どこかの元T大生の思考

不定期です。旅行と考えることが好きな元T大生が、たまーに駄文を公開します。旅の記録を語る[旅]、何かに対する見解や主張をぶつける[論]、自分の生き方について思いを巡らせる[憂]、趣味などについて書き散らす[雑]の4つのカテゴリーで。

[憂11]ひねくれて、感情が変わって

素直に「悲しみ」や「怒り」の感情を抱けなくなって、かわりに「諦念」「怖れ」「嫉妬」「メタ的思考」とかが増えたのかも。

 

 

「死」の捉え方

 

中学校時代の級友が、亡くなった。突然のことだった。


つい3ヶ月前、成人式の時に会って話したばっかだった。身長が高くなった、と驚いたばっかだった。大学生活のことなど話したばっかだった。あの時は確かに、私の隣にいた。携帯の写真にもガッツリ写っている。

6年前、中3の時はクラスが一緒だった。合唱祭の時なんか、めちゃくちゃいい笑顔で歌っていて先生に褒められていた。ふと中学校の卒業アルバムを見ると、私と2人で写っている体育祭の時の写真があった。当時から、仲は良かったと思う。


その彼は、もうこの世にはいない。もう、二度と会って話すことができない。これからの同窓会でも、彼はいない。

素直にいけば、ここは深い「悲しみ」を味わうところだろう。

 


だが不思議なことに、私は「悲しみ」の感情を強く感じていないのだ。

今私の中にあるのは、明言できない複雑な感情のみ。言うならば「全く実感できない」という思い、「死」という得体の知れないものに対する様々な考察と恐怖、死の原因(この文章では言及しないでおく)への怖れ、そして「仕方ないのかも知れない」「どうせいつか死ぬんだから」という思い。そしてそんな自分の思いを考察し、この文章を書いているメタな自分。不思議と、涙は出てこない。

友人の死に接しても素直に悲しめない自分が、不思議に感じられる。ここは悲しむところだろうが。自分を悲しませようとした。それでも、涙は流れてこない。


「知人の死」は、これまでも3回経験したことがある。

1回目は小学校時代の同級生の死。彼は病気を患っていて、闘病中に夭逝した。入院していたためしばらく会っておらず、突然「亡くなった」と聞いても実感が湧かなかったというのは、当時も同じである。しかし彼の写真と棺の中の安らかな顔を見ると、自然と涙が溢れてきた。「悲しみ」を感じたのだ。そして、健康そのものだった私にとって「病死」は遠いもので、自分のことと考えて恐怖を抱くには至らなかった。また、「小学生にして病気で亡くなった」というのを非常に特殊なものと考えていた。

2回目は高校受験1週間前の祖父の死。祖父も入院中で、一回危篤に陥ったあと少し回復したが、闘病虚しく1ヶ月後に亡くなった。祖母家に行っても祖父がいないのは当たり前になっていたから、この時も死の実感までは時間がかかった。孫から愛されるしっかりした人ではなかったが、あのうるさい爺ちゃんがもう見られないと思うと、それは悲しくなったものだ。また、この時も「死」は自分にとって遠いものと捉えていた。しかしながら、この時は心のどこかに「まあ一回危篤になってるし、この時期に死ぬのは確実だっただろうから仕方ない」という思いが芽生えていた気がする。

3回目は、高2の時お世話になった教員の高3の時の死。異動しておりそれこそ「一生会わない」と思っていたから、実感は今でも湧いていない。あまり悲しくならなかったが、それは「前の2人と違ってあまり深く関わらなかったから」だろう。そしてこの時は、「老いぼれだし死ぬのも仕方ない」という思いもあった。でもまだ「死」は自分にとって遠いものだった。


そして今回。これまでとは異なり、割と親しかったのに明らかな「悲しみ」の感情は感じられていない。自分にも起こり得るものとして「死」に対する恐怖を感じ、原因となったものに対して恐怖を感じている。また彼は祖父や教員と違って若いのに、なぜか「死ぬのも仕方ないのかも」という思いを少し抱いてしまっている。そしてそんな自分を、こんなふうに文章化して分析している。また、彼がいなくなった実感は案の定ない。

「実感が湧いていない」というのは4回ともそうだし、時間の経過が解決してくれるだろう。問題は、それ以外のところだ。私の中での「死」に触れた時の捉え方や感情に、これまでの3回と比べて変化が生じていたといえよう。この文章では、その「感情」について扱おうと思う。

 

 

「死」に対する感情

 

「死」に対する恐怖。これは「恐れ」と「怖れ」に分けられると思う。「恐れ」の方で言えば、私は高校3年の頃以降から「死」の概念についていろいろ考えるようになり、考えても考えてもきりがなく解明できないことから、未知で得体の知れないものに対する「恐れ」をいっそう抱くようになった。「怖れ」の方で言えば、高校時代以降はヒヤリ・ハットの経験が増え、フィクションに触れることが多くなったこともあり「死」が自分くらいの人間でもいつでも起こりかねないと考えてしまい、はっきりと意識しているものに対する「怖れ」を抱くようになった。

原因に対する恐怖。こちらは「怖れ」だろう。今回の死の原因は、私が大学生になって初めて使うようになったものだ(細かな種類は違うが)。そして私は、それを使い始める時に死亡事故の重大性と発生のしやすさを痛いほど説明されており、だからこそ今ここで実際にそれによる死が起こると、自分も起こしかねないと再確認して「怖れ」を抱いている。

「死ぬのは仕方ないのかも」という思い。これは「死」について考える過程で「人間って誰もがどうせ死ぬよな?」「知り合いの死って自分が早死にしない限りは絶対に経験するんだよな?」と思ってしまったことや、死やその原因に対する「別にいつ来てもおかしくないよな?」という怖れが原因と言えよう。

自分の自分による感情分析。これは、大学入学以降さまざまな(たまに自分と異なる)思想・門地の人と話す機会を得て、その過程で自分の内面に興味を持ちメタ的に考えるようになったからだろう。

「悲しみ」の感情の不存在。これは、今述べたようないろいろなことを考えるようになってしまい、「素直じゃなくなった」からと言えるのではなかろうか。


つまり、私は高校時代以降の「哲学的思考」「知識の獲得」「経験の増加」「異なる思想との対話」などが原因となって、「怖れ」「メタ的思考」などを獲得し、かわりに「悲しみ」をかつてほど素直に感じられなくなった、とでも言えようか。言い過ぎを恐れずに換言すると、「成長の過程でひねくれた」ということだ。

 

 

感情の置き換え

 

