どこかの元T大生の思考

不定期です。旅行と考えることが好きな元T大生が、たまーに駄文を公開します。旅の記録を語る[旅]、何かに対する見解や主張をぶつける[論]、自分の生き方について思いを巡らせる[憂]、趣味などについて書き散らす[雑]の4つのカテゴリーで。

[憂18]多すぎる「やりたいこと」と逃れられない悩み

選択とはすなわち、何かを犠牲にすること。その犠牲は取り戻せるかもしれないが、若さそして人生は有限である。

 

 

「やりたいこと」ってなんだ?

 

某活していると、「なぜここを志望したのか」ということが問われることも多い。その中で私は、「自分は何をやりたいのか」を考えざるを得なくなった。

……さて、私は何をやりたいのだろう。その答えを考える時、私の頭の中には様々な選択肢が思い浮かぶ。

……だがそれは、すべて実現できるとは限らない。

 

 

進学選択を経て

 

選択は、ある意味前進である。後戻りできないところに自身を置き、将来のルートをある程度強制的に設定して前進を促す。選択を怖がらず、決断しなければならない。そう自分に言い聞かせ、進学選択に挑む。

私は[憂1]において、こんなことを書いていた。

utok-travelandthinking.hatenablog.com

そして進学選択を経て社会学に進学し、「将来のルートをある程度強制的に設定」した。


社会学に進んだこと、後悔はしていない。

社会学」の名を振りかざせばもともと関心のあった「地域/コミュニティ」「ジェンダー/マイノリティ」の両方を学ぶことができるし、研究テーマはまあ自由に自分のやりたいことを設定できる。理論を学ぶのも面白いし、何より「科学」を通して世界の解像度が上がるのが楽しい。

むしろ、ここを選んで良かったと思っている。

 

ただ、たまに「これでよかったのか」「もしここに行っていたら……」と思ってしまうことはある。

私が進学選択で迷ったのは、工学部の建築系3学科および教養学部であった。都市計画に進んでいれば関心事項のひとつであるまちづくりについて詳しく知れたはず、社会基盤に行けば好きな交通のことをより深く学べたはず、建築も昔から関心のひとつだったから面白かったはず、人文地理は昔から大好きだったし社会学よりもっと「地域」に目を向けられたかも知れない、総社なら(まあ行けたらの話だが)社会科学を網羅してもっと広い視点を持てたかも知れない、他にも……まああげたらキリがない。ちなみに法学部に行かなかったことは一切後悔していないし、完全に正しい判断だったと考えている。

社会学で学べることがどれだけ充実していても、これらの想いが消えることはない。

 

これ、たぶん他の学科に進んでいたとしても同じことを考えていた気がする。今度は「もし社会学に行っていたら……」とか考えていた気がする。もはや、こう考えるのは仕方がないことなのかもしれない。

学科というのは(学部にいる間は)一個しか選べないし、転学科したとしても卒論を書く学科はひとつである。すなわち絶対に「何かひとつを残してそれ以外を捨てる」のである。「他学科履修すればいいじゃないか」などのたもうても、やはり卒論を書くかそうでないかは大きく違う。

だいたい、私の「やりたいこと」というか「学びたいこと」がひとつに定まってさえいれば、こんなこと考えることもなかった。「学びたいこと」が拡散しすぎたが故の悩みであり、原因は欲張りなままでいた私にある。

 

 

課外活動でやりたかったこと

 

まあ現実の私を知っている人なら承知の事項かと思うが、私は複数の課外活動団体を掛け持つ人間である。

やりたくないのに入ったものなど存在しない。すべて「やりたい」から入ったものである。そうしたら最大で同時5個、通算7個の団体に所属することとなった。

 

合唱。これは私が高校時代から興味があったものである。高校の男声合唱が割とガチだった(すなわち忙しそうだった)のと高校では別のことをやることにしたのとで、結局高校時代はやらなかった。だが大学に入って「サークルならまあ部活ほど忙しくないだろう」とのことで、興味に任せて入ったものである。実際やってみたら歌うのは楽しかったし、入ってよかったと思ったものである。……ただ自分の忙しさもあり「続けたい」という思いが少し薄れてしまったので、今はお休み中。

学園祭。高校時代は制作に徹していたが、大学ではもう少し運営に携わりたいと思って高校時代と別の分野で携わってみた。しかもその中でも多様な担当をやってみた。しんどいけど楽しいものである。

山登り。運動不足を反省して、景色に魅せられて、そしてあるアニメに影響されて?、始めた。私自身が忙しいためあまり参加できていないが、楽しいものである。

あとその他にも3つから5つ存在するがここでは割愛しておく。

大学の課外活動をきっかけとして「やりたいこと」を始めることができ、忙しい中でもある程度は取り組むことができ、満足だ。

 

……実は大学で取りこぼしたものがひとつある。それは私の場合は「演劇」であった。

実はこれも高校時代から憧れていた。めちゃくちゃ興味があった(ちなみに役者に興味があった)。大学でも始めてみようか悩んだ。でもまあ忙しいだろうと感じて、上記の3つに負けてやらないことにした。

これを始めなかったことで、私の頭の中に「もし演劇をやっていたら……」という思いが残ることになった。

でも、逆に演劇に手を出していたら間違いなく他のどれかを犠牲にしていた。その際には別のことについて「もしこれをやっていたら……」と思っていたのだろう。

 

ちなみに「ある地域と深く関わる」というのも、やってみたいことのひとつであった。

2年生になり、周囲の友人たちに憧れのようなものを抱いて興味を抱いた。2年生までサークルや免許合宿にかまけて機会を逃し続けてきたので、3年生になった今年こそはと思っていた。しかしコロナにより頓挫した(居住地のせいで拒否られた/プログラム自体が中止になった)。

「2年生の時になんらかのプログラムに参加していれば……」という思いは残ってしまった。

でも、2年生の時に手を出していたら間違いなくサークルの合宿などを犠牲にしていた。その際には別のことについて「もしこれをやっていたら……」と思っていたのだろう。

 

学科とかとは違って課外活動では複数行うことが可能だが、人間にはキャパシティがあるためどれか犠牲にせざるを得ない。

「やりたいこと」が多い限り、「もしこれをやっていたら……」という思いは絶対に消えない。

 

 

アルバイトでやりたかったこと

 

私は多くのアルバイトを経験したことがある。単発も含めてしまえば、たぶん15くらいの業種を経験したことがある。

これは「やりたくないのにお金のために渋々やっていたもの」も存在する。

 

そもそも私は労働なんてしたくなかった。だが自分で自由に使える金(すなわち趣味の旅行やサークルに使うための金)を確保するためには労働せざるを得ず、その中で「せっかく労働するなら少しでもやりたいと思うものをやりたい」という思いがあった。

東大を目指す中高生や、東大の新入生に対してアドバイスを行う仕事。自分の経験を生かしてドヤ顔をし……いや、役に立つアドバイスをするのが絶対に楽しいと思って始めた。実際に楽しい。

レジャー施設。前回の記事でも書いたように私は「非日常」が大好きなので、それを支える仕事には憧れがあり、一員になってみたいという思いがあった。実際に楽しかった。

他の「やりたいこと」を実現するためには金が必要なのでアルバイトせざるを得ないが、そのアルバイトすら「やりたいこと」にできれば楽なものである。

 

だが、「やりたいこと」だけで金が得られるとは限らない。時給が高いことから儲かると考えて始めた家庭教師、「せっかくなら社会勉強としてコンビニでもやってみるかー」という感じで始めたコンビニバイト、本当に金欠の時にはやらざるを得ない派遣の軽作業、これらは続けるうちに「やりたくないこと」になる。

当然ながら、「やりたいこと」だけで生きるってのは難しいってことだ。

 

 

「将来の夢」

 

最初にちょっとだけ触れた某活の話に戻ろう。

 

就職の準備。まあこれから自分がどのような職業に就くかを決める機会ということで、いわば自分の夢の再発見となる。

 

私の場合、自分の夢すなわち「やりたいこと」が何か探っていった結果、「自分の力を生かして社会に奉仕すること」もしくは「自分がやって楽しいと思える仕事をやること」の2つが考えられた。前者はすなわち公務員ということになるが、ここで後者を突き詰めてみると「鉄道系」「旅行業」という答えが出てきた。

……これは考えてみると、小学生や中学生の頃の原体験に基づく当時からの夢であった。当時から憧れがあった。そして今なお、それをやったら絶対仕事が楽しいだろうな、やりたいな、という思いがある。こないだ企業説明会に参加した際は、再び惚れてしまった。

 

……さて、私はなぜ「自分の力を生かして社会に奉仕すること」すなわち公務員をやりたいと思ったのだろうか。「自分がやって楽しいと思える仕事をやること」と比べてインセンティブが小さく、今になってなぜ目指したのか分からなくなってきた。選んだからには当然理由はあったのだろうが、鉄道業や旅行業より強い理由づけが見当たらない。

ここで公務員を選んでしまえば、自分の夢を確実にひとつ捨てることになる。……そう思うと、公務員を目指すモチベーションも低下してしまった。

 

でもたとえ「自分がやって楽しいと思える仕事をやること」を選ぶとしても、どっちかを捨てることになる。

そして将来、「もしこっちをやっていたら……」という思いを抱くことは、どうしても避けられない気がする。

「将来の夢」すなわち「やりたいこと」が複数ある限り、これは宿命だ。

 

 

若さと人生は有限

 

「そんなにやりたいことがあるならすべてやればいいじゃん」「時間がない? そんなの人生ゆっくり生きればいいだけさ」

こう言われたって、若さは有限。そのうち気力がなくなり、「もしこれをやっていたら……」という思いを一生抱いて生きていくことになるだろう。それに残念なことに、「やりたいこと」にかまけてゆっくり生きていると、他の「やりたいこと」を真に実現するためのキャリア形成が難しくなってしまう。

そして人生は有限。「老後にこれをやろう」と言ったところで、老後がどれくらい残されているかなんてわからない。あと、やりたいことをなんでもやろうとすると、[憂15]で述べたような器用貧乏になる。

utok-travelandthinking.hatenablog.com

 

 

「やりたいこと」が多い状態は決して悪いことはなく、むしろ人生を楽しませてくれ豊かにしてくれ生きる気力を与えてくれる。これは私のバイタリティにもつながっている。

しかし「やりたいこと」がありすぎる限り、どうあがこうと「もしこれをやっていたら……」と思うこと、それに苦しまされることは避けられない気がする。

……ところでフィクションって、「やりたいこと」を擬似体験できる、実は結構優れたツールなのかもしれない。

 

まあ、これからずっと「もしこれをやっていたら……」という思いとともに生きていくしかないのだな。別に私が悪いというわけじゃないんだから。

[雑15]「非日常」に、魅せられて

非日常を支えたいし、非日常を味わいたい。

 

 

歴史の終わりに触れて〜最後まで変わらぬ「非日常」

 

2020年8月31日、私はとしまえんにいた。

94年の歴史に幕を閉じる、まさにその日である。

 

私は以前としまえんで目一杯遊んだ記憶もないし、強い愛着を抱いているわけでもない。ただ、訳あって最終日に行くこととなったのだ。

営業最終日であっても、としまえんは普通に遊園地であり、普通にレジャープールであった。入園制限期間の平日だったからなのかもしれないが、めちゃくちゃ混んでいるという訳でもなかった。そこにはただ、遊園地という空間を楽しんでいる客と、その空間を楽しいものにするため尽力しているスタッフがいた。

とはいえ、「明日からはもう永遠に見られない」と考えた瞬間に、見える景色は変わった。もう遊べなくなるのか。そしたらこのアトラクションはどうなるんだろう。スタッフさん達は何を考えて最終日を過ごしているのだろう。明日からは、どこに勤めるのだろう。時間の都合上、私は完全に閉園する瞬間に立ち会うことはできなかったが、「今日で終わり」というのはしっかりと感じていた。

 

遊園地、それは「非日常」の空間である。決して安くない金を払って、日常生活では味わえないスリリングやメルヘンを感じ、家族や友達や恋人と思い出に残る時間を過ごす。

そして非日常の空間は、それを支える人がいるがゆえに「非日常」として存在し得る。遊園地のスタッフは、客の「非日常」を支えるべく勤務している。それこそスタッフにとっては「日常」でありマンネリ化するかもしれないのだが、それでもずっと「非日常」の実現のために尽力している。もう何も残らない本当に最後の日まで、変わらずに。

 

その「非日常」は、明日からはもう見られない。最終日というのは「非日常の中の非日常」である。客としては、これまで愛着がなかったとしても、なにか哀愁を感じてしまうものである。

でもその中で、いわばいつもと変わらぬ(というかいつもから素晴らしい)サービスによって「非日常」を提供してくれるスタッフがいる。そこで体験できる「非日常」の質は、最後の日まで変わることがない。

