思う。
でも情報過多の中で生きる私からすると、限られた時間の中でできるだけ「玉」の情報を多く摂取したいという思いがあり、その思いに従った行動がこの適当な視聴なのであって、他人からいくら「やめるべき」と言われようが変える気はない。
「不確実」な選択肢を選ばない、ということ
現代の日本社会では、科学の発達や職業選択の自由や治安の安定により、(相応の金を持っている限り)人生において多様な選択肢が用意されている。
その多様な選択肢の中には、適性がないなど、いわば自分には向いていない選択肢もある。例えば私は体格も相まってスポーツが苦手であり、スポーツの道に進むことには確実に適性がない。
私は大昔の[論18]にて、「努力は報われないこともある」ということを書いていた。
utok-travelandthinking.hatenablog.com
失敗した時、その人自身あるいは周囲が「努力が足りなかったんだ」と考えてしまうこと、あるのではないか。そう考えた場合、次は失敗しないようにと「努力を積もう」と思ってしまうのではないか。
そこでもしも「努力を積む」が目的にすり替わってしまったら、それは良くないと思う。あくまでも目的は「成功する」であり、その過程に過ぎず必ずしも報われると限らない「努力」そのものを目的にするのは、不適切だろう。自分の適性を無視して「努力」だけをひたすらに追い求めても、それが結果として出てくるとは限らない。
「やっている感」だけの取り組みとか、「頑張り」を過度に評価する体制とか、そういうのは「努力」自体が目的に近い存在となってしまうから出てくるのだと思う。目指すべきは、あくまでも「努力の先にあるもの」。
だからこそ、「努力が報われづらい」と判断した場合、それから逃れるというのは批判されるべきではないだろう。
「努力が報われづらい」選択肢、それを選んでがむしゃらに努力をしても、必ずしも良い結果が出るとは限らない。そこで「努力してきたんだ」と自分を奮い立たせてたところで、むしろ「努力」それ自体が目的にすり替わってしまい、自己満足で終わってしまう危険性がある。
それよりは、最初からその選択肢を選ばない、あるいは選んだとしても「努力が報われづらい」と判断したら選択肢を変更する、そのほうが自分のパフォーマンスを発揮できるかもしれない。
何か続けていたものを辞める際、まだ成果を出していない状態だったら特に、「努力から逃げた」と判断されてしまうことが多いと思う。でも言いたい、逃げるのはダメなことではない。
「努力が報われづらい」選択肢に限らず、自分にとって「不確実」な選択肢を避ける。これはみっともないことかもしれないけれど、自分の人生を「上手く」生きるために重要なことだと思う。
周囲が完璧だと思わない、ということ
選択肢が大量に存在する環境、その選択肢のすべてをカバーできる人というのは存在しない。
多様な情報が存在する中で、その情報のすべてを網羅している人というのは存在しない。
「全知全能」は存在しない。
人はすべての情報を網羅してその中で合理的な判断をする、とは限らない。「私がこう言ったから普通はこう判断するでしょ!」なんて言っても、その「普通」は実は「普通」ではないかもしれない。自分が思う「普通」は、自分が何らかの情報を有しているからこそ「普通」に思えるのであり、その情報を有さない人にとっては「普通」でないかもしれない。
全知全能ではないので、人は失敗する。それは本来おかしくないことのはずなのだが、失敗を叩く人がいる。だがその叩く人たちが全く失敗しないかというと、そんなことはないと思う。むしろ叩く人が叩く対象のことを「全知全能であるはずだ」と認識してしまい、その認識による期待が裏切られたから叩く、ということもあると思う。
周囲の人を最初から完璧だと思わなければ、勝手にあらゆる情報を得ていると判断して期待することなく、それが裏切られたことで失望することなく、平穏に生きられるような気がする。
むしろ、情報過多の状態では「自分がすべてをカバーできない」ということを知っているので、それだけで「相手もすべてをカバーできない可能性がある」と判断しやすくなっている気がする。そのような判断のもと、良い意味で周囲の人に期待しないというあり方を選択する、冷酷かもしれないが損の少ない生き方だと思う。