ここからは「死」の話題からは離れる。

感じられなくなった悲しみは「友人の不幸」のみではない。自分に降りかかった災難もだ。

中学1年生の時、私の物言いと担任の不適切な対応が起因となって、私は同級生からあからさまな嫌がらせを受けた。そしてひどく悲しんで泣いた。この当時は、素直に悲しめる人だった。

この事件、今考えると自分があんなに泣いたのが恥ずかしいし情けない。……この「恥ずかしい」「情けない」という思いこそが、高校以降に自分の「悲しみ」を抑える原因となった。こんなことでこんなに悲しんで、情けない。今ひどく悲しんだら、将来「恥ずかしいな当時の自分」って思うだけだろう。……そんな思いが、私から素直な「悲しい」という感情を取り去っていった。この「恥ずかしい」「情けない」という思いは、メタ的思考の増大や、高校以降の関与する人間の数の急激な増大(すなわち行動の幅の拡大)、それによる他者との比較を通した自分の異常性の把握が、原因と言える気がする。

「悲しみ」という感情の薄れには、「楽観主義化」「思考の転換の円滑化」「諦めの良さ」という原因もあるだろう。私は中学時代までひどく悲観的(ただし深く考えて悲観しているわけではない)な子供だったが、人生意外とうまくいっていることに気づいた高校時代以降楽観的な人間になり、悲しいことがあっても「ま、なんとかなるんじゃね?」「このかわりに後でいいことがあるかもだぞ」など軽くあしらうようになった。中学時代以上に自分の行動の計画を立てる機会が増え、連鎖的な興味の増加から「やりたいこと」が増え、例えば災難により計画が潰れるとなっても「じゃあかわりにこれできるじゃん!」などと発想を転換するようになった。また楽観主義に基づき、「まあこうなる運命だったんだろうな、仕方ない」など思い諦めがすぐにつくことも増えた。

要は、「行動範囲の増加」「他者との比較」「過去の成功を元にした楽観主義化」などが原因となって「羞恥」「諦念」などを獲得し、素直な「悲しみ」の表現場所が減った、とでも言えようか。これも「成長の過程でひねくれた」ということだ。


ところで、素直に感じられなくなっている感情は「悲しみ」だけではない。「怒り」もだ。

私は滅多に人に対して怒らない。前に怒ったのは中2の時でもう7年も前だが、この例も今や「恥ずかしい」「情けない」と感じており、前述の「悲しみ」と同様に羞恥が「怒り」を抑えつけていると言えよう。またすぐに「まあそういうこともあるさ」と切り替えることができ、これも「悲しみ」と同様に諦念が「怒り」を抑えつけている。

加えて、SNSなどで怒り露わな表現の不毛なぶつけ合いをよく見るようになり、それを反面教師として、怒りのような感情を抱いた時は冷静になって原因などを考えるようにした。例えば、1世帯あたりマスク2枚配布に対して怒りかけたが、色々と情報を得たらある程度の納得に至った。

また、過去の自分の怒りの原因を分析したところ、自分の非が一定度認められた。これを踏まえて、何か怒りの原因がありそうならば自分の非を考えるようになり、その結果自分から譲歩することも増えた。これは反省の感情ゆえだろう。

「感情のあからさまな表現への曝露」「過去の分析」などが原因となって「羞恥」「諦念」「反面教師化」「反省」などを獲得し、素直な「怒り」の表現場所が減ったようだ。「ひねくれた結果怒らなくなった」という、良いんだか悪いんだかわからない結果。

ただ、イライラは未だにする。これは明確で単純な「怒り」の感情というより、「落ち着かない状態」の方が正しい気がするが。


「嫌悪」なんかも実は感じづらくなっている。「メタ的思考」の下で考えると「大してそんなことなかった」「相手の良さに気付いた」などとなることも多く、「何かを嫌いになる」も昔ほど起こらなくなった。私は、「嫌いな人」がいないというのが自慢である。まあ食材のアボカドだけは決して許さないが。あればメタ的に考えても無理だ。

 


さて、代わりに明らかに昔より増えた感情がある。例えば「嫉妬」「尊敬」「葛藤」である。

実は高3の時に、盛り上がっている場の雰囲気にのまれて突然泣き出したことがある。それは優秀な友人(その場にはいなかったが話に上がった)に対する自身の劣等感ゆえの嫉妬と、彼を尊敬するがゆえの葛藤から、自己嫌悪に陥ったゆえのものだった。

行動範囲の増加により関わる人物が増えると、母数が増えるために尊敬対象も増え、同時に嫉妬の対象も増える。

そして、これまでに出てきたような高度な感情がぶつかると、そこに葛藤が生じる。思えば、この文章を書いている私の心情はずっと「葛藤」だったのかもしれない。

 

 

大人になったのか、ひねくれたのか

 

こんな感じで、「悲しみ」「怒り」「嫌悪」という単純な感情は、成長や学習による「死への恐れ」「怖れ」「諦念」「羞恥」「反省」「嫉妬」「尊敬」「葛藤」など比較的高度な感情や「反面教師化」「メタ的思考」など高度な処理の強化により打ち消され、表出しづらくなったような気がする。

良く言えば、大人になったということだ。感情のコントロールができるようになったということだ。「悲しみ」「怒り」「嫌悪」は制御できないと大変な負の感情のため、自制はとても大切だと思う。そして、それを抑えることで人間関係の悪化を防ぐことができるだろう。この点では非常に良い傾向だと考えている。

しかし悪く言えば、素直に感情を抱けないひねくれた人間になったということだ。もはや子供の頃の純粋な感情は、「悲しみ」「怒り」「嫌悪」においては結構失われてしまった。まるで刺激が足りなくなったみたいだ。「怒り」と「嫌悪」はともかく、「悲しみ」も素直に抱けないというのは、友人の死に接しても素直になれない友人への申し訳なさ、そして喪失感や無力感すら感じる。……この「申し訳なさ」「喪失感」「無力感」というのも、少し遅れてくる高度な感情か。


……そして、実は「恋愛感情」もこれら高度な感情とメタ的思考にのみこまれてしまい、そのせいでこんな拗らせた人間になってしまったのかもしれない。話が変わったが。

これを考えると、こんなにひねくれる前に恋愛対象のいる空間に属し、純粋な恋愛感情を経験し、交際経験を積むのが正しいと言えそうだ。男子校を否定する理論。ひええ。


「怒」と「哀」がこうなってしまった以上、「喜」と「楽」もこうなりかねない。せめてそこだけは、素直でいたいものだ。「喜」「楽」は、「怒」「哀」と違って、放っておいてもそうそう負の方向に向かうわけじゃないから。