ただ、スタッフの心の中も穏やかでないかもしれない。親しんできた職場、ずっとそばにあったアトラクション、そして客の笑顔、そういうものと別れることになる。遊園地勤務が非日常であったとしてももはや日常になっていたとしても、最終日はやはり特別な「非日常」となってしまうのだろう。

 

「非日常」の終わりというのは、美しい。

 

 

歴史の終わりに触れて〜「日常」が「非日常」になる瞬間

 

時は遡って、2020年3月31日。私は渋谷駅玉川改札の前、少し開いた空間にいた。

東急百貨店東横店が85年の歴史に幕を閉じる、まさにその日である。

 

私は以前東横百貨店を頻繁に使ったわけではないし、強い愛着を抱いているわけでもない。ただ、いざ無くなってしまうと考えると、どうしても名残惜しくて使いたくなってしまったのである。当時不足していた、ズボンのベルトと手帳を買うことにした。

某キャンパスに通学していた私にとって、通学時に嫌でも見ることとなる東横百貨店は「日常」でしかなかった。あまりにも「日常」であるがゆえに、強いて「使おう」と思ったこともなく、「あーそういやあったな、今日はちょっと寄ってみるか」くらいにしか思っていなかった。

しかし、閉店が近づくにつれてそれは「非日常」の場と化してきた。「日常」「日常」でなくなる日が、近づいていた。そして営業最終日には売りつくしのセールが実施され、閉店を惜しむ客に囲まれた東横百貨店はすっかり「非日常」となっていた。某感染症のせいで大きなセレモニーなどは実施されなかったが、最後の客を送り出した後の閉店の際には、店長(確か)が言葉を述べた後に全従業員が並んで頭を下げながら、シャッターが下がっていった。あの光景は、おそらく一生忘れない。

 

通勤客であふれる乗換通路の横に佇む百貨店、これは多くの人にとって「日常」の存在だったかもしれない。

普段生活を送っている分には、特に強く意識することもないかもしれない。当たり前の存在として捉えているかもしれない。私自身当然そうだった。

 

でもそれがいざ終わってしまうとなると、不意に「日常」の中に隠れていたさまざまな思い出が蘇ってくるものである。

東横百貨店の閉店時、私の横に立っていた若い女性が涙を流された。それを気遣った隣の女性(私自身はチキンなので話しかけられるわけもなかった)が話しかけられたところ、どうやら少し前まで東横百貨店で勤務なさっていた方だったと。その若い女性は、勤務当時の様子を思い出されていた。そして声をかけた女性の方も、子ども時代の思い出を少し語られていた。

「日常」が終わりを告げ「非日常」になる瞬間は、改めてその「日常」の中にあった新鮮な感情や思い出を呼び起こす。

 

「日常」の終わりというのも、これまた美しい。

 

 

「非日常」を求めて旅に出る

 

私は旅が好きだ。

 

旅は、非日常そのものだ。

家という日常生活を過ごす場所を離れ、必要な限られた荷物だけを持って出発し、普段の生活では得られない体験や見られない景色を楽しみ、平常時とは異なる寝床に眠る。

まさに非日常の代表的存在、といっても過言ではないだろう。

 

なぜ、私は旅が好きなのだろう。

「鉄道に乗りたい」「美しい景色を見て心を浄化されたい」など理由は様々に考えられるが、やはりその中でも「非日常を味わいたい」というのが大きい気がする。

 

旅そのものが、非日常である。一人旅だろうが少人数での旅だろうが大人数での旅だろうが、これは変わらないだろう。

一人旅の場合、「ひとりで長い間行動する」これ自体が非日常でありワクワクする。少人数の旅の場合、「親しい人間と語らいながら長時間行動する」これは非日常。大人数の旅だって、通常行かないところにみんなと行くってだけで非日常だ。

単なる旅でなく「それまで知り合いでなかった人と関わる」「宿泊型プログラム」だと、これまた違った「非日常」性がある。新たな人との出会いと交流、これだって非日常だ。一緒に行く人でも、行った先で出会う人でも。

 

旅において、私は特に「美しい景色」を好む。

車窓から見える棚田、昼の山頂から眼下に望める風光明媚な自然、夜の山頂から望める美しい夜景、海岸や崖に見られる奇勝、そして西側に開く海岸から眺める日没。自然だけじゃない、賑わいを思わせる地方都市の商店街、歴史的建造物と街並みの残る重伝建、整備された山紫水明の庭園、小さな港町の静かな小路。

これは、「非日常」だからこそ良いのだろう。当たり前じゃないからこそ、その良さを求めて旅をする。当たり前じゃないからこそ、それに触れて感動する。

 

逆にオフィス街だとか閑静な住宅街だとか単なる里山だとかチェーンストアだとか、そういうのは私にとっては「日常」の一部だから、旅の過程で見ても感動はしない。また、毎日長距離通学するみたいに旅が日常の一部となってしまうと、感動は薄れる。

旅は、それが「日常」と遊離しているからこそ良いのである。

 

 

「非日常」と「日常」の境目

 

……いや、そうとも限らないかもしれない。

 

実際のところ、長期間旅をしてから「日常」の景色に戻ってきた瞬間、これも何とも言えない気持ちを抱くものである。非日常が終わってしまうという寂寥感、非日常を振り返って感じる楽しさと懐かしさ、逆に不安定な非日常から安定した日常に戻ってきたという一種の安心感。

また、見知らぬ地にて見知った景色を見たときなども、懐かしさや安心感を抱いてしまうものである。だってさ、見知らぬ土地なのにマックとかファミマとか見つけたらなんか安心しない……?

旅が日常の一部となる、これは感動が薄れるのは確かであるが、その中で何らかの非日常的アクションが生まれると突然面白くなる。日常と化してしまったルートの中で、いつも寄らないところにふと寄ってみて、そこで突如非日常を感じる。

そういう「非日常」と「日常」の境目のあの微妙な感覚も、また面白いものである。

 

そもそも、旅は必ずしも日常と遊離していない。例えば旅先から関東の友人と連絡を取ったり通話したりすることはよくあるし、旅先でレポートや作業をすることもよくある。

さまざまなことに追われている状況では、逆にこうやって「非日常の中にありながら日常に戻れる状況」ってのが面白いのかもしれない。というか、自分の「非日常」を日常にある誰かに伝えて反応をもらうってことが、面白いものである。……まあレポートや作業については、それと遊離した状態で旅した方が楽しいってのは確実だろうけどね。

 

でも、「非日常」があるからこそ面白いというのは確かであろう。すべてが「日常」になってしまうと、その面白さは無くなってしまう。

必ずしも遊離していないとしても、「日常」とは異なる「非日常」が確と存在する、それが面白さを生んでくれる。

そしてこれは、旅に限ったことではない。遊園地だってイベントだって冠婚祭だって店の閉店時だって、たとえ日常生活の一部と絡んでいたとしても、結局「非日常」が面白さの源泉なのだろう。

 

 

「非日常」を支えるのが、かっこよくて面白くて

 

旅は、自分一人でできるものではない。……これは「一人旅はできない」って言っているわけじゃなくて、「誰かの働きなしには一人旅さえできない」ということである。

公共交通機関を使った旅の場合、交通機関を運転したり切符を発券したりしてくださる方々がいてこそ、その交通機関を使って旅ができる。旅先でご飯を食べる場合、作って売ってくださる方々がいてこそ、美味しい名産を食べることができる。どこかに泊まる場合、フロントで応対したり床を整えたり清掃したりしてくださる方々がいてこそ、ちゃんと寝ることができる。

その「非日常」は、誰かの尽力によって成り立っている。

 

それって、すごくかっこいい。誰かの特別な体験を、自分が支えることで実現させる。たとえ裏方でも、尽力者として直接感謝されるわけではなくとも、誰かの「非日常」を支えるってだけでかっこいい。

そして、すごく面白い。自分が誰かの「非日常」の一部になり、支えるはずの自分までもがそれを楽しむ。

もちろん、旅に限ったことではない。

 

いろいろなアルバイトを経験したことのある私だが、ずっと「非日常を支える仕事」をしてみたいと思っていた。イベントの案内スタッフや結婚式場のスタッフに応募したこともあったが、なかなか都合が合わなかった。そこでこの夏休みは、(十分な感染防止策を取った上で)とあるレジャープール(としまえんではない)の案内スタッフをやってみた。

やっぱり、かっこいいものである。お客さまの夏の楽しい思い出は我々が支えているのだ、我々が安全な形で「非日常」の形成に寄与しているんだ、という感じ。

そして働くこっちも楽しいものだ。はしゃぐ子どもの笑顔を見ると、こちらも笑顔になる。働く側も「非日常」を提供するにとどまらず、自ら一種の「非日常」を楽しんでいるようなものだ。

 

 

「非日常」を支えたくて

 

「非日常」が、大好きだ。

 

私は高校時代より、学園祭・文化祭の実行委員的なことをやっている。その原点はやっぱり「非日常を支えるのがかっこよくて面白い」だろう。

 

これまでで3つの祭りに2年ずつ関与しているわけだが、それぞれで関わった部分は違った。

高校時代は、門の制作に関わっていた。「当日前の制作」の側面で関わったことになる。原点は中学3年の時、高校の文化祭に行って門の凄さに感動し「これ作るのに関わってみたいなあ」と思ったことだ。来る人から注目される特別な存在としての門、それを作る一部になれるのは自分の誇りにもなると思った。ほかにやることもあったがゆえ深く関与することはできなかったが、確かに楽しかった。また当日はグッズ販売列の整理やスリッパ配布・回収など、主に裏方としてヘルプに入り、それまた面白さを感じていた。

大学の学園祭のうち1つでは、ごみ回収・レンタル品管理・車両入構管理などを担当した。「当日の裏方」の側面で関わったことになる。1年生の時に希望していた担当に入れなくて半ば渋々やったものであったが、そこで裏方の面白さを感じ、2年生の時も続けることになった。来場者側からはあまり注目されず汚れ仕事みたいなものもあり、参加企画の人に貶されることすらあったが、「でも私のおかげで充実した学園祭ができてるんだよ???」などと思えば楽しいものである。

もう一方では、キャンパスツアーを担当し、ガイドとして当日に来場者の前で話すこともあった。「当日の表方」の側面で関わったことになる。裏方も面白かったがやはり来場者と直に触れられるのも面白そうと感じ、希望したものだ。やっぱり来場者の楽しそうな顔や感謝の声を直に聞くことができるのは、非常に楽しいものである。それが自分が企画立案制作したものであるから、なおさら。

全部違った形であるが、すべて「非日常を支えている」という点で面白いものだった。

 

今年は、学園祭がオンラインになった。

私は普通の対面のキャンパスツアーを実施するつもりで関わり統括をしていたのだが、当然オンラインへの転換を迫られた。実地でなくなることで「非日常」感が薄れてしまうこと、そこでキャンパスツアーの意義が低下してしまうことは、懸念材料だった。だが一方で、もともと非日常たる学園祭が例のないオンライン開催すなわち「非日常」になるというのには、不謹慎ながら少しワクワク感もあった。

当日は、確かに非日常だった。そして私たちは、確かに非日常を支えていた。キャンパスツアーには多くの方々が参加してくださり、喜びの感想もいただけた。今回は私がガイドとして話すことはなかったが、すべてのキャンパスツアーを統括して支えたという自負と、それゆえの面白さおよび一種の満足を感じていた。

 

たとえオンラインになってしまっても、「非日常」を支えるのはかっこいいし面白い。そして、それを支えられてよかった。

ただそれでも、やはり対面の面白さには敵わないかもしれない。「非日常」の空間が現実に存在してこそ、その「非日常」性とそれゆえの面白さは強く存在するのだろう。また、オンライン化の過程で多くの「非日常」を提供するコンテンツが断念されてしまうのも、見ていて苦しかったものである。

オンラインの「非日常」を支えるのも面白いけど、願わくばもう一度、対面での「非日常」を支える役割を。

 

 

また「日常」が始まる

 

さて、明日からAセメスター(秋学期)が始まる。夏休みという「非日常」が終わり、授業という「日常」が戻ってくる。

ほとんどがオンライン授業という、今年4月まででは「非日常」でしかなかった事態だが、今や「日常」となってしまっている。

明日からは、そんな「日常」を過ごす。

 

だが、「日常」の中にも「非日常」は潜んでいる。

というか、「日常」があるからこそ「非日常」は存在するのだろう。

 

私はどうしても、「非日常」が大好きだ。

「日常」の中に潜む「非日常」を楽しみつつ、また生きていきたいものである。

[論24]所詮バカなんだよ人間は

みんな違って、みんなバカ。こんなこと言ってる私だって大バカ。

 

 

社会の大多数は……

 

