どこかの元T大生の思考

不定期です。旅行と考えることが好きな元T大生が、たまーに駄文を公開します。旅の記録を語る[旅]、何かに対する見解や主張をぶつける[論]、自分の生き方について思いを巡らせる[憂]、趣味などについて書き散らす[雑]の4つのカテゴリーで。

[憂4]限界芸との付き合い方

非リア芸、アイデンティティにしすぎちゃダメ。

 

 

 

[憂3]の記事で書いたように、私は恋愛ができない。

utok-travelandthinking.hatenablog.com

ゆえに当然のごとく恋人いない歴=年齢である。[憂1]の記事でもちょっと触れていたが、このように自分が「未リア」であることをよく自虐ネタとして用いる。

utok-travelandthinking.hatenablog.com

そして現実、周りからも「拗らせ」とはよく言われるものだ。

また、「旅行に誘う人がいない」など「自信持って友達と言える存在が少ない」というのも自虐のネタとして用いることがある。

しかしこの自虐もとい「限界芸」、いったい何の意味があるのだろうか。

 


私が自虐ネタを用いるのには、まずは少し同情を誘いたいという気持ちがある。要は「頑張ってほしい」「強く生きて」「いつか好きな人見つかるよ」などの言葉を、その人の本心ではないにせよ得たいということである。そうすることで若干の自信というか、そんな感じのものが得られるように感じるのである。まったくおこがましいねえ。

また、単に面白いから、というのもある。例えば非リア芸をしたツイートの方が「いいね」の数は多く感じる。自分には無縁だが「落単芸」なども同様だろう。くだらないねえ。

しかし、一番大きいのは「こうしないとやってけない」という潜在的な考えなのだろう。決して現在の状況が望ましいとは思っていない、変わりたいと思っている、でも変われない。それならいっそそれをネタにして開き直らなきゃ、虚しさでやってけねぇ。ネタにすりゃある程度は、その状況にあることの意味づけができる。いやはや空虚なものだ。

そう、私はこの状況を脱したいのだ。でも、非リア芸や友達いない芸を続けてしまう。

 


私はいわゆる「青春コンプレックス」を抱いている。つまり、絵に描いたような「青春」、「恋人とあんなことやこんなことをする」「休みに友達と海とかでわいわい遊ぶ」などに対して強い憧れを感じているのである。実際、自身がそれに近いことをできた時は非常に嬉しく感じる。

だから、率直に言えば恋人がほしい。気軽に遊べるような友人がほしい。自分の限界芸が示すのとは逆の方向に、変わっていきたい。

 


限界芸は、それをアイデンティティとした時点で負けである。その状況を抜けようとしても、アイデンティティの崩壊から迂闊に抜けられなくなってしまう。

私はそれでも限界芸を続けるが、それが自身の変化を妨げる事態は招かぬよう気をつけねばならない。恋愛みたいなことをする方向へ、友達とわいわい遊ぶ方向へ。それが自分にとって難しいとしても、決して限界芸で開き直って逃亡するだけでなく、真摯に変化を求めて行かねばならない。

私はそうやって限界芸と付き合っていきたい。