そして、もしこんな私に可能性があるならば、「恋愛感情」に関しても素直に戻りたいものだ。

 


……読み返してみると、この文章自体が「友人の死」から始まって「恋愛感情」で終わるという、とてつもなくひねくれた文章になっていた。

ひねくれるのは、一部の感情においてだけで十分なはず。それ以外はまだ素直でありたい。

そう思いながら、「尊敬」する友人に黙祷を捧げる。そしてこんな自分の文章を「反省」。こんなこと言っても彼は戻ってこないという「喪失感」「無力感」が、いよいよ感じられてきた。

[雑12]Illustratorで何も見ずに路線図を描いてみた

クソオタクの暇つぶし。

 

 

頭のおかしい取り組み

 

4月1日。

本来なら新たな季節の始まりに胸を躍らせるところだが、こんな状況じゃあそれほどわくわくできないものだ。

 

私も予定がことごとく消えている。埼玉県大野元裕知事からは「東京都への外出を極力避けるように」なる要請が出て、迂闊に稼ぎに行くこともできなくなった。そして、多くを自宅で過ごすこととなっている。こんなに外出しないなんて、私としては非常に珍しいことだ。

 

そこで暇つぶしとして思いついたのが

「何も見ないで、Illustratorで日本全国の路線図を描いてみよう」

という頭のおかしい取り組みだ。は?????

ちなみにこのIllustratorというのはAdobeのソフトで、その名の通りお絵かきやデザインに用いるものである。後で詳しく触れるとしよう。

 

実は私は2歳児くらいの頃から鉄道路線(車両ではない)に強い興味を抱き、以来路線図を眺めることを趣味としてきた。加えて大学に入ってから日本全国を鉄道で廻るようになり、自ずと路線図を見る機会が増えた。

そのおかげで日本全国の路線図が頭の中に入っているという非常に気持ち悪い状態となってしまい、この機会にその実力を試してみたかったのもある。

 

 

Illustratorとは?

 

私が用いた「Illustrator」(通称「イラレ」)というソフトだが、Adobe社が提供する有償ベクター画像編集ソフトウェア」である。

この「ベクター画像」というのはコンピュータ上の画像表現方式の一つで、画像を円や直線などの「図形」の組み合わせで表現する方式を指す。

よく似たソフトとして画像編集ソフトのPhotoshopがあるが、こちらは点の濃淡で画像を表現する「ビットマップ画像」を編集するものだ。

 

ベクター画像にあってビットマップ画像にない長所として、「拡大しても画質が落ちない」というものがある。

そのため、日本全国の路線図をベクター画像方式で書くと、北海道の路線図も首都圏の路線図も同じ縮尺で綺麗に表すことができるのだ。

 

また、Illustratorには「レイヤー」という機能があり、例えば日本の国土の輪郭・都府県境を「レイヤー1」で、鉄道路線を「レイヤー2」で書くことができる。

その上「グループ」を使うことで、レイヤー2の中でも鉄道会社ごとに分けることができる。

その中の要素(「パス」と言う)についても名前をつけることができ、その路線の名称をつけられる。

 

なお、先にも触れたが「有償」すなわち金がかかる。しかも結構高い。まあ私の場合はもともと持っていたからよかったんだが。

私みたいなよほどの変人でもない限り、この方法は全くお勧めできない。こだわらないなら、別にパワポでもいいじゃないか。

 

 

実際にどうやって描くのか

 

ありえん見づらいのは許して。イラレ上級者に見せたら変な顔をされそうなやり方だけど許して。

 

まずIllustratorを開いて「新規作成」を選ぶと、次のような画面が出る。この画面が基本だ。「ウィンドウ」のところから「ツールバー」「レイヤー」を出しておくのがいいだろう。

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線を描くのには「ブラシツール」を用いる。これを選択して紙の上でドラッグ&ドロップすると普通に線が書ける。これが「パス」で、色や太さも変えられる。

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ここで「選択ツール」を選んで線をクリックすると、青い線と点の表示が出る(めちゃくちゃ見づらい)。この点は「アンカー」と言い、線の曲がる所などに見られる。

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「ダイレクト選択ツール」を選んだ上でこの青い点をドラッグ&ドロップすると、右下図のように線を曲げられる。アンカーから横に伸びた線の先「ハンドル」を調節すると、曲がり具合も変えられる。

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ちなみに乗換駅の場合、乗り入れ路線のアンカーの位置を全部揃えるといい感じになる。

 

路線名については、画面右側の「レイヤー」のところから、該当のパスを選んで名称を変更するだけ。

 

 

書き始めてみた

 

都道府県の輪郭と、鉄道事業法および軌道法に基づく鉄道・軌道路線(ただしケーブルカーおよびトロリーバスを除く)を全部書いてみる。

ただの記録なので読みづらいがご容赦を。バカなため、最初の方は画面のスクショではなく「汚いパソコンの画面をスマホで撮った画像」しか存在しないがご容赦を。

 

最初は北海道から。北海道だけなら非常に楽だ。

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続いて本州進出。

北海道の時点では1つのレイヤーに輪郭と路線の両方を描いていたのを、この時点で分割している。その中では「JR北海道」「九州」などとグループでさらに分類。

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路線ごとに描いているため、東北本線はとりあえず東京まで描いておくことに。

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首都圏では路線が多く煩雑になるため、最初はJRと第三セクター国鉄・JR路線転換型)と東武鉄道のみ描いておく。

「高規格第三セクター」「国鉄転換第三セクター」なる謎のグループが誕生した(のちに消滅)。

そして、放置していた札幌・函館・仙台の地下鉄・路面電車もこのタイミングで描く。「公営地下鉄」「路面電車」のグループへ(こちらものちに消滅)。f:id:utok_travelandthinking:20200403200626j:plain

 

中京圏京阪神圏にも進出したが、ここでもとりあえず私鉄は描かないでおく。

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都市圏の私鉄を除き、本州ほぼ完成。四国へ。

岡山電気軌道広島電鉄など「公営でない路面電車」も現れたため、「公営地下鉄」「路面電車」のグループを「公営鉄道」に再編。

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路線が少ない四国はすぐに終わり、九州へ。「国鉄転換第三セクター」のグループが「並行在来線」「国鉄赤字転換」に分離。

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沖縄を記載。終わりが見えてきた。

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中京圏京阪神圏で残っている私鉄を処理。

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続いて首都圏も処理していく。

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そして残すは東京メトロ都営地下鉄のみに。なお北大阪急行は「中小私鉄」グループに入った模様。あと「第三セクター」カテゴリーは再統合。

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この東京メトロ都営地下鉄がめんどくさい。位置の調整とか細かすぎて疲れるんだわ。