東京大学という空間に暮らしていると、忘れてしまいがちな事実がある。

それは「世の中の大多数の人間は、それほど深く考えずに生きている」ということだ。

 

東大生の多く(クソデカ主語)は、自分のこれからの身の振り方を思い悩み、政治に関して自分なりに考えた上で意見を持ち、かつさまざまな意見に寛容であると私は感じる。そしてそれに刺激されて別の東大生も、深い問題について考えるようになるのかもしれない。

一方で東大の外などでは、その時の楽しさのみを考えて真面目な話を「そんな難しいこと考えてもつまんねえぞ!」と突っぱね、「〇〇が言っているから」「個人的に××が嫌いだから」といった薄っぺらいことで政治的意見を決め、自分中心に世界が回っていると勘違いして自分に合わない意見を「お前が何を言おうとお前が間違ってるんだよバーカバーカ」とすべて突っぱねる、そんな人も少なくないのではないか。言ってしまえば「バカ」である。……もちろん東大の中にだって、こういう人はいると思う(ここ大事)。

こういうバカは、いかなる正論も言ったところで聞く耳を持たない。「考えること」を「つまらないこと」「めんどくさいこと」と捉えているので、深く考えることなんてしない。

 

そして、そういう人が「世論」を形作り、また選挙を通して国政に影響を与える。

仕方ない、今の日本の民主主義社会では普通選挙・平等選挙が原則で、よく考えている人であれ脳死で投票している人であれ同じ価値の一票を持つんだから。

だから、非常に残念なことに、バカを無視することはできない。

 

 

「社会を変える」とかいう無謀

 

「社会を変えたい」という言葉、たまに見かけるものである。

だが、私の持論は「そんな簡単に社会を変えられたら苦労しねえよ」「社会なんざ一個人が変えられるようなもんじゃねえよ」というものである。少なくとも、1年とかそういうレベルで変わるものじゃない。てかCOVID-19が流行して社会が大きく変わりかねない今ですら、「出社こそ正義‼️」「ハンコなきゃダメ‼️」みたいな古い考えしか持たない執行部は残っているんだろうし。

この「社会」ってのがどういうレベルの概念なのかによるが、少なくとも「地域社会」「高齢者重視の社会」「日本社会」みたいな大きいスケールの社会だと、変えるのは困難ほかならない。

 

いやだってさ、どんな正論をかざしてもさ、聞く耳を持たない人間にはかけらも響かないじゃん。どうせ「いや俺は今のままでいいし面倒だしよくね?」「俺に口ごたえするなんていい度胸だな、消えろ」「お前にそんなこと言う権利あるん?笑」って言われて終わるんじゃん。馬の耳に念仏。

社会にはバカが一定数あるんだよ。そういう奴を変えるってのは99%不可能だから、社会ってのはそう簡単に変わらない。

「社会を変える」みたいな文言を見るたびに、恥ずかしくさえなる。

 

……ただ、この難しい「社会を変える」という行為であるが、3つのやり方でならできるかもしれないと私は思う。

1つは「国レベルの最高指導者になる」。独裁が親裁かを問わず、特定社会に普遍的な制度を権力をもって変更してしまえば、その社会は変わらざるをえない。例えば極端な話、「COVID-19罹患したら死刑ね❤️この政策に逆らっても死刑ね❤️」みたいにしたら、社会は感染を極力避ける方向に変わるはずである。

続いて「有能な状態で10年単位くらいの長期間にわたってしつこくずっと努力する」。一般論としてしつこい人はめんどくさいから、しつこく続けると相手方も妥協するかもしれない。ただ妥協を引き出すには、自分の側もそれなりに有能で、それなりの真っ当な意見を提示する必要がある。

 

 

人間というバカに適合的な「マスメディア」という害悪

 

もう1つは「マスメディアを牛耳る」である。

 

バカは自分で考えようとしない。その時に何を頼りにするかというと、これまでずっと情報源としてきたマスメディアである。

マスメディアにまつわる問題については面倒がって考えることをせず、マスメディアが垂れ流す情報を「すごい人が言ってるから」みたいなノリで鵜呑みにする。そんで誰かがそのマスメディアを批判しても、その人はマスメディアと比べて劣ると考えて(もしくはそもそも自分の意見をアップデートしようと一切思わなくて)無視する。

だから、マスメディアは行政以外でバカを動かすことができる、ほぼ唯一の手段なのである(と過激な私は主張する)。

 

私は、マスメディアが大嫌いである。……とはいっても、マスメディアが提供するバラエティやドキュメンタリーやドラマやアニメがすべて嫌いってわけではない。マスメディアの「ワイドショー」「ニュース」が嫌いなのである。

それはやはり「自分にとって都合の良い情報しか流さない」言ってしまえば「偏向報道をする」からである。それを通して、自分の思いのままにバカな視聴者を操作できる。

自粛警察の横行やGo Toキャンペーンに対する的外れな批判の横行も、マスメディアのせいだろう。人というバカは不安や鬱憤が溜まると、ひたすら他人を叩くことで満足を得ようとするものであり、その心理につけ込んで「〇〇は悪」というイメージを植え付けてしまえば、みんながそれを深く考えずにひたすら叩くようになる。それは歪んだ「世論」となり、場合によっては適切な政策までも潰すこととなる(種苗法改正反対の件などは象徴的だろう)。

 

高3の時、現代社会の授業で「賛否が分かれる政策について新聞の社説を参考に自分なりに考察する」といったものがあった。私はそこで「カジノ法案(特定複合観光施設地域の整備の推進に関する法案)の是非」をテーマとした。私は長所および短所を勘案したうえで「賛成」という意見を持った。

……しかしながらいざ新聞の社説を見てみると、ことごとく「反対」ばかり!!!!! 読売・朝日・毎日・産経・日経のほか名だたる地方紙も揃って「反対」で(てか朝日と産経が同じ意見なんだぜ!)、20個くらい当たってみて「賛成」だったのは北國新聞ただ1つだけだった。「反対」の根拠として「依存症の人が増えて問題になる」「人の不幸で儲けるなんて非道」とかあったのも印象的。いやその理論だと公営ギャンブルパチスロもダメでは。

さすがに不可解だったので少し調べてみると、どうやらパチンコ店からの広告収入とかいう存在が関係していると。IRが合法化されてしまえば、現存するパチ屋は上位互換が生まれるため大損害である。だからパチ屋はIRに猛反対で、その業界が莫大な広告料を払いつつ出稿しているから新聞社は逆らえず、結果として偏った報道となると。……民間だから仕方ないのかもしれないけど、これがマスメディアの実態。

ちなみに、「賛成」の持論と「反対」ばっかの社説を紹介したうえで受講者に是非を問うと、綺麗に賛成と反対で半々に分かれた。これはメディアが「反対」ばかりなのとは違っている。さすが、頭のいい高校だけある。ちゃんと自分で考えて結論を出してるようだ。

 

……とか偉そうに言ってきたけど、私だって相当なバカだ。全知全能の神とかではなく何も知らないバカなので、報道(すなわちマスメディア)がないと情報に触れることができない。そして、たまにその報道を無批判に受け入れてしまう。

マスメディアの問題点は分かっているし、それに振り回されるバカにはなりたくないと思いながらも、バカなのでマスメディアから完全に離れることができない。うーん。

 

 

バカに合わせなきゃいけない

 

相対的にバカでない人間であっても、マスメディアを盲信するような相対的にバカな人間のことを、完全に無視することはできない。真っ当な理由で行動した場合であっても、バカに難癖を付けられ、それが原因でその行動を辞めたり謝罪したりせねばならなくなることがある。

それは、バカを変えるのは非常に難しいから。問題なく事を運ばせるためには、マスメディア以外が何を言っても変わらないバカが変わるのを待つのではなく、自分の側が変わらねばならない。

非常に面倒だし、非常に残念なことだ。

 

いつぞや、某巨乳キャラを用いた献血ポスターが炎上したことがあった。胸が現実離れしてデカいってのが燃えたんだっけか。公の場にこれを使うことが燃えたんだっけか。いずれにせよ、「バカ」が炎上させた事案だったと思う。

私自身は、ポスターに二次元キャラを使うのも、特定の部位を強調した絵を描くのも、すべて「表現の自由」であり否定されるべきでないと考える。というか私は二次元キャラが大好きなので、問題に思うどころか「素晴らしいじゃん」とすら思ってしまう。日本赤十字社は何も悪くないし、作者はもっと何も悪くない。

だが、あのポスターは炎上を招くこととなった。これは結局、「バカの存在の忘却」「ゾーニングの失敗」が原因といえるのではないか。すなわち、ポスターを出した日本赤十字社の考えが足りなかった、ということである。

社会の全員が適切に考えることができるまともな人間なら問題ないのに、やたら非難してくるバカがいるせいで、提供者は無難なものしか出せなくなる。そしてその「無難なものでないと非難される」という事実を忘れると、炎上して撤回や謝罪に追い込まれる。マスメディアが非難に加担し始めるとそれは悲惨だ。バカに合わせないと、面倒なことになる。

 

社会では全員が良識を持ってるわけではなく、理不尽な人間も存在する。だから「自分はこれが正しいと思う」で行動するだけでは生きられず、どうしても「社会的に黙認されるためにはこうしなければならない」で行動することになるのだ。

 

 

「他者理解」の難しさ

 

相対的にバカな人間は、相対的にバカでない人間を理解しようとしない。相対的にバカでない人間は、相対的にバカな人間の考えに共感できない。

これに限らず、一般に「他者を完全に理解する」というのは不可能に近い。みんなバカだから。これが私の持論である。

 

少しでも考えることができる健常者(この表現は可燃性が高いのであまり使いたくないが)であれば、誰もがそれぞれの「合理性」に従って行動している。例えば私の場合だと、「自分が楽しい」「自分が評価される基準となる」といったことで「自分の立場が良くなり自分が幸せになれる」というのを「合理性」の基準としている。一般に非合理的とされる行動(例えば純粋に利他的な行動)でも、別の側面(例えば他者からの感謝による満足感とパフォーマンスの向上)で見れば「合理的」だ。

だが、この「合理性」は人によって異なる。ある人は「社会貢献によって自分の存在意義を社会に還元する」を、ある人は「神の思し召しに従うことで死後救済される」を、またある人は「考えずに済み楽である」を「合理性」の基準とする。そして異なる「合理性」を持つ人間では、それぞれがその「合理性」を選択することに共感できない。例えば私は考える自己中なので、純粋に他者のために行動する人にも、宗教の教えを真摯に守る人にも、一切考えずに生きる人にも、完全には共感できない。

 

「合理性」に限らず、「感性」だって人それぞれである。例えば私は寿司・刺身や牛乳や生のトマトが大好物であり、蕎麦や茄子やセロリやオクラが好きでなく、また唯一どうしても食べられない食材がアボカドである。だが私の弟は寿司・刺身を好まず、私の従兄はトマトが大嫌いで、私の母は茄子とセロリを好物とする。私はどうしてもこの3人と分かり合えない。

 

人によって違うものといえば「経験」もである。例えば私は「知り合い女性の放った些細な発言」「1回だけ女性を好きになったが何故かすぐに冷めたという事実」「出会いだけは多いのに特に動かない感情」「人間関係の構築にことごとく失敗してきた歴史」などが原因となってかくも拗らせることとなったのであり、同様の経験のない人間には拗らせを理解されない(と考えている)。だが一方で、私は「相手がいるのに病んでいる人間」を経験不足ゆえ理解することができない。

 

他者の考えを理解することは難しい。人間はそれぞれの「合理性」「感性」「経験」に従って生きており、それを問い直す・手放すのは難しいから。他者の「合理性」「感性」「経験」に完全に共感することはできない、それだけ人間はバカだ。

 

 

そこで「理解しようとすること」の大切さ

 

難しいけれど、バカなりに理解しようとせねばならない。

 

「他者のために行動するなんて意味わからない」じゃねえ、そういう考えがあることを把握しろ。「茄子が美味しいなんて頭おかしいんじゃねえの」じゃねえ、感性は人それぞれだってことを自覚しろ。「相手がいるのに病むなんてふざけるな」じゃねえ、持てる人間ゆえの悩みもあることを想像しろ(これは自戒)。

 

そして自分の合理性・感性・経験を押し付けるな。相手に関する理解を放棄して「自分の考えこそ至高」となったら、それこそとんでもないバカだ。そもそも思想・信条の自由に違反する。そして自分以外の厄介なバカな存在を無視して行動すると、結局バカに非難されることになる。

 

 

他者に期待しないけど期待する

 

人間、すべての行動を完璧に成功できるはずがない。バカだから。

……そうなんだよ、だから他者に期待しすぎないほうがいい。誰だって完璧ではない、バカなんだもの。

……でも、それは自分だって完璧じゃないってのの裏返し。自分というバカだけで突っ込んでも、何もできない。だからこそ、自分以外の誰かに少しでも期待しつつ、頼らなければならなくなる。