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そしてついに、次のような路線図がようやく完成。

これを私は何も見ないで描いたのである。

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……「民鉄」より「私鉄」の方がグループ名称として正しかったな。

 

色の塗り分けについては、

となっている。先に述べたとおり、鋼索鉄道(ケーブルカー)およびトロリーバスは省略。

また、

という謎色分けとなってしまった。

 

そのほか、休止中の路線について

となっている。

 

 

答え合わせ

 

それでは本当に正しく描けているのか、答え合わせをしてみよう。

 

実際の路線図と照らし合わせ、細かく見ていった。その結果、

というのが大きな間違いであった。そのほか、細かいところだと

という感じだった。こんなこと言われても多くの人は何が何だかわからないと思うが。

まあ逆に言えば、日本全国の路線図を描いて、ここに挙げた以外はほぼ正確だということだ。やばいね。

 

 

修正作業

 

路線図の修正を始めた。上に挙げた完全なミスの他にも、

を行っている。最初の方にやっていた北海道は結構雑だったこともあり、結構な修正を加えた。

 

また、色分けに若干の変更を加えている。

  • モノレール(紫色)・案内軌条式(茶色)について、見やすいように淡色に変更
  • 地下鉄の一部およびリニモが該当する「リニアモーターカー」の分類として、「濃い橙色」を設定
  • 案内軌条式の地下鉄札幌市営地下鉄)は「案内軌条式」の分類に当たる「茶色」に変更

 

という感じだ。

 

加えて、地味にグループの再編も行っている。再編された「第三セクター」のグループを

の5つのグループ、およびどれにも属さない水島臨海鉄道水島本線に分けた。

 

ついでに、それぞれのパスの名称とする「路線名称」についても、正しいかどうか調べた。その結果、

という形で路線名称の修正が入った。西武と東急については、路線の正式名称に会社略称が入っているため。富山港線については、運営主体がこの間変わっていたらしい。

 

他に、正式な路線名称がわからずに保留になっていた

に正式な路線名を割り当てた。いやこんなのわかるわけなくね???

ちなみに路線名を調べる過程で、「ディズニーリゾートライン」の運営主体が「舞浜リゾートライン」だったということが判明した。知らんかった。

 

そんな感じで修正が完了したのが、こちらである。

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この修正で8時間くらいかかった。なんで???

 

 

活用の仕方

 

路線(パス)の分割や色分けができるため、色々な活用ができる。

 

まずは「乗りつぶしマップ」。まあこれが基本だろう(ほんまか?)。私がこれまでに乗ったことのある路線のみを、ここに表示している。

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続いては、JRの会社ごとの色分け。こんなのもできる。

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また、旅行記録にもなる。これは去年夏の限界旅行([旅20][旅21]参照)6日間の移動経路。

utok-travelandthinking.hatenablog.com

utok-travelandthinking.hatenablog.com

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分類ごとの表示も。これは第三セクター鉄道全部を示したもの。分かりづらいが。

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これは、JR在来線+国鉄型(国鉄・JR路線転換or建設)第三セクター路線+京都丹後鉄道のみを示したもの。要は国鉄系の現存在来線。

(旧JR線の富山地方鉄道富山港線は忘れてた)

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「ライブペイント」という機能を使えば、色分けもできる。そのため経県値表示も可能。

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この他にも色々。

 

このファイル、欲しい人にはPDFもしくはaiファイルで渡しても良いと思っている。欲しいという稀有な方はなんらかのコンタクトを。

 

 

感想

 

とにかく疲れた。なんでこんなことやってんの。頭おかしい。

……真面目に言うと、ここまで正確に描けたことに自分でも驚いている。自分の新たな可能性に気づいた気すらする。てか、2月に名古屋行って地下鉄乗りつぶししといてよかった。

あと面白いことに、路線図を描いていく過程で日本の輪郭・都道府県境も綺麗になっていくのだ。路線を意識することは都道府県の形を正確に意識することにつながるのか、と考えたりした。ただ、町田が東京都なのが本当に邪魔でたまらない。早く町田は神奈川県に戻れ。

 

 

……こんなくだらない記事にここまでお付き合いいただき、申し訳ない。

春休みも伸びて暇になったため(ほんまか?)、これから2週間ほど、夏休みのような記事を投稿しまくるかもしれない。その場合は乞うご期待。でもそんなに期待されると困る(どっちだ)。

 

とりあえず私は、この50時間くらいかけた代物をどうにか活用していきたい。

 

[憂10]「成人」は「喪失」なのだろうか

「大人になる」ってなんだったんだろうか。

 

 

 

2020年3月19日、私は20歳の誕生日を迎えた。成人したのである。

「大人になった」のである。

 


制限行為能力者を脱した。飲酒できるようになった。いろいろなところで親の署名が不要になった。クレカの利用枠引き上げ申請を自力でできるようになった。

代わりに責任は重くなった。犯罪を起こせば実名公開。国民年金第1号被保険者。「大人として求められるもの」が求められるようになった。

 


でもなんだろう、全然「大人になって何かを得た」という感覚はない。そこにあるのは、昨日までと大して変わらない生活のみ。まだ親の扶養を受け、親の金で学び、親に飯を食わせてもらっている「子供」だ。

「大人になった時のための教育」なんてのも、それほど受けた記憶はない。「大人になる準備」だってできていない。

なんか不思議なものだ。「大人になる」ってなんだ?

 


……しかしながら、はっきりと自覚できることがある。

それは「もはや自分は若くない」ということだ。

……別に嫌味とかではない。ただ、「10代」というフレッシュさの代名詞を失ったのだ。

 


歳をとったからって、ほとんどの活動については「絶対にできなくなる」わけではない。私自身、「何かを始めるのに歳なんて関係ないだろ!」という人間だ。逆に歳をとった方ができる活動の幅が増えるまである。

ただ、「若い頃しか制度上できないこと」については、今後二度とすることができない。例えば、「雪マジ」とかいう19歳(厳密には小学校卒業後7年目の世代)のみのプログラムはもはやできない。それだけじゃない、「未成年のピュアな恋愛」とかいうのも当然不可能だ。もう「あの時やっておけば……」「あの時できていれば……」と思うしかない。

年齢は絶対に不可逆だ。だからこそ残酷で、「20歳になる」はある意味「喪失」なのだ。

 


もう1つ。

私の大きなアイデンティティが消滅した。

「未成年飲酒禁止過激派」というのが私のアイデンティティだった。しかし未成年ではなくなった。

私は「酒が嫌い」でなく「未成年飲酒が大大大嫌い」だったので、成人した今はどうせ飲む。

もはや「普通に酒を飲む一回の成人」でしかない。

 


そういえば、周囲の人間は「大学生になってから」大きく変わった。「打ち上げ」が「飲み会」になり、みんな酒を飲んで人が変わったように騒ぐようになった。

高校生までのような「ノンアルで楽しみまくる打ち上げ」はもはやそれほど存在しない。

未成年飲酒絶対しないマンとしては、周囲のみんながそうやって変わっていくのは、勝手な思いではあるがなにか悲しかった。

でも今や、自分も「そうやって変わる側」なのだ。

 


あと、私は結局「未成年の間に恋人ができなかった」「恋人いない歴>20年」という不名誉な称号を得てしまった。まあこれも「もう二度とできないこと」だけど、こんなん望んでたわけじゃない。

これまでは「別に恋人とかどうでもいいんじゃね?」とか思ってきたが、「大人」になってしまった今や、結婚とか色々を考えずにはいられないし、「恋人が今までいなかったこと」に対して「社会不適合」の烙印が押されてもおかしくない状況だ。

「まだ子供だから」という言い訳を喪失した。

 


これに関しても、周囲が「大学生になってから」大きく変わった例だ。高校時代は全然聞かなかった恋愛の話が身近になり、突然ドロドロになり、いろいろな話を聞くようになった。

東大生だからまだ望みはあるかもしれないが(?)、もう「非リア芸」なんてものは冷ややかな目で見られるのみ。

これに関しては、自分は「変わるべきだったのに変われなかった」例だ。「大人」になり損ねた。尊厳を1つ失ったまである。

 


「成人になる」、それは私にとっては「何かを得る」というより「何かを失う」の方が大きかったのかもしれない。

当然「新たに得るもの」も多い、それは分かっている。でも今の実感としては、なんか喪失感の方が大きいのだ。

 


「誕生日おめでとう」の言葉を多くもらった。非常に感謝している。ありがとう。

でもなんだろう、私は自分が20歳になったことを素直に喜べないような、そんな気がする。

成人になりきれない成人が、そこにはいた。

 


……と、ここまで書いたところで、私は1つの達成感を抱いていることに気がついた。それは「未成年不飲酒を守り抜いた」ということである。

「もう二度とできないこと」を、私はこのような形で成功させていた。

実は、自信を持って大人になって、いいのかもしれない。

 


「大人になる」って、なんなんだろうか。

「形式上は」大人になってしまった今、この問いからは逃れることができない。

[雑11]お金の使い方が下手くそで、でもうまい

「旅先では宿泊費・交通費以外で散財する」「使う分だけ稼ぐ」が私の方針。だからこそ、何かミスるとダメージが大きい。でも、旅費は自分で稼ぐんだぜ。

 

 

 

長い春休みも3分の2くらいが過ぎ、終わりへと近づいてきている。……あんまり終わって欲しくないなあ、ってのは置いといて。

 

 

春休み、どこに金を使ったか 

 

この春休み、私は様々な場所において多額の金を使った。長野県で13日間滞在し、蔵王にスキーに行きついでに鳴子温泉にも行き、それが終わると会津にスキーに行き、高校同期と遊び、続いては名古屋から沖縄まで日本列島を縦断してきた。

COVID-19とかいう謎ウイルスのせいで台湾旅・紀伊半島旅が中止に追いやられたとはいえ、例の「国立大学生は遠出を自粛せよ!」お気持ち表明より前の時点で、これだけ飛び回って様々なところで金を落としてきたのである。ちなみに台湾はキャンセルしても結局3万円飛んだから、大幅なダメージだ。 


私は、金銭感覚が狂っている。だから、学生の身分で多額の金を使う。まったく贅沢だねえ。

 

 

旅における金の使い方は?

 

こういう「旅」のとき、私は何に金を使うのか。

言ってしまえば、この答えはご当地グルメ」「土産」「各種入場料」である。なぜか?そりゃ「そこでしか絶対得られないから」「旅の目的とも言えるから」であろう。せっかく行くんだから、これをケチっちゃもったいない。この点で私は「金の使い方が上手」ではなかろうか? ……なんで自画自賛してるんだろ。

特に、旅の醍醐味は「グルメ」だ。これは断言しよう。食べ物ってのは明らかに自分の体の形成に関わるわけで、それを食べることでそこに行った確固たる証拠になる(という謎理論を展開しておこう)。これがわからない方については「もったいない」「可哀想」と思ってしまうくらいだ。ちなみに、今は静岡に行って「さわやか」のハンバーグを食べたい。

土産もそうだ。例えば私は沖縄で現地のおばちゃんに乗せられてシーサー(なんと200円!)を買ってしまったが、これこそ「沖縄に行った」という印になる。机に置いときゃ、それを見る度に旅のことを思い出して楽しい。こういう「残るもの」だけじゃなくて当然お菓子とかも買うが、それは「人々に自分の旅の証拠を示しかつ喜んでもらう」ってことになる。そして自分が食べるのも、前述の「グルメこそ至高」理論に合致する。

ちなみにこれは「土産」とはいえないが、今年から御朱印にも金を使うようになった。


代わりに、「宿泊費」に関しては私はあり得ないほどケチる。最近、個人旅行ではネカフェかゲストハウスか夜行便しか使っていない。カプセルホテルですら高い。いやー限界だな。

だってさ、ホテルの充実したサービスとかって「そこじゃなくても得られるかもしれない」「大抵はその地域に行く目的ではない」じゃん? それに私は「どこでも寝られる」って特技を持ってるから、別に「安心して寝られる場所」さえあればいいのさ。むしろネカフェの方が、無料朝食とかいうものあったりしてありがたいし。……あ、私は旅先でも朝食だけはケチるんだよ。

加えて、交通費もケチる。「新幹線使わないと間に合わない」「そもそも特急しか選択肢がない」という場合を除き、基本的に鈍行列車しか使わない。むしろ、鈍行列車の方がのんびりできるし楽しいまである。現地独特の景色を眺める鈍行列車の旅も、その場所でしかできないのさ。ちなみに鉄道がない場合でも、基本的にバスのフリーパスだ。……まあ、交通費に関してはケチったところで十分高いから問題なんだが。ヒッチハイクすりゃいいだけだけどね。

……んで、そういういわゆる「広義宿」「限界列車」ばっか使ってるから体調を崩す。つまりは「金の使い方が下手」ってことだな。

だが私はそこでは終わらない。高い治癒能力により、列車に揺られながら外の景色を眺めてりゃ回復するのである。ゆえに、こういう「宿泊費と交通費をケチるスタイル」が通用するのだ。この意味では「ケチり方が上手」と言えるだろう(ほんまか?)。

 

 

日常生活における金の使い方は?