難しいね。

 

せめて自分がバカであることを自覚しつつ、マスメディアに振り回されるなどバカのやる行動に染まらないよう注意しながら、生きていきたいものである。

[憂17]「誘いづらくなる」ということ

くそ。もともと誘うの苦手なくせに、さらに状況悪化しやがって。

 

 

COVID-19流行の落とした、1つの影

 

先日最後のレポートが終わり、私もついに夏休みに突入した。Sセメスターで書いたレポートは総計20本以上、字数の合計は80,000字以上。我ながらお疲れさまでした。

さて、ここで夏休みに突入したため「遊び」をしたくなるものである。もう巡ってくることがそうそうない、貴重な長期休暇である。COVID-19感染が懸念されるところではあるが、私自身は「三密対策」「至近距離でマスクなしに話さない」を徹底すれば遊んでもさほど問題でなく、それでもかかってしまったら「運が悪かった!しょうがない!」と思うほかないと考えている。だから、夏休みは正直遊びたい。……え、某活と某某試験はどうしたって?うるさいねえそれはちょっと置いといてよ。

 

だが、ここで大きなハードルが立ち塞がる。それは

「人を誘いづらい」

ということである。

 

昨今の状況により、外出や遊びを巡る各人の対応は異なってきている。平然と友人との会食を行う人もいれば、一人旅で遠くに行く人もいれば、一方で買い物などを除く外出を一切していない人なんかもいる。なお私の立ち位置は「感染防止策を十分に講じれば外出や遊び自体は問題ないが、それでも多すぎると望ましくないし三密だけはアカン」というものである。

大学生ゆえ、どうしても親の見解に従わざるを得ない人は多いと思う。私の場合、当初は換気対策の観点から公共交通機関を用いる一切の旅行が親に禁止され、「いや移動自体が問題じゃない」「むしろ飛行機や新幹線はめちゃくちゃ換気してる」と反論したことで何とか折れてもらったところだ。うちの場合はまだ折れてくれたから良かったが、聞き耳を持たないコロナ脳(この言い方はあまり好きじゃないが便宜上使う)の親だったらもっと大変だろう。

 

そうやって、個人によってコロナ禍における対応が異なる中、迂闊に人を誘うことが難しくなっている。

だって、自分の基準で人を誘ったらその遊びは相手の基準的にはアウトだった、なんてことも起こるのだから。そうなったら、お互い気まずくなることだろう。仕方ないことだけど。

 

しかも厄介なことに、多くの人の「基準」は外から発見しづらい。堂々と「三密はダメよ」って基準を書いている私なんて、よっぽど特殊な方でしょ。だいたいみんな、基準がわからん。

 

 

断り/断られやすくなるし、本当の理由か分かりづらい

 

誘った時、「自粛の基準的にアウトだから仕方なく断る」ってことをされる。これだけならまだいい。

でも、現実はもっと残酷である。

 

「自分の基準的にはオッケーだけどお前は嫌だからってことで、とりあえず自粛を理由に断る」

とかいう事態だって起こりうる。

つまりまあ、コロナのおかげで、相手にとってはそれっぽい理由をつけて断りやすくなるし、自分にとってはそれっぽい理由をつけられて断られやすくなるってことだ。

 

これ、地味にしんどくね?

もしその人がSNSとかで遊びの写真あげてたら、つまり自粛してるってのが嘘だったらさ、自分にだけは嘘つくほど会いたくなかった、ってのが露骨にわかるってことでしょ?

自分はその人にとって、平然と嘘ついてまで断るような相手ってことでしょ?

そんなん絶望やん。

……え、陰キャの被害妄想キモいって?おうそうかいなんとでも言ってやれ。

 

でも、そうやってSNSで嘘を見抜くとかしない限り、ガチで自粛ゆえに断ってる場合と見分けつかないことね?

相手が本当に自粛ゆえに渋々断ってたとしても、自分が勝手に「ああこいつは自分に会いたくないんだなそうかそうか」って解釈しちゃうかもしれん。単なる勘違いと自爆。

逆も然り。誰かに誘われた時、本当に自粛ゆえに渋々断ったとしても、相手に勘違いされるかもしれない。チガウソウジャナイ、ホントニワタシノコウドウシシンテキニアウトナダケナノ、コロナナカッタラヨロコンデサンカスルノニ。

……え、陰キャの被害妄想やっぱキモいって?おうそうかいなんとでも言ってやれ。このブログ読んでる時点で覚悟しろ。

 

真面目な話、いつもの断り文句「明日朝早いからー」「バイトあるからー」「犬の散歩があるからー」「ちょっと地球救ってくるからー」とかと比べ、汎用性が高い上に個人の信条ゆえ真偽の判断がしづらいから、地味に厄介である。

 

 

「え?こんな時期に誘ってくるの?やったー嬉しい」

 

緊急事態宣言発令も4ヶ月以上前のこととなり、今や日常が戻りつつある。

しかしながら、陽性者数が増加しているのもクラスターが発生しているのも事実だし、やはり「会食」「遊び」が昔のように気軽にできる状態には程遠い。

 

だからこそ、この時期において「誘う」という行為は、ある種特別性を孕むのかもしれない。だってよ、この夏は「特別な夏」なんだぜ? めちゃくちゃ青春っぽいフレーズやん。

気軽にできないけど、それでも誘う。それは、それだけ特別な人だから。

そして特別な人だからこそ、相手のコロナ禍に対する考え方は尊重する。もし相手が行動指針をもとに断念したとしても、その判断に不満は言わない。

(ちなみに、そんなんお構いなく否応なく誘ってくるやつがいたとしたら、自分が「特別な人」だと思われてるのはまあ事実だけど悪徳商法か宗教か単なるメンヘラなので、とりあえず警戒。)

 

こうやって会食とか遊びとかが憚られる時代だけど、それでも俺はお前と会いたかったんだよ、それだけお前は俺にとって特別なんだよ。

……は?そんなん誘われて嬉しいに決まってんだろ。そこまでして会いたいのかー仕方ないなー照れるなー。でもな、悪いけどこれだけは守って欲しいんだ。

……おう、当然だろ。誘ったのはこっちの側なんだし、お前の考えを大切にするぜ。

……って感じ。

 

誘われるってことは自分に存在意義があること、それを知れるのはクソ嬉しい、ってのはいつかの記事で書いたかもしれんけど、今その性格は特に強まってるように思える。

誘うってことはその人が自分にとって必要な人、それを伝えるってことで緊張する、って側面もあるかもしれんけど、今その性格は特に強まってるように思える。

 

だからこそ、この時期に相手の考えを尊重しつつ(ここ大事)誘ってくるような人は大切にすべきだし、大切な人はこの時期にとりあえず誘ってみた方がいいのかかもね。

この、全面自粛でも全面解除でもない、絶妙なタイミングだからこそ。

 

 

「え?こんな時期に誘ってくるの?やめて気持ち悪い」

 

しかし、現実はそう単純じゃない。

 

そもそも「今誘うってのはある種特別だよね」っていう私の考えに対して「は?自意識過剰キッツ」って思われても何らおかしくない。私の見ている世界が特殊なだけで、陽キャの皆さん(あ、ガチ陽キャはこんなブログ読んでないか!w)は通常通り人を誘っているのかもしれない。はい、自意識過剰陰キャですんません。「友達」って言葉を見るだけで身構える社不適ですんません。

 

あと、誘ってどう思われるかって点。単に話がしたくて誘ったとしても、「いやなんでこの時期なの???お前はそこまでして私に会いたいの???キッモ」「え?それってもしかして誘ってるんですか?ごめんなさいちょっと今そういう気分じゃないです」「私のこと特別視するなんて、もう少し立場を弁えろ」とか思われるかもしれない。……え、陰キャの(以下省略)。

例えば私には小学校時代の友人(って言ったら向こうが心外な顔するかもしれないけど)がいて、昨年突然連絡をもらってからずっと「暇ができたら会いたい!!!!!」って思ってたんだけど、いざ暇になったのは今年3月の終わりだった。一切誘う勇気が出ない。向こうにどう思われるか怖い。異性だから尚更である(なお私のことよく知ってる人なら理解してくれると思いますが恋愛感情はありません、あでも私は異性に会うだけで喜ぶ変態人間だからそういう心持ちはあるかもしれませんが)。

……しんどいわね。オンラインにしても、ずっと会えてなかった人といきなりオンラインってのは難しいからね。

……あ、ちなみに私は誘われたら問答無用で「やった!!!!!自分の存在価値ある!!!!!」ってなる人間なのでお構いなく。むしろ自分でいいのか謎に不安になるレベル。

 

てか、普通に恋愛の成就が難しくなってることね?ってのは思う。

私は今恋愛的に好きな人とかガチでいないからよくわからんけど、意中の人を誘ってきっかけを作るのが難しいやん。片想いだと「相手は嫌がらないかなあ」とか心配になるだろうけど、この状況じゃ平常時以上に心配になるやん。

恋愛は頭脳戦だけど、なんと不戦敗。それどころか会場までたどり着かない。

 

はあ、「特別」ってのが自明だから遊びに誘うのが憚られない、そういう意味での「恋人」がいたらよかったのになあ(小声)。

 

 

「コロナ終わったら会おうね」って言葉の怖さ

 

「コロナ終わったら会おうね」

この言葉ほど怖いものはない

 

ガチなのかお世辞なのか断り文句なのかわからない

本心からの言葉ならまだいい。でも、お世辞かもしれない。もっと悪いことには、単なる断り文句かもしれない。「コロナ終わっても会うわけないだろお前は一生引っ込んでろ」って意味かもしれない。

おかげさまで、自分がこの言葉を言う場合でも「お世辞じゃないから!嘘じゃないから!ガチで会いたいの!」って補足しなきゃいけない。

 

②フラグか?????

「〇〇したら××しようね」なんてめちゃくちゃ死亡フラグやん。え、あんた死ぬの……? それとも私が死ぬの……? 世界滅亡が先……?

 

③いつ終わるんすか

冗談じゃなく、いつ終わるのかガチでわからない。てか終わるってなんだよ。ウイルス感染症が根絶されるなんて、途方もない話だぜ?

 

ここで「コロナ終わってなくても会おうぜ!」とか言うと相手に気持ち悪がられるパターン。

 

 

「待つ」戦略

 

なんかもう、誘うって行為が怖くなってきちゃった。

でも人と遊びに行きたいし、人と話したい。

 

いっそ「私は三密回避できる限り大歓迎っすよ」って示しといて、誘われるのを待つのが無難なのかもしれん。

待つわ。(いつまでもとは言わないけど)待つわ。いつも金欠の私だけど今は10万のお陰で潤ってるし、いつも多忙アピールってゴミ行動している私だけど今は結構予定空いてるし。

 

……ってことで、リアルの私を知ってる皆さん(ごめんこの条件も譲れない)、ぜひ誘ってね。待ってるよ(他力本願)。

[論23]拗らせ未リア二十歳男性、恋愛と性欲について物申す

今回の文章は特に過激かつ気持ち悪いので、覚悟してくださいな。

特に女性の方がご覧になる場合。

本当に覚悟してくださいな。

 

※最初に断言しておくが、以下述べるのはあくまでも「クソ拗らせた男1人の偏見にまみれた考え」である。なお私自身は肉体的にも精神的にも男性を自認しており、また恋愛対象・性欲対象は異性であると自覚しているが、恋愛に要するハードルが高い。ヘテロロマンティック・デミロマンティック・ヘテロセクシャル。そこだけはどうかご了承いただきたい。

 

 

 

命題「私は変態である」

 

命題「私は変態である」

 

この「変態」とは、ここでは「異性への態度や考えにおける指向」とでもしておこうか。

……いささか突然だが、今回はこれの真偽を確かめてていくこととする。

 

 

私という男のこれまで

 

まあまずは、私という男がこれまでどのような「同年代女性との関係」を有していたかを辿る必要があるだろう。

(あなたが読んでも何のメリットもないので読み飛ばしてくださいこれは私の整理のためだけですので)

 

幼稚園時代。男子の友人すら1人しかおらず、しかも彼は引っ越して行った。何かのきっかけで女子の友人(いや向こうは自分のことを友人とは思ってなさそうだね残念)ができたが、彼女も引っ越して行った。草。

小学校低学年時代。相変わらず友人は男子ですら4人くらいしかいなかった。なんか親同士仲良かった女子の家に行ったことがあるらしいけど、何やったかは覚えてない。てか当時性別なんて意識しておらんわ。加えて、習い事の関係で(主に母親間のつながりをもとに)女子の友人ができたっぽいが、あまり会うことはなかった。女子への接し方は男子と特に変わらず。

小学校高学年時代。ぼっちの私にも徐々に「親しい人」ができてきた。なんか小学校のクラス内に存在する「会社」の会合のために女子の家に行った。よくわからんボードゲームで遊んだ。当時「好きな人」がいたらしいけど、今考えりゃ何でその人だったのか皆目見当がつかぬ、あの好意は偽りのものだったようだ(なおその人とは中学卒業以来会っていない)。それ以外の女子は男子と同じようなものだと考えてた。とある女子への嫌がらせ的なことをしては「〇〇くん嫌い」と言われた(なおその人とは中学で離れて以来会っていない)。

中学時代。1年の時の林間学校で「夜の告白イベント」が発生したが、自分には一切の関係なし。3年の頃に性欲が芽生えたが、なぜか「実在の知り合いの女子」は妄想の相手にならなかった。なぜか知り合いの女子は一切の恋愛対象にならなかった。とはいえ女子とは普通に接していた。あ、そういや1回けいどろで女子を助けようと思ったらめちゃくちゃ「は?何この変態」みたいな顔で見られたことがあったな。それと、隣の部活の先輩が初めて「怖い女性」として認識された。

高校時代。中学同期を除く「女子高校生」と30秒以上話した回数、3年間で1桁(ガチ)。もちろん何かか起こるはずもなく。3年の文化祭のフォークダンスで女子高生とペアになったが、連絡先の交換すらせず、かつ何の後悔もなかった。でも通学の電車の中で見知らぬ女子高生を見ては「可愛いな」など思っていた。この中途半端なスケベが。

 

大学時代。高校時代と比べて女性と話す回数は100倍以上になった。フィクションのラブコメなどを見る回数が激増し、恋愛に憧れるようになった。「カップル」という存在が突然身近なものになって、「彼女欲しい」と思いはじめては突然「出会い」を求めるようになり、それもあっていろんな団体に所属するようになった。「そのうち彼女とかできるんじゃね?」とか最初は思っていた。

現実は残酷だった。1年の7月頃に女性に「〇〇くん、最初は何言ってるのか全然わからなかったけど、今なら話が通じるようになった」って言われる(ガチ)くらいには最初は女性との接し方に慣れてなかった。さすがにそのうち慣れ、2年の頃には人生で初めて恋愛感情を(実在の知り合いに対して)抱いたが、何故か1ヶ月で消滅した。以降、女性の知り合いは多数いるにもかかわらず、恋愛感情は一切生じていない。あと「心を許せる女性の友達」ってのは非常に少ない。

性欲に関しては相変わらず、実在の知り合いを相手として考えることはできず、妄想の相手は「誰かよくわからない人」に限定される。「出会い」を少なからず期待して新たな女性の知り合いができても、いくら美人であれ話した瞬間に性欲対象から除外される。でも高校時代と変わらず、制服着た女子高生を見てはドキドキするどスケベ(ただし痴漢とかは死んでもしません犯罪者にはなりませんのでそこだけはご了承ください)。最低。

あと、サークルやバイトで「怖い女性」と認識する同年代女性が複数登場した。

……女性から告白された経験?無いに決まってんだろアホが。なんか男性の友達2人から「自分が女性だったら付き合いたかった」とかいう謎の告白をされたことならあるけど。

 

こうして彼女いない歴=年齢の二十歳が形成された。はいここテストに出ます。

男子校の高校時代を通して女性が「男性と異なる存在」として認識されたのが、女性観の大きな転換となった。これ以降「出会い」を求めるようになった。とはいえどうしても実在の知り合いは性欲対象にならなかった。でも「制服を来た女子高生にドキドキする」とかいうド変態思想は大学生になっても変わらなかった。

 

……いや「女子高生」の時点で変態確定じゃんこんなの。何なのお前。

 

まあでも一応、このあといろいろ整理してって改めて「変態かどうか」を考えてみるよ。

まずは、デミロマンティックの私が世間一般の「恋」に対して物申したいこと2点でも書いておこうか。その後に、私の特質を書いておこう。

 

あ、ちなみに私は「恋愛」も「性欲」も実在するものだと思ってるからね。ある友人が「恋愛なんて幻想」って言ってるのを聞いたことがあるけどこれには必ずしも同意できなくて、私は「その人と一緒にいたいっていう感情は実際に存在するんじゃないのーーーーー?????」って思ってるからね。

 

 

 

「優しくしてくれた女子に対して勘違い」とか言うけどさ

 

よくあるよね。消しゴム拾ってくれたとか帰り道付き合ってくれたとか「優しくしてくれた」って経験から「もしかしたらあの子は俺のことが……?」って考えちゃう、勘違い系残念男子。

フィクションでは当然よく見かけるし、現実でも恋愛経験ゼロなイカ東男子がやらかしてる気がする。

 

……いや、そもそも女性がイケメン以外の男性のことを「好きになる」ことなんてほぼ幻想なことね?????

私はこんな勘違いはしませんよ。だって真面目な話、低身長で顔も良くなくて体力も高くない奴なんて誰が相手にしてくれるのさ(拗らせの炸裂)。

むしろ「優しくしてくれた」と思う場合、私は同時に「まあどうせ他の人に対しても同じでしょ」って思って終わるのみよ。よく考えろ、どういう場面で女性が私のことを特別に扱ってくるん? それって「単に都合がいいからであってお前に対する恋愛感情なんか関係ない勘違いするんじゃねえアホが」じゃないの? 女性も言ってるぞ、「興味のない人から向けられる好意ほど気持ちの悪いものってないでしょう?」って(『クズの本懐』安楽岡花火の台詞)。お前に特別な感情を抱く異性なんていねえし、勘違いしたら向こうが傷つくだけなんだよ(拗らせの炸裂)。

 

……ん、あれ? 私ってそもそも女性から「優しくされた」経験なんてあったっけ?

だいたいお前、女性からは「他の男子の劣化版」として扱われるのが常じゃなかったか? なんか距離を取られてることがほとんどなんじゃねえか? 世の中には「楽しそうにちょっかいを出し合ったりスキンシップをとりあったりしながら話す男女」ってのが現に存在するけどよ、お前そんなこと経験したこと一切ないだろ? 「勘違いさせちゃう系女子」ですらお前は眼中にねえんだよ。

……なんか悲しくなってきたわ。泣きそう。恋愛感情云々以前に、お前に深く関わろうと思ってくれる異性なんてガチで存在しないってか。ここで天の声に「当たり前だろ?」って言われて終わる。当たり前なんだよなあ。

言い忘れてたけど、大前提として私は「自分の能力」に関しては自己肯定感の塊なのに対して、「自分の人間関係構築力」に関しては自己肯定感が一切ないのである。そりゃこれまでの生き様があーだったらこうなるわな。

 

これね、また別の面白い現象が起こるんですよ。それは「アイドルを不気味に感じる」ってものなんですよね。

どういうことかっていうと、アイドル(特に坂とかかな?)ってしばしば「視聴者に語りかけてくるような仕草」を動画とかで見せてくるけど、私レベルになるとそれも違和感しか感じないってことなのよ。だいたい女性から特別に扱われた経験がないから、そういうのは奇妙なわけよ。むしろ怖いわけよ。慣れてないから。

私が3次元アイドルを好きになれないの、実はこういう要素が絡んでいるのかもしれないよ。

 

さて、今度は人間の男女の恋愛に関する不均等について書いてみようか。

(ここから早口)だいたいヒトっていう種は、基本的にオスの方からメスにアプローチする生物じゃんか。メスがオスにアプローチするなんて幻想よな。それにメスの方は「妊娠出産」とかいう苦難を経験するんだから、生物的に優れたオスを選ぶのなんて当然よね。それに一夫多妻制も存在するくらいには「イケメンの独り占め」が起こっちゃうわけだし。そもそもルックスか結婚率に影響する傾向は女性より男性の方がよっぽど甚だしいらしいし、精神疾患を有する方だって女性なら「理解ある彼くん」が登場するのに男性なら孤独死ルートだし。実在の知り合いに恋愛感情とか性欲を抱けず、かつイケメンですらないオスは、まあそりゃ淘汰されるばかりだよね。しょうがないよね。(ここまで早口)

 

じゃあなんで、世の中の男子共は勘違いするん?????

……それってさ、たぶん心の奥底に「そうあって欲しい」って想いが存在するから、すなわち「その人と一緒になれたらいいのにな」って思ってるからじゃん。それをさ、「その人が自分に優しくしてくれた」ってことで勝手に根拠づけてさ、それで突入するんでしょ?

 

相手の真の思いを理解しようともしないで勘違いして付き合おうとするってのは、(特に男子にとっては)もはや下心の現れでしかないのでは。

○○とか○○○○するだけなら許容範囲は広い(から勘違いの相手も範囲に入る)かもだけどさ、「真摯なお付き合い」「肉体関係だけじゃないお付き合い」をするとなったらどうしても相手のことをよく理解する必要があって、勘違いなんてしてらんないんじゃないの? 勘違いしたまま突っ込む時点で「真摯なお付き合い」を求めてるのとはちょっと違うと思うんだけどなあ。

こうやって、その人のことをよく見てないで勝手に「俺のこと好きなんじゃね?」って思って突入しちゃうのこそ、その人に対する下心が見え見えで変態じゃないのかね(過激発言)。

 

私は「勘違い」しないから、そういう意味の変態ではない。これは断言しておく。

 

 

 

一目惚れってなんなん?????

 

人ってなぜか、一目惚れするんだよね。相手のことをほぼ知らないくせに「好きです!付き合ってください!」ってなるやつ。

フィクションでは当然よく見かけるし、現実でも「オリ合宿で付き合い始めた」とかいう「明らかに出会ってから付き合うまでが短すぎる例」ってのが観測される。

 

……いや、どうやったら一瞬でその人の判断ができるん?????

私は一目惚れなんてしませんよ。だって可愛い人なんてごまんといるのにさ、なんでその中で「この人こそ俺の運命の人だ!」って確信が持てるわけないっしょ?????(そっち?)

一目惚れってのは、一時の心の迷いに任せて「もっといい相手を見つける」可能性を捨てる行為なんだよ。「じゃあもっといい相手を見つけたら現恋人と別れりゃいいじゃない」は?お前にとって恋人ってのはそんなに軽い存在なのかよ。軽薄に付き合っちゃう人のまあ多いこと。私ゃ「恋愛」「お付き合い」ってのをほぼ経験したことないからよくわからんけどさ、それってそんな軽いものだとは思わんかったよ。私だってそういう奴らみたいに軽いものと思えてたらもっと楽だったかもしれないのにな(ほんまか?)。

 

じゃあなんで、世の中の男子共は一目惚れするん?????

……それってさ、たぶん心の奥底に「とりあえず美人の女性と付き合いたい」って想いが存在するから、すなわち「誰でもいいから恋人が欲しい」って思ってるからじゃん。それをさ、「一目惚れした」ってことで勝手に根拠づけてさ、それで突入するんでしょ?

 

相手の外見と僅かな内面を見ただけで付き合おうとするってのは、(特に男子にとっては)もはや性欲の現れでしかないのでは。

だいたい「誰でもいいからとりあえず恋人が欲しい」って思ってなきゃ、会ったばっかの人に突入なんてしないでしょ。んで「誰でもいいから恋人」って思ってる場合、それって目的は「一緒にいて幸せな人と一緒にいること」ってよりかは「○○や○○○○で肉体関係を持つ」じゃないの??? そりゃナンパと一緒じゃん。

こうやって、その人のことをよく知らないくせに「一目惚れ」って突入しちゃうのこそ、性欲が見え見えで変態じゃないのかね(過激発言)。

 

私は一目惚れしないから、そういう意味の変態ではない。これは断言しておく。

 

 

 

とはいえ私も性欲はあります、しかし

 

こんだけ「下心が見え見え! 性欲が見え見え! 変態!」とか言いながらも、私だって異性に対する性欲は存在する。一般の男性がどれくらいなのかは知らんけど、少なくとも人並み、もしくはそれ以上にはあると思う。

 

ただ、私の場合その性欲は「実の知り合いでない存在に向かう」「捌け口がないが風俗通いや性犯罪には繋がらない」のである。

後者はまあ「初体験を疎かにしたくはないよね?」っていう謎の頑固さと「犯罪はアカン」っていう当然の常識ゆえである。問題は前者である。

 

私は、見知らぬ女性の制服姿にドキドキしちゃうらしい。これはまあ性欲の現れなのかもしれない(世の中の女性の皆さんこんなスケベ野郎が社会に存在して本当にごめんなさいでも犯罪は起こしませんのでそこだけはどうかお許しいただけると幸いです)。「出会い」を求めたがるのも同様である(まじで私がこんな奴で本当にすみませんでしたですが女性問題など一切起こしていませんのでどうかご慈悲を)。

しかしいざ知り合いになった瞬間、その性欲は消えてしまうようだ。それどころか、知り合いとの○○○○を想像でもしてしまったら罪悪感に苛まれるのみである。まったく不思議なものである。

 

理由であるが、とある男子校出身の友人が「AVの見過ぎ」と言ってきた。これは事実かもしれない(はいすみません、暴露すると私は着衣のAVを見ることが少なくないのです本当にすみません、個人の嗜好なのでどうか口出ししないでくださいお願いします、犯罪は起こしませんのでどうかよろしくお願いします)。

おそらく「肉体関係を持つ相手」と「友人」が区別されるのだ。「話」という接点を持った以上は私は男性であれ女性であれ「友人」というベクトルを目指すので、そこが分岐点なのかもしれない。あと「友人」に自分のデリケートゾーンを見せるのは非常に憚られる。そしてどうせ「友人」であれ女性が私を積極的に求めてくることはないと思っているし、そう勘違いするのは「友人」としての相手に対して失礼極まりない。

 

その上で、恋愛感情ってのは知り合いすなわち「友人」に向かう。私はデミロマンティックなので、相手のことをよく知らずに好きにはなれない。これは先ほど物申した通りである。

だから、よく知らない人と「○○○○のために付き合う」ってのはそれこそ性欲の現れそのものなので論外である。ま、だいたい○○○○までにいくつものステップがあるのが普通だし。

 

……え、これ詰みじゃね?