 

日常生活ではどうか。

私は、日常生活では「交際費」に関してはそれほど出費を惜しまない。高校同期と久々に会う時とか、なにかの打ち上げをする時とか、そういう時にゃ「その人/集団といるのが楽しいから」「その時にしかできないかもしれないから」って理論で金を使う。上手な使い方でしょ(は?) ただし、その回数は制限をかける。普通に生きて普通に飲み会全参してたら死んじゃう。だいたい未成年の私は酒を飲まないから、損してばかりだ。

代わりに、「1人でいるときの費用」に関してはケチる。例えば関東での昼食は、「頑張ったから油そばでも食うか!」「ここの海鮮丼を一回食べてみたかった」とかそうでもない限り、コンビニパン300円以内。高校時代やってた「夕方の買い食い」はやめた。また、家と駅の間を雨が降っていても自転車で行き、バス往復546円をケチる。

それで体調崩さないのかって? 残念だな、「実家住み」「学食パス」とかいうアドによって、朝食・夕食はもちろん昼の学食に関しても健康的な食事を取れるんだ。学食パスはいいぞ(ここで突如登場する生協バイト人格)。

ま、だからこそ一人暮らししたらたぶんやばいんだけどね。

 

 

その金はどこから?

 

こう言っていると、「お前、ケチってるって言っても大量に金使ってて楽しそうだな、どっからその金出てるんだ」と思われるのは確実だ。

だいたい旅ってのはケチったとしても6,000円/日くらいは余裕で飛んでくもので、よほど金に余裕がないとできないはずだ。それに(今は休止中だが)合唱とかいう金のかかる活動に携わっていたり、月1回程度資格試験を趣味で受験したりして、日常生活でも多額の金を飛ばしているから尚更。加えてそのせいで金銭感覚が徐々にバグってきていて、宅急便2,400円とか変なところでも金を出すようになってしまった。

……その質問に答えよう。月10,000円は親、それ以外は完全に自分の収入だ。ちなみにこの「10,000円」ってのは家から駅までのバスの定期券代(たけえ!!!)で、その区間を自転車で行くことでケチってる。なんか色々あって4月からは5,000円に縮小されるらしい。あ、ところで教科書代は親の金なのでご理解を(?)

 

 

できるだけ稼ぐ


んで、その収入ってのについてだが、私は「できるだけ稼ぐ」「使う分だけ稼ぐ」ってのをモットーにしている。まずは金を使いそうな今後の予定を把握し、それに必要そうな金額を計算し、それを捻出するためにどれくらい労働すればいいか判断する、という感じだ。これこそ「金の稼ぎ方が上手い」と言えるだろうよ。

だいたい、「稼いでおいて使わない」というのは非常にもったいないっしょ。そもそも大学生の労働ってのは、勉学に充てるための貴重な時間を割きつつ少ししか稼げないものであり、それほど推奨されるもんではないと思う。使わないなら労働じゃなくて勉強しろ、それでも労働するなら稼ぎを私にくれ。どうせなら経済を回せ。それこそ必要なところに回す「金のうまい使い方」さ。


そもそも私の今の大きな収入源は「Uber Eats」だ。これ、やればやるだけ稼げるし、自分のライフスタイルに合わせて柔軟に稼働時刻・時間を設定することができる。しかも意外と儲かる。しかし注文が来ない時などもあり、収入はめちゃくちゃ不安定だ。

 

なお、私は稼ぐからといって決して勉学や所属団体の仕事を疎かにはしない。大学生、メインでやることは労働ではないのさ。

  

 

破綻したら?


だからこそ、思ったより稼げないと金が足りなくなる。要は予算案の崩壊、破綻だ。よくあること(さすがダメ人間)。

こうなったときの逃げ道は3つ。「クレカを使って支払いを先延ばしにする」「親から借金をする」「そもそも予定をつぶす」。

私は1つ目を多用してきた。要は「クレカの残高だけ後で労働して稼ぐ」スタイルだ。意外とこれでどうにかなってきた。しかし2月末に「限度額」というハードルにはじめて引っかかり、これが不可能になった。……限度額15万円なのに引っかかるって、学生にしちゃあまりにも使いすぎだろ。

そういう場合は2つ目。現に今は親から2万円を借りている。これは「活動資金が必要だから」ではない、「クレカの引き落としに間に合わせるため」だ。よほど限界なのであるよ私は。だからこそ、今は現金の手持ちが3,000円くらいしかなくて大ピンチ。アホ。


そうなると、続いて3つ目の措置を取らざるを得なくなる。支出を減らすことだ。新型コロナウイルス騒動に乗じて、私は3月の旅行をキャンセルしたが、これには「遠出自粛の勧告が出たから」以外に割と「稼ぎが少なくて金が足りなくなったから」「さすがに親から借金している状態で大規模な旅行は憚られるから」って理由があったりする。

私のモットーは「支出を減らすのではなく収入を増やす」であったが、こうなっては「支出を減らす」のもやむなし。そもそも収入も103万円は超えられないし(実は2020年は3/12時点で30万程度の収入が確定していてピンチ)。よく考えなくても、お金は大事だよ。

 

 

自分と他者の違い


しかしながら、周囲(とりわけ東大生)を見渡しても「金がないから参加を見送る」という人はあまり観測しない気がする。少なくとも、私くらい限界な状況にいる人は見かけない。遊びの予定が立てば、皆じゃんじゃん金を使う。ダメ人間の私は、たまに彼ら彼女らを妬む。

私だけ限界なの、これはなぜか。


答えは明らかさ。

「私は実家暮らしのため自由に使える資金が少ない」「私はあまりに多くのことに手を出しすぎている」「私はなぜか親に金をせがまない」この3点だ。

まず1点目。よく「実家生なのに金に困るって何事???」と聞かれることがあるが、むしろ実家生の方が意外と金に困るんじゃないかって私は思う。一人暮らしだと「仕送り」として家賃光熱費・3食食費・交通費・その他必要な資金などが送られてくることが多いと思うが(当然そうでない人もいるのは承知している)、対して小遣いのない実家生は「昼食の食費」「定期代以外の交通費」「その他必要な資金」は基本自腹になる。私の場合は違うが、「定期代」が自腹の人もいる。また、家に帰ればある夕食を外で友人と食べると、それは完全に自腹だ。旅行中の朝食・夕食も自腹の特別会計だ。要は、そもそも「自由に使える資金」が少ないがゆえに、「食費を減らして交際費に当てるぞ!!!!!」みたいなことができないのである。