恋愛結婚において、相手ってのは恋愛対象かつ性欲対象であることが大前提じゃん。結婚相手(恋愛対象)は知り合いなんだから、そこで性欲沸かなかったら結婚生活破綻だし、そもそも私は恋愛結婚の相手を確定させることすらできないじゃん。ああ私が結婚できるって思い込んでいること自体が誤りでしたかどうもごめんなさいね。

 

はい、だからこそですね、強制的に結婚相手が決まる「お見合い」が私にとっては望ましいわけですね。あんまり深く知り合っていない状態で結婚するってのも、実は良いのかもしれませんね。後述するように、私の女性評価の基準はクッッッッソ低いですしね。

 

 

 

恋愛感情を抱いたことはあります、しかし

 

とりあえず[憂3]と[憂13]でも読んどけ!!!!!!!!!!

utok-travelandthinking.hatenablog.com

utok-travelandthinking.hatenablog.com

 

 

 

え?「そこにいるだけ」でいいの?

 

ここで面白い話をひとつ。

 

私という未リア二十歳男性、なんと「知り合いの女性と同じ場所で話しているだけで楽しい」らしい。しかもその人の彼氏の有無は問わないらしい。どうやら最初から恋愛対象たることを無視して「女性である」それだけで、かつ状況を細かく指定せず「話す」それだけでいいらしい。

どうだ。これが男子校3年間で1桁回しか同年代女子と喋らなかった人間の成れの果てだ。

 

こういうのは、性欲から来ているのかもしれない。でも前述の通り、私が知り合いに対して性欲本体を感じることはほぼない。よくわからぬ。

なんか、「異性から自分の価値を少なからず認められている」って自覚できるのがいいのかもしれないね。恋愛ってなんすかwwwwwみたいな人生を送ってきた人間として人間関係(特に異性との関係)に関しては自信の一つもないから、そこで少しでも自信を得たかったのかもしれないね。仮に私に好きな女性ができたとして、その女性から価値を認められる可能性もある、ってのがとりあえずわかるのがいいのかもしれないね。

 

そういや男性が女性を評定する(この言葉クッッッッソ嫌いなんだけど便宜上使わせて)「アリ」「ナシ」って基準があるけど、「可愛い」って基準に則れば私にとっちゃ殆どの女性が「アリ」になるよ(まじで女性の皆さまごめんなさい誤解を招く表現となってしまいましたがどうかご承知を)。

私における「可愛い」の基準はクッッッッッソ低いのさ。だから大抵の女性と話すだけで、私は幸せになれる。いや自分で言うのもなんだけどピュアピュアやん。

 

……ってなわけで、私はめちゃくちゃちょろいらしいよ。

……まあこんなこと言ってもどうせ私のこと(略)だし意味ないはずだけどね。

 

 

 

「男らしさ」の喪失

 

とある女性の友人に「○○くんって中性的だから話しやすい」と言われたことがある。

この言葉、褒め言葉のはずなのだが、私は色々と考えたものである。

 

ヘテロ女性が交際相手として許容してくれるのは、「男らしさのある人」だと考えている。そりゃだってさ、よくわからんけどさ、生物学的にも「オスっぽさ」のアピールが有効になるわけじゃん。だからこそ自分が「中性的」ってのは要は「男らしさ」を失ってるってことで、つまり女性側に許容される確率が低いってことで、なんか悲しいのよね。

ちなみに「男らしさ」「女らしさ」の是非についてはまた別の記事な。

 

とはいえ「中性的」ってのは、要は男性にありがちなホモソーシャル的なアレがあからさまに出ないということである。つまり、女性から見る「人に見せるための私」は変態ではないってことさ。

 

 

 

なーにが「あなたを守りたい」だよこの野郎
 

もう一個、物申したいことがあったわ。

 

なんか告白の台詞でさ、「あなたを守りたい」的なやつあるじゃん。男性から女性に言うやつ。

 

……なーーーーーにヒーロー気取りしてるんだよ?????

お前は女性を勝手に自分に隷属させてるのか?????

付き合い始める前のくせに「俺はこいつを守れる」とか思うんか?????

それもそれで「変態」じゃないのか?????

てか「彼女がいるというステータスによりホモソの中で守られる」のはむしろお前の側だろ?????

自分の立場を弁えろ?????

 

 

 

命題「私は変態である」

 

私も制服(略)くらいにはスケベで変態だが、同時に変態でないという側面も「勘違い系男子でない」「一目惚れをしない」「話すだけで幸せになるくらいにピュア」「ホモソーシャル的な要素が強くない」「自分の立場を弁える」って感じで5つほど存在する。

 

結論「部分的に真だが、部分的に偽。」

……なんか中途半端な終わり方でごめんなさい。

[憂16]「物語」の呼び起こす、心のざわめき

「物語」と、それに伴う時間の不可逆性の自覚が、不思議な心のざわめきを引き起こす。

 

 

心のざわめき?


最近、心のざわめきが何かと止まらない。


とはいっても、「胸騒ぎ」のように何か心配ごとゆえに不安が高まっているわけではない。でもだからといって、自分の将来に関する懸念とも、いつぞやに抱いた恋愛に関係する思いとも、もっと普遍的に人を恋しく思う感情とも、死への恐怖ともちょっと違う。

これまで私は、いろいろなことを考えては悩んでいたものである。[憂3]を書いた昨年の初夏には恋愛という行為について思い悩み、[憂13]を書いた今年4月には自身の恋愛不能を嘆いた。

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今年4月にはそのほかにも、[憂11]のように自身の感情そのものを問い、また[憂12]のように人との接触機会減少を嘆いていた。

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でも今はたぶん、それらよりもっと根本的なことを考えてしまっている。たまにぼーっとして、勉強も手につかなくなってしまう。


この心のざわめきは、何かが違う。

 

 

ざわめきの現れる共通点


このような心のざわめき、これまでに経験したことがないわけではない。

高校生時代にも、たまに感じることがあった。大学生になってからだって、些細なきっかけで同じような状態になることがあった。

そして今だって、この心のざわめきはたぶん、当時と大まかには同じきっかけから生じている。

では、それは何か。


このような心のざわめきが激しくなるのは、決まって「他者の物語に心を動かされたとき」「自分の過去を振り返るとき」「自分が長らく思い描いていたことが実現しそうなとき」の3パターンのいずれかである。

思えば、自粛期間で私は従来の10倍以上の頻度でアニメやweb漫画(物語)を見るようになり、また「5年前の日記をつけてみる」という無謀な取り組みのもとで過去を振り返るようになり、そしてこの夏にはとある希望が実現しようとしている。現在というのはこのように、まさにこの心のざわめきが現れやすいタイミングらしい。


考えてみると、これらにおいては共通して、「物語」がプラスな感情とともに「時間の不可逆性の自覚」を私にもたらしてくる。これが、心のざわめきに繋がってくるのだろう。


これらは決して私にとって悪いことではなく、むしろ私が楽しんでいる事ばかりである。いくら心のざわめきが生じようと、その行為をやめようとは思わない。

でも、やっぱりざわめきは止まらないものである。

 

 

「他者の物語」による影響


人間は、前世の記憶を確と持って生まれてでもいない限り、無知の状態から自らの生を始める。その中で自身の生きる道の参考となっていくのは、他者が「物語」という形で提供する「他者の生き方」である。

それを提示してくれるのは、最初は親という最も身近な存在であり、そのうち先生や友人や先輩や著名人、ひいては歴史的人物やフィクションにおける登場人物にさえなる。このとき、その物語を語る他者と、その物語で語られる他者は必ずしも同じとは限らない。

だからこそ、他者により語られる「他者の物語」を見ては「かっこいい」「こんな生き方をしたい」と思うものだ。幼い頃の私だって、武田信玄の伝記や斎藤道三の生い立ちを読んでは「かっこいい」と思ったものである。

口伝や伝記・フィクションという形で語られる「他者の物語」は、自分の生を豊かにしてくれる。この中でも、その人物をありありとイメージしやすい作品だと、感情移入ができるからなおさらであろう。「他者の物語」は単に娯楽として消費されるのみならず、自分の生に否応なく関わってくるのである。


しかし「他者の物語」が受け手としての自分にもたらすものは、「かっこいい」「こんな生き方をしたい」という素直な思いだけでない。もちろん、真逆の「かっこ悪い」「こんな生き方をしたくない」という思いだけでもない。

むしろ厄介なのは、「こんな生き方をしたいけれど、自分にはどうしても難しい」という思いである。

「こんな生き方をしたい」「こんな生き方をしたくない」については、そこで抱いた思いをこれからの自分の人生における指針とすれば、それだけで済む。しかし「こんな生き方をしたいけれど自分にはどうしても難しい」は、これからずっとその生き方に憧れつつも絶対に成就することはない、という絶望的な状態になりかねない。


私は前回の記事[雑14]を書いたくらいにはアニメや漫画、それも設定が複雑すぎないものが好きである(設定が複雑すぎると面倒くささが勝って視聴する気が起きない)。

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まあその分野に関する知識はまだ浅いけれども。そしてアニメや漫画はフィクションであるとはいえ、名作なら生きる上での指針を与えてくれることが多い。

ところで現代の理解しやすいアニメ作品・漫画作品においては、主要な登場人物が10代であることが多い。主人公が高校生である割合がやたら高い。主要な対象年齢とか物語の作りやすさとか考えると、まあそれもそのはずなんだけど。ところが私は大学受験が終わってからハマった人間であり、今やもう20歳である。

さて、この年齢差が「こんな生き方をしたいけれど自分にはどうしても難しい」という悲劇を生む。これは、ファンタジー世界でなく日常世界を扱う作品でだって十分にあり得る。当然ドラマでも小説でもあり得る。

例えば、共学高校におけるドタバタを語った作品(こんな作品は腐るほどある)については、その作品における登場人物の生き方に憧れたとしても、男子校高校卒業者である私にとっては大体不可能である。また、高校生・大学生のアルバイトにおけるドタバタを語った作品(こんな作品もごまんとある)についても、大学3年生ゆえにアルバイト開拓の可能性が著しく低い私にとっては、その真似はほぼ無理に近い。それに、恋愛模様を語った作品(こんな作品も当然とんでもない数ある)については、(私の過去の記事をお読みの方ならお察しの通り)相手が存在せず憧れるのみで終わる。だいたい私はもう成人しており、10代の繰り広げるピュアなやりとりなんてもうできない。

それだけでない。大学3年生にもなると、この後の人生においてできることがどうしても限定される気がしてしまい、たとえその作品で語られる「他者の物語」が成人であれ実現可能なものだとしても、実現が困難に思われてしまうのである。例えば理系研究者を扱った作品(まあこんな作品も結構あるでしょ)なんかだと、文系の私が今後それを目指すことは困難に他ならない。某人気ドラマは銀行員を扱うわけだが、某活中の今の私ならまだ可能性があるにしろ、もう少しすると仮に銀行員に憧れたとしても目指すことは難しくなる(まあ私は銀行の良さがかけらも理解できないが)。

(ちなみに本筋からは外れるが、演劇などにおける「演技」を通してのみ、唯一この「こんな生き方をしたいけれど自分にはどうしても難しい」を解決することができる。だからこそ他者になりきって「他者の物語」を演じることができる演劇は、魅力的だ。)


私は「青春コンプレックス」を抱えている、と自覚している。すごく気持ち悪いようだけれども。

別に自身の過ごした中高時代を激しく後悔しているわけでもなく、むしろ正しい過ごし方だったと思うくらいであるのだが、自身の青春時代に経験できなかった「物語」を提示された瞬間、どうしても「それ自分もやってみたかった」と思ってしまうのである。出身高校(男子校)に対する愛着は誰にも負けないと自負しており、この高校を選んだことを最高の選択だと思って今も生活しているが、それでも男子校コンプレックスは消えない。これまでの人生における重要な選択はほとんど意味があったと思いつつも、「別の選択肢を選んだ場合」を考えずにいられない([論20]参照)。

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他者の物語が提示してくる「憧れるけれど自分にはもはやできない/できなかったこと」こそが、自分の心を痛めつける。ここにおいて、時間は不可逆であるという残酷な真実を突きつけられ、それを前にして自分は何もできなくなる。ただ憧れの生き方がそこに存在しながら、自分にはそれを実現するにはもう遅いという事実。


それが、羨望と時間の不可逆性の自覚による絶望感・無力感が混ざった、あの心のざわめきのような妙な心的状態を呼び起こす。

 

 

「自己の物語」による影響〜過去の出来事から


「こんな生き方をしたいけれど自分にはどうしても難しい」という悲劇は、必ずしも「他者の物語」に限らず、自分の過去の振り返りすなわち「自己の物語」においても生じ得る。

(前提として、私は恵まれた少年時代・青年時代を過ごさせていただくことができた。親には感謝してもしきれないところである。)


「5年前の日記を書く」なんてたいそうな事業を行わなくても、ふとした瞬間に自分の過去は思い起こされるものだ。

写真フォルダをぼんやり眺めては、過去の旅行の写真が出てきて思い出す。「去年の今日って何やってたっけ?」と思って手帳を見返しては、その日およびその日近辺にあった楽しい出来事を思い出す。掃除中に古いものを見つけては、それの存在とともに当時を思い出す。

ここで、「他者の物語」が「自己の物語」をふと思い出すのに寄与することもある。例えば友人との会話中に過去の思い出が登場すれば、その思い出と当時の日常を否応なく思い出すだろう。作品中に遊園地に関する感動的な物語が登場すれば、自身の遊園地に関する記憶を思い出すだろう。


このようにして過去を思い出すことすなわち「自己の物語」を再構築することは、当時の自分の行為を改めて見つめることにつながる。例えば自分の注意不足によるインシデントがあったとすると、「当時の自分に忠告したい」となるものである。自分の努力による成功体験があったとすると、「当時の自分を褒めたい」となるものである。

当然それだけでない。楽しい思い出であればそれを懐古し、場合によっては追体験しようとさえすることだろう。ここで「当時は楽しかった」となるのだが、それは「それに比べて今は……」「当時の自分にはもう戻れないのだな」という悲観的な考えにもつながりかねない。

これこそ、個人の内部における「こんな生き方をしたいけれど、自分にはどうしても難しい」の現れである。


「自己の物語」であれば記憶が存在するがゆえに、「他者の物語」以上にその生き方の「良さ」が感じやすいことだろう。だからこそ、「自己の物語」における「こんな生き方をしたいけれど自分にはどうしても難しい」は、より残酷となる。そしてれっきとして「過去」であるから、再現は「他者の物語」以上に難しい。感染症が蔓延り「密」が避けられる世の中、「密」ゆえに楽しかったいろいろな出来事は封印され、少なくとも今後2年の「若い間」に再現することは困難にほかならない。

そうして、時間の不可逆性が「こんな生き方をしたいけれど自分にはどうしても難しい」という悲劇を生む。

例えば、高校時代の写真をふと見つけることで、部活仲間(?)と過ごした非常に楽しい時間を思い出す。自分で経験したことだから、その楽しさすなわち「良さ」が鮮烈に感じられる。しかし今や大学・学年はバラバラになり、かつてのように毎日集まるなんて不可能である。それに彼らには今や「友達より大事な人」が存在するし、この先大学を卒業して社会に出たら一層集まりづらくなる。その集まりが「密」であったら、それはしばらく再現不可能だろう。ゆえに、その楽しい時間を完全な形で再現するのはもはや困難に近い。


「あたりまえの温もり 失くして初めて気づく」(合唱曲『証』より)

まさにその通りである。過去は取り戻せない。その幸せはその時にしか感じることができない。時間が経過して初めて、社会が変容して初めて、その幸せの真の価値に気づくことができる。だけれどもその時にはすでに「こんな生き方をしたいけれど自分にはどうしても難しい」となっており、どうすることもできない。

自分の過去に根ざす「楽しかったけれど自分にはもはやできないこと」が、自分の心を痛めつける。ここにおいて、時間は不可逆であるという残酷な真実を突きつけられ、それを前にして自分は何もできなくなる。ただ楽しかった生き方がそこに存在しながら、自分にはそれを再現するのは困難だという事実。


それが、懐古と時間の不可逆性の自覚による絶望感・無力感が混ざった、あの心のざわめきのような妙な心的状態を呼び起こす。


だから、今をめちゃくちゃ楽しめ。幸せを享受しろ。

……自戒を込めて。

 

 

「自己の物語」による影響〜過去の語りから


「自己の物語」は、今の自分が過去を振り返って語るもののみならず、過去の自分が未来を想像して語るものも存在する。

それはいわゆる「将来の夢」であり、いわゆる「高校でやりたいこと」「大学でやりたいこと」である。これは日記や文集を見返すことで思い出される。


過去の自分が語る「自己の物語」が実現している場合、それは満足という形で現れる。目標が達成されているわけだから。

一方でそれが実現していない場合、厄介にほかならない。過去の自分が想像して憧れた「未来の自分」は実現されないまま、もう実現されずに永遠に葬られるのだから。

これこそ「こんな生き方をしたかったけれど、今の自分にはどうしても難しい」である。


例えば、私は中学時代よりずっと、「若いうちに恋愛を体験してみること」を夢見て生きてきた。しかしそれは実現することなく、今までずっと恋人居ない歴=年齢を貫いてきた。また高校時代の私は、「大学において完璧な人間関係を築くこと」を夢見ていた。しかし大学の人間関係は、高校時代と比べて「成功している」と断言するのはいささか難しい。

そして1年半前くらいより私は、「ある地域に密着して第二の故郷を作ること」を夢見てきた。しかし今や感染症流行(とそれに伴う市井の懸念の増幅)に伴い来訪を拒まれ、それはこの夏においても実現することはない。学部生活における長期休暇なんて残り4回しかないのに、その4回とももはや絶望的である。


「あの時頑張っていたら実現していたかもしれなかった」それは今や無意味である。そしてそれは未来永劫実現することがない。

自分が過去語った物語が提示する「希望したけれど今の自分にはもはやできないこと」が、自分の心を痛めつける。ここにおいて、時間は不可逆であるという残酷な真実を突きつけられ、それを前にして自分は何もできなくなる。ただ目指していた生き方がそこに存在しながら、自分にはそれを再現するのは困難だという事実。


それが、希望と時間の不可逆性の自覚による絶望感・無力感が混ざった、あの心のざわめきのような妙な心的状態を呼び起こす。


だから、その「自己の物語」の成就に向けて、今できるだけの努力をしろ。後回しにすると、社会が変わってしまって実現できなくなるかもしれない。

……自戒を込めて。

 

 

「自己の物語」による影響〜未来の想像から


先ほど「今をめちゃくちゃ楽しめ」と書いた。

しかしながら、いくら今を楽しんだところで、その楽しい「今」は二度と戻ることがない。今努力を怠って「自己の物語」が実現できなくなったとき、その後悔対象となる「今」は戻ってこない。

この事実は、過去でなく未来について考えるにあたっても、心に響いてくるものである。


「自分が長らく思い描いていたことが実現しそうなとき」、心は希望と楽しさで満たされる。だって「自己の物語」が実現しそうなのだから。

しかし残念ながら、それだけにとどまらない。その「長らく思い描いていたこと」が実現したところで、やがてそれも過去の出来事となり、結局その先においては「楽しかったけれど自分にはもはやできないこと」となる。ふとそれを考えてしまうと、そのことを純粋に楽しむこともできなくなる。

これこそ「こんな生き方をしたいけれど、それが終わると再現が難しくなる」である。


楽しい出来事は長くは続かない。終わりが近づくにつれ、「終わってほしくない」という思いが現れてくる。でもどうしようもできず、終わりは確実に到来する。そしてその終わりが到来した瞬間、「楽しかった」という思いとともに激しい虚脱感に包まれる。

例えば、私は国内の旅が好きである。「ここに行きたい」と考えて計画を立て、それを実行に移すことで、自分の希望が成就しようとする。しかしいざそれが始まると、目標の完全な成就とともに完全な終焉に近づくのみであり、だんだんと虚脱感に苛まれていってしまう。そしてそれが完結すると、もう「過去の楽しかったこと」として記憶に残されるのみとなり、取り戻すことはできなくなる。


楽しいことが実現することは、非常に楽しくて心が躍る。でもそれはどうせ「過去の楽しかったこと」になる。

自分が現在語る物語が成就するとき、やがて「楽しかったけれど自分にはもはやできないこと」が現れるという想像が、自分の心を痛めつける。ここにおいて、時間は不可逆であるという残酷な真実を突きつけられ、それを前にして自分は何もできなくなる。ただ楽しいだろう生き方がそこに存在しながら、それには必ず終わりがあり、その先の未来における自分にはそれを再現するのは困難だという事実。


それが、楽しみと時間の不可逆性の自覚による絶望感・無力感が混ざった、あの心のざわめきのような妙な心的状態を呼び起こす。

 

 

でも「時間の不可逆性」が人生を面白くしてくれる


他者のものであれ自己のものであれ「物語」に触れることで、羨望・懐古・希望・楽しみといったプラスな感情を抱く一方で、時間は不可逆であるという事実を感じてしまい絶望・無力というマイナスな感情を抱く時、この心のざわめきが生じる。

物語に触れて「これはめちゃくちゃ良い生き方だ」「これは絶対楽しい」そう思う。……でも時間を巻き戻すことができないから、それを実現させることはもうできない。


タイムリープできれば良いのにな。タイムトラベルじゃなくて、意識が過去の自分に乗り移るタイムリープの方。某お笑いコンビのツッコミ(?)が「時を戻そう」とかいうけれど、本当に時を戻せたら良いのにね。あとタイムリープものはフィクションでも多数見られるけれど、現実でもそれができたら良いのにね。


……でも実は、「物語」に触れることで実感するこの残酷な「時間の不可逆性」こそが、人間生活を面白いものにしてくれるのかもしれない。

 

今を逃すと実現できないかもしれない危険性、今楽しくてもその楽しみには終わりがあるという事実、やり直しのきかない恐怖、これを自覚することこそが人間生活を実りある豊かなものにしてくれるのかもしてない。

その過程で「実現できない絶望」による心のざわめきが生じたとしても、それまた人生における一興。というかこの不思議な心のざわめきは、決して悪いものではない。

 


20歳の今ですら、この有様である。この先年齢を重ねて元気とか可能性が縮小するにつれ、この心のざわめきは拡大していくことだろう。

どうか、この心のざわめきと付き合いながら生きていきたい。自身の生き方を広げてくれる「物語」に触れることを楽しみながら。

 

夏が始まる。

夏というのは「物語」に富む季節なので、心のざわめきも大きい。

今、例年と比べて非常に制限されてはいるが、「物語」に影響された夏を思いっきり楽しみたい。

[雑14]観たものをひたすら述べていく①

今回はオタクによるクソ記事(?)なのでご了承を。

 

 

どうやら、自粛が始まって3ヶ月が経ったらしい。

もうこの生活にもとっくのとうに慣れてしまった。もう前の生活には戻れないかもしれない。オフラインの1限にはもう出られない。

 

さて、ずっと家にいると、常にインターネットと自分専用の机があることになる。そのため、パソコンで映像を見ることが非常に楽である。

それでどうなったか……というと、マルチタスク大好き人間である私は「なにか作業をする際にはパソコンで映像作品を流しておく」ということを徹底し始めた。具体的には、パソコンの画面の左側に作業用ウィンドウを表示して、右側にPrime Videoを配置するような感じである。この際「脳死で見られる映像作品」である方が、脳の処理能力を食わないので望ましい。

世の中にはあまりにも映像作品が多く存在し、時間さえあればできるだけ多く見ておきたいものである。その矢先、この環境は映像作品の視聴に非常に適していた。

 

結果、3/28の外出自粛開始から本日7/5までの間で、多くの作品を観ることになった。

なおほとんどはアニメである。だって変なドラマとかと比べて、作業しながら視聴するのが楽なんだもの。頭を空っぽにして観られる日常系アニメほど良いものはないぞ。ちなみにアニメをちゃんと観るようになったのは受験が終わってからである。