2点目。私は旅する以外に、多くの所属団体の活動のために金を払っている。飲み会?結構ある。演奏会?オンステ費は軽く5桁。新歓費?合計するとやばい金額。あと厄介なのが「資格・検定試験」で、こないだ受けたFP2級なんて8,000円奪ってきやがった(まあ受かったので良かったけど)。そりゃ、遊びに軽々と参加できなくなるわ。

3点目。私は教科書代と一部の検定試験受験料を除き、月1万円を以外を親からもらうつもりがない。それどころか、「4月以降は月5,000円でいい」「携帯の料金も自分で払う」とかほざきやがった。いや学生のうちは親にすがれや。


私の場合は「バイトが多い」「遊びを断る」の裏にこういう事情があること、ご了承いただきたい。また、私も自分が特殊だと自覚した上で、周囲(特に東大生)を妬むことはやめたい。 

 

 

それでもまあ、東大生の金銭感覚は変だ


最初に言ったが、私の金銭感覚は明らかにおかしい。なんせ1年で100万以上使うんだから(注:定期代含む)。

でも、周囲の東大生の金銭感覚も、やっぱりおかしいことが多いと思う。私が特殊な事例だということを考慮しても。まあ、もちろんそうじゃない東大生も多くいることはわかっている。主語がデカすぎたか。 


インスタを見ていると、海外旅行の写真が目立つ。それも安価でいける東・東南アジアだけでなく、安くなったとはいえ結構かかるヨーロッパも。その資金はどこから。

Twitterに目をうつしても、春休みの間ほぼずっと国内を旅している人がいる。国内だとしても8,000円/日はかかるはず、それが何日続いているんだろう。その資金はどこから。

「金がないから合宿行かない」という例をほとんど聞いたことがない。「金がないから飲みに行かない」もあまり聞かない。「金がないから旅行を断念した」も聞かない(まあこれはあらかじめ資金を用意してるからだろうが)。5桁の金をポンと出す。すべてをこなすだけの資金はどこから。

そもそも、私ほど熱心(?)に労働している人も東大生ではほとんど見ない。それじゃ尚更、普段の資金はどこから。 


私は、他人の金の使い方にケチをつけることは絶対にしたくない。てかそれがダメだということも知っている。考えは人によって様々、それでいい。てか大学生の場合、親の脛をかじったり奨学金の力を借りたりするのが最適解なのは明らかだ。

 
ただ純粋な疑問なのだ、その資金はどこから。


金銭感覚は、私も周囲(の人の一部)も変だと思う。

 

 

まあ何があっても今のスタイルを通すけどね

 

何を言われようが、私は私のスタイルを崩すつもりはない。

旅費とか交際費は自分で稼ぎ、足りなくなったら前述の3つの仕方で対処する。これを許してくれる親に感謝しながら。


これからも私は、自分のできる範囲で、あらゆるところを回って金を落としていきたいものだ。

[憂9]「いい人」であること

「いい人」で何が悪い?

 

 

 

手前味噌っぽいが、私は人から「いい人」と呼ばれることが多くある。それは自分でも認める。

この「いい人」というのは、まじめに授業を受け、人の要望を基本的に聞き入れ、仕事を回収し、滅多に怒らず人を対等に扱い、人を嫌ったり存在を否定したりすることなく、それ故に誰かからひどく嫌われることもなく、法を遵守しズルをせず、平和志向で、自分にも他人にも素直である。…自分で書いていて恥ずかしくなったが、こんなところだろうか。

 

 

こう考えてみると、「いい人」というのはある意味、「他人にとって操りやすい人」「パシリとかしやすい人」とも捉えられる。

たしかに私は優柔不断で周りに流されやすく、断ることが少ないため多方面で仕事を引き受けキャパり、「嫌われる恐怖」から人に怒ったり意見を明確に主張したりするのが苦手で、他人にとっちゃ操りやすい人間だ。人の尻に敷かれるのも目に見える。

 

 

それに「いい人」は損をすることがある。

例えば東大法学部には「シケタイ制度」があり、講義に出ていない不真面目(?)な人でも書き起こしによって勉強できる。「いい人」は授業に出ている分、ある意味「不真面目な学生のために尽力せねばならない」というディスアドバンテージを背負いうる。

人ってのは、特定層に激しく嫌われる存在ほど、別の特定層に激しく好かれやすい。つまり「いい人」は険悪な人間関係を築けないため、特定層に激しく好かれることも少なく、ゆえにとても親しい友人はできづらい。

断れないため、どんどん仕事を引き受けてしまう。そして自分の生活が圧迫される。キャパって精神的余裕がなくなり、病みそうにもなる。

法を遵守するから未成年飲酒しないが、そうすると飲み会や打ち上げで周りに合わせるのが難しい。というか、酒をメインとする飲み会が楽しみづらい。そのくせして、酒を飲んでいる人と同額を払わなきゃいけない。

詐欺の対象となりやすい。素直すぎて人をつい信頼してしまい、騙されることも少なくない。

 

 

だが、私はそれでも「いい人」であり続ける。

出なくてもいい講義にまじめに出続けるのは、後々自分のためになる。例えそれが単位にならなくても、自身の教養として間違いなく帰ってくる。講義の書き起こしを読むより講義自体を聞いた方が、理解は深まる。真面目は裏切らない。

役職や仕事を割り振ってくれるのは、それだけ自分が必要とされていること、信頼されていることの裏返し。承認欲求の強い自分としては、それにはなるべく答えたく感じる。

親しい人はできづらいけど、私はそれより誰かから激しく嫌われることの方が嫌だ。関わる人間すべてと良好な関係を維持したい。だって、将来その人とどこかでまた関わる機会もあるかもだし。

未成年飲酒しなくて損をするけど、「未成年飲酒は絶対しない」という固いモットーとプライドがある。成人した後、「未成年飲酒っていう違法行為をしなかった」と堂々と言うことができる。その場の損得より、長期的に見た「自分の生き様の正しさ」「あとで振り返った時に自信を持てる生き方」を重視したい。

詐欺だけは、まあどうにかしなきゃいけないな。人を疑うことを意識せねば。

 

 

人に操られ、損をすることも多い「いい人」。でも、それでいい。なんならまだ、真の「いい人」になるには足りない部分だって多くある。さらなる「いい人」を目指したっていい。

あえて敵を作ったり、ズルをしたり、素直じゃなかったりする必要はない。ありのまま、自分がそうありたい形の「いい人」で。

これからも私は、「いい人」であり続けたい。

 

 

 

「夏休みに毎日1記事ずつ書く」という目標で始めたこのブログ、ここでその役割も終了だ。少しずれることも多かったとはいえ、なんとか1日1記事相当のペースで書くことができた。