もう2020夏アニメが始まるらしく、時の流れの速さに衝撃を受けている。 

 

とりあえず、3/28から7/5までに観た50作品(え?)について、以下「頭空っぽにして見られる度」「心えぐり度」と感想を述べていこうかと思う。ネタバレは極力避ける。あと3ヶ月前なので意外と忘れてる。

「心えぐり度」ってのは要は「青春コンプとか拗らせとか旅したさとかにどれくらい影響してくるか」ってところである。

あと順番は適当。

 

※以下の内容は、完全に個人の主観によるものであり、特定の作品について批判することを目的とするものではない。また私はとてつもなく雑な人間なので、「やる気のある時に書いた感想」「やる気のない時に書いた感想」でとてつもなくばらつきがある。物によっては「感想」と呼ぶにも恥ずかしいレベルのものもあるが、ご容赦いただきたい。気になったら自分の眼で確かめるのが一番。

 

 

1. 恋する小惑星(2020冬)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆

心えぐり度…☆☆☆☆

恋アス。頭空っぽにして観られるけど、ある目標に向けて頑張る女子高生ほど眩しいものはない。これを観て「ああ、青春だなあ……」と思うほどには私は歳を取った。地学って素敵だよね(実は私は理科では地学が一番好きである)。地味に心がえぐられる。

 

2. へやキャン△(2020冬)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆☆

心えぐり度…☆

作業中に流すものとしては至高。まあ「へや」じゃないってことは置いといて。ちなみに犬山あおいが一番の推し(?)である。かちかち山の話(全然正しくない)好き。

 

3. 理系が恋に落ちたので証明してみた。(2020冬)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆☆

心えぐり度…☆☆

こういうバカみたいな恋愛模様、大好き。なんか「実際の理系はこんなんじゃない!」って批判とかもあったけど、ここで描かれてるのは「極端な理系」なんだからいいじゃん。ちなみに「証明したくなる」のは決して理系だけじゃなくて、ひねくれた心理学・社会学系の文系も説明したくなるじゃね?(偏見)って思った(自分がそうなるかもしれない恐怖)。

 

4. 鬼滅の刃(2019春〜夏)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆

心えぐり度…☆

ここにきてようやく視聴。何故あれほど流行ったのかよくわからなかったが、確かに面白かった。かっこいいんだよね、炭治郎。そして紅蓮華は名曲。ちなみにWikipediaの記載がめちゃくちゃ充実してる。

 

5. PSYCHO-PASS(2012秋〜2013冬)/PSYCHO-PASS2(2014秋)

頭空っぽにして見られる度…☆

心えぐり度…☆☆

脳死で観ようとした自分が間違いだった。でも面白い。めちゃくちゃ深い。余計なことだが、某活中にこれを観ると「現実でもシビュラが職業適性診断くれたらどれだけ楽だっただろう」と考えてしまうという副作用が生じた。そういや社学のとある先生が、社会学的概念が出てくるからって推していらっしゃった。ちなみに3期はまだ観てない。

 

6. ガールズ&パンツァー(2012秋・2013/3)/ガールズ&パンツァー これが本当のアンツィオ戦です!(2014/7)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆

心えぐり度…☆☆

この作品、むしろ細かい設定を考えてはならない気がする。私は最初に「なんでこの人たち怪我しないの?」ってなってしまった。……フィクションだからいいんだな。OP映像の構成が個人的に好き。

 

7. 化物語(2009夏)/偽物語(2012冬)

頭空っぽにして見られる度…☆☆

心えぐり度…☆

最初観た時は抵抗があったが、まあ面白い。ただし観るのにエネルギーを使う。化物語のどこかの次回予告(という名のもの)で「今は100年に一度の大不況!」とか言っててビビったが、そういや放映当時リーマンショック後の大不況だったか。

 

8. やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。(2013春)/やはり俺の青春ラブコメは間違っている。続(2015春)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆

心えぐり度…☆☆☆☆

俺ガイル。タイトルをはじめて聞いたときには「どーせ変なラブコメなんだろうな」って思っていたら、予想外の方向で「変なラブコメ」だった。だが下手なラブコメより圧倒的に名作。めちゃくちゃ名作。「友達」についてとか色々考えさせられる。八幡みたくなりたくはないけど、八幡はなんか格好いい。それに文化祭とか、なんだかんだ「青春」なので心がえぐられる。あと1期OPの材木座が好きなんだけど、誰かわかってくれますか。そしてなんと言っても主題歌が名曲中の名曲。『春擬き』こそ名曲と言われるだろうけど、それはもちろんながら『ユキトキ』もなかなかでしょう。あと、登場人物の名字が三浦半島周辺なので、ニュースで「三浦郡葉山町一色」と聞いたときは真っ先に俺ガイルを思い出してしまった。3期にめちゃくちゃ期待。

 

9. クズの本懐(2017冬)

頭空っぽにして見られる度…☆☆

心えぐり度…☆☆

恋に恋する人間に現実(?)を突きつけてくる作品。ドロドロ。恋愛って怖いものである。だが、恋愛経験ない私の心はそれほどえぐられなかった。私には関わりのない世界なのだから(ここで謎の拗らせ)。

 

10. らき☆すた(2007春〜夏)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆☆

心えぐり度…☆

日常系の元祖。適当に見るべき作品だと思っている。某クソアニメほどではないが色々とパロってるのが面白い。でもネタが古い。ちなみに母校に関するネタの1つである(意味深)作品。

 

11. Re:ゼロから始まる異世界生活(2016春〜夏)/Memory Snow(2018/10)/氷結の絆(2019/10)

頭空っぽにして見られる度…☆☆

心えぐり度…☆☆

安易な転生モノは好きじゃないけど、リゼロは良作だと思う。てか転生じゃなくて召喚だ。昴はキモい(?)けどなんか格好いい。エミリアは可愛い。あとOVAは本編と比べて平和すぎて、観ていてなんか安心したまである。ちなみに最初はナツキ・スバルの姓名が逆かと思っていた。すばるなつき。

 

12. エロマンガ先生(2017春)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆

心えぐり度…☆

タイトルからは想定しなかった内容(それはそう)(というかなにかを期待していたわけではない)。しかし意外と内容が重いのが良い(?)。EDの映像が可愛い。

 

13. 寄宿学校のジュリエット(2018秋)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆

心えぐり度…☆☆

すこ。めちゃすこ。可愛い。設定が現実離れしてるおかげで、青春ラブコメなのに心をえぐられないのが良い。ギャグとシリアス(?)のバランスが良い。ちなみにかぐや様(古賀葵)がモブで1回出てくる。たぶん声優陣が豪華。あと、これもガルパンと同じく、細かい設定を考えてはならない気がする。イチ押しの作品なのでみんな観よう。

 

14. NEW GAME!(2016夏)/NEW GAME!!(2017夏)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆☆

心えぐり度…☆

今日も一日がんばるぞい! 仲良い職場って羨ましいよね。あとひふみんが可愛い。可愛い。

 

15. Dr.STONE(2019夏〜秋)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆

心えぐり度…☆☆☆

唆るぜ、これは……! 痺れた。少年漫画らしく、みんなめちゃくちゃ格好いい。本当に格好いい。なんといっても親子の絆が素敵すぎる。てか科学の力を思い知らされる。これ昔に見てたら自分も理系になっていたのかもしれない。これを機に科学少年が増えるんじゃね……?ってレベル。第2期に期待。

 

16. ダンベル何キロ持てる?(2019夏)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆☆

心えぐり度…☆

はいっ、サイドチェストォォォォォォォォォ!!!!! 筋トレモチベが少しだけ高まった。いつかこれを参考にして筋トレする(いつだよ)。あと原作者の名前が「サンドロビッチ・ヤバ子」ってのが少しじわる(web漫画にありがち)。

 

17. 宇宙よりも遠い場所(2018冬)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆

心えぐり度…☆☆☆☆☆

よりもい。『ゆるキャン△』『からかい上手の高木さん』『ポプテピピック』『恋は雨上がりのように』『スロウスタート』『りゅうおうのおしごと!』『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』など名作(?)が重なった2018冬の中でも、1番の覇権だと思ってる。真の名作。神作品。号泣必至。軽く死ねますね。心にとてつもなく刺さる。音楽も最高。本当にこの作品に出会えてよかった。本当に神作品なので観てない方は絶対観てください。大きな夢を、諦めてしまってはないか。実現が難しいからって、不安だからって、苦労が伴うからって、挫けて終わっていないか。「何かやろう」と思っていても、行動に移せず終わっていないか。「友情」と見せかけた依存になってないか。「ざまあみろ」の思いを忘れていないか。友達を真に思って、物怖じせずに行動ができるか。自分の行動の理由を、自分以外の人に求めていないか。本物の友情とは何なのか。本物の友達との旅がいかに素晴らしいものか。一生モノの約束ができるか。「青春」とは何なのか。……「大きな夢」を忘れてしまった私たちに、大切なことを思い出させてくれる。

 

18. しろくまカフェ(2012春〜2013冬)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆☆

心えぐり度…☆

心が荒んだときに真っ先に見るべき。観てて全然イライラしない。癒しだけど、よく考えたら結構シュールなアニメ。そして普通に面白い。やりとりがいちいち面白い。それと効果音が充実してて、地味に大好き。あと次回予告も毎回面白すぎる。ちなみにパンダくん・ペンギンさん・ラマさんが『WORKING!!』の小鳥遊宗太・相馬広臣・佐藤潤と同じ(声優)なので、それを考えながら観るとちょっとじわる。

 

19. 邪神ちゃんドロップキック(2018夏)/邪神ちゃんドロップキック'(2020春)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆

心えぐり度…☆

だいぶ際どい作品。某クソアニメには敵わないが、突っ走る感じが面白かった。2期になってようやく世界観が分かるっていう。でも浅いギャグアニメでは終わらない面白さがある。

 

20. 乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転載してしまった…(2020春)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆

心えぐり度…☆☆

はめふら。タイトル長すぎ。こういう平和(?)な転生モノ好き(最後はシリアスだけど)。カタリナの脳内会議好き。可愛い。2期に期待。

 

21. かくしごと(2020春)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆

心えぐり度…☆☆☆

かくしごとの可久士とひめごとの姫。面白い。初見では想定しなかったほどに深い作品。一見ギャグアニメ風ながら各回の最後がシリアスなのが良い。最終話の終わり方はめちゃくちゃ【ここはネタバレなので隠す】。それにしてもKTMCMCとかどうやったら思い浮かぶんだよ。EDが大瀧詠一の「君は天然色」なのが痺れる。『甘々と稲妻』(2016夏)もそうだけど、シングルファザーと少女の話は個人的に推している。

 

22. かぐや様は告らせたい?〜天才たちの恋愛頭脳戦(2020春)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆

心えぐり度…☆☆

不器用すぎかよ。可愛すぎかよ。普通に下ネタが出てくるのも推せる。全体の中でも特に石上会計の回が大好き。

 

23. 放課後ていぼう日誌(2020春→夏)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆

心えぐり度…☆

3話しか観られていないのでまとまった感想はないけど、続きにめちゃくちゃ期待してます。これも「制服で釣りするな!」とかいうのはナンセンスな気がする。

 

ここまで、プライムビデオで観たアニメ。ここから、それ以外で合法的に観たアニメ。

 

24. 僕は友達が少ない(2011秋)/僕は友達が少ないNEXT(2013冬)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆

心えぐり度…☆☆☆☆

はがない。まあハーレムみたいなもんだけど、「友達」について問うてくるので深い作品である。とはいえ皆残念すぎる。残念系隣人部。アニメとしては珍しく、主人公の髪色に説明を付与しているのが個人的に好感。あとこの作品のせいで「肉」と聞くと柏崎星奈を思い出すようになり、厨二病の表現として「クックック……我が眷属よ……」がすぐに思い浮かぶようになった。なんで。

 

25. WORKING!!'(2011秋)/WORKING!!!(2015夏)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆☆

心えぐり度…☆☆

たぶん日常系。頭空っぽにして観られる。変人しかいないけど小鳥遊母が一番やばい。こんな仲良しなバイト先が羨ましい限り……と言おうとしたが殴られるのは勘弁である。『しろくまカフェ』と合わせて観るとおもしろい(前述)(適当)。

 

26. アニメで分かる心療内科(2015冬〜春)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆

心えぐり度…☆

真面目な内容のくせに変人と下ネタばかり出てくる。でも内容は真面目。役に立つか…と言われると微妙かもだけど。ちなみに我が家には漫画(マンガで分かる心療内科)がある。これを小学生に堂々と見せていた我が母親氏よ。

 

27. SSSS.GRIDMAN(2018秋)

頭空っぽにして見られる度…