私が生きていて深く考えたこと、私の旅の記録、そして夏休みの過ごし方と解説(?)をつらつらと述べてきた。全部で62記事。ある時は本当に深く考え1記事に4時間くらい、ある時は本当に適当に1記事30分くらい。そんな感じで、あてもなく文章を書き続けてきた。あまり脈絡のない、稚拙な文章だった。

 

 

「夏休みがこのままでは有意義に過ごせないかもしれない」、そんなことを考えてブログを書こうと思った。実際はそんなことはなかった。今年の夏休みはとても有意義で、楽しかった。私は後悔していない。唯一反省点としては、物事の優先順位を間違えた(ブログを仕事より優先した)ことくらいだろうか……。

そして、こんな形で文章を書いてよかった。間違いなく自分の思考の整理がついたし、後々自分自身を振り返る良い資料になったと思う。

そんな文章、意外と読まれているようで嬉しい。私の周りの友人たちも結構読んでいるらしく、「この文章好き」と言ってくれる人もいる。嬉しい。こんな稚拙な文章をこれまで読んでくれたことに、そして私に考えをぶつけたりもしてくれたことに、ここで感謝する。

 

 

夏休みは終わった。2Aセメスター、後期課程の授業が始まる。私はさらに前進する。

[雑10]これから行きたいところ

私の旅は、終わることがない。

 

 

 

これまでの[旅]にも述べてきたように、私はこれまで日本の多くのところを旅してきた。ついに、日本で行ったことのない都道府県は沖縄県のみとなった。

夏休みだけでも相当な数のところに行った。通過含めると、34都道府県に行ったことになる。旅行編に述べた以外でも、川越の祭りを見たり、足利や日光に少しだけ行ったり、そして東京都内を自転車や地下鉄で巡っていたりした。

ブログで[旅]を書くには十分なくらいには、日本中を回ったと思う。

 

 

だが、それでも足りていない。

日本の中に限っても、まずは沖縄に行ったことがない。それ以外でも佐賀県福井県などは接地のみだけだから観光したことがないし、北海道も襟裳岬とか根室とかは行ったことがない。本土4島と、瀬戸内海の高速の通っている島以外の離島にも、行ったことがない。行ってみたい。

あと、現地に密着した形での旅行をできていない。長期間滞在する旅もしてみたい。地域ベンチャー留学とかでも行ってみたい。

 

 

国外に目を広げてみる。

私は実は、旅が好きでありながら日本を出たことがない。パスポートは持っているのに。

だからこそ、日本を出たいんだ。来年春に沖縄に行ったら日本の都道府県を制覇できるから、そのあとは海外だ。今は、安く済む台湾と韓国に行きたい。中国本土や香港にも、情勢が落ち着いたら行ってみたい。金があったら、ヨーロッパやアメリカにも行きたい。オセアニアにも行ってみたいし、ロシアにも行ってみたい。なんならアフリカも。

 

 

学生の間にできる旅は、時間の面でも金の面でも限りがある。でも、時間のなくなる社会人よりは自由だ。

学生のうちにまだ見ぬところへ、まだしたことのない形の旅を、してみたい。

 

 

とりあえず来年の春は、沖縄と台湾に行く予定だ。地域密着型の旅もするつもりだ。

これからも旅は続く。

[雑9]そのバイタリティはどこから?

一度きりの「大学2年生」を、大切に。

 

 

 

ついに夏休みも最後の週となってしまったようだ。

まずは週の振り返り。

9/16(月・祝)、Uber Eatsを4時間半ほど頑張り、時給換算2,400円を超えるという事態に。そのあと、サークルの練習に顔を出す。帰ったら翌日の準備。

9/17(火)、九州旅行の開始。成田から鹿児島に飛び、出水では隠れた名スポットを発掘して興奮。旅行編を見て。

9/18(水)、枕崎に行ってとんぼ返りし、鹿児島観光をするとそこから日豊本線。宮崎・延岡・大分・別府を少し訪ねる。旅行編を見て。

9/19(木)、中津経由で福岡に行き、九大に行った幼稚園以来の友人と飯。楽しかった。そのあと遠回りして小倉に向かい、長時間夜行バスの試練が開始。旅行編見て。

9/20(金)、10:30頃にようやくバスタ新宿に到着。そして一旦帰り、家の草刈りなどを済ませてから、新宿に戻って委員会の人間と食べ飲み放題。

9/21(土)、午前中は色々な作業を処理。午後は委員会の人との遊びに合流しようとしたが失敗し、結局飯のみに。格安でクオリティもいい食べ飲み放題。

9/22(日)、委員会の人とディズニーシー。金は結構飛んだが、とても楽しかった。一歩でその間にも仕事が舞い降りてくるのが大変だった。

こんな感じだ。

 

 

ブログをしっかり読んでいらっしゃる稀有な方ならお分かりと思うが、こんな感じで結局私の夏休みに「何もしない」なんて日はなかった。毎日何かしらアクションを起こしている。

具体的に振り返ってみよう。7/25から9/22の間で、合宿3回、宿泊型プログラム1回、富士山の泊まり山行1回、友人との泊まり旅行1回、ひとり旅2回合計10日間、外泊トータルで22泊、それに日帰りの遠出3日。コンビニバイト2日合計11時間、ティッシュ配り6日合計12時間19,500円、配達16日合計88時間130,569円。日程調整してのサシ飯6回、親しい仲間での飯5回。家を出なかった日数、0日。

私は、半ば毎日動いていないと気が済まなかったのだ。

 

 

なんでそんなに頑張るんだろう。

それは「少ない学生時代を無駄にしたくない」という思いゆえだ。「大学生活は人生の夏休み」と言われることもあるように、大学生の間は様々なことにチャレンジできる。逆に社会人になっちゃうと時間が足りず、老後でも体力が足りないがために、大学生の間にしかできない経験だって様々だ。

これは大学の資源を用いた勉強はもちろん、サークル活動やアルバイト、友人との深い交流まで含む。大学の友人なんか社会に出たら疎遠になっちゃうかもしれないし、なかなか会う機会も確保できないだろうから、遊ぶとしたら今だ。

 

 

たしかに休むのだって、大学生の特権だと言える。しかし私は、それほど休もうとは思わない。休むのならいつでもできるから、今しかできないことを逃したくない、というものだ。

休みがなすぎて疲れることだって多いけど、別にそれでいい。その分、充実を感じられるから。

 

 

だから私は、キャパる生活を続けていく。これから2Aに入っても、「大学生の間しかできないこと」を、求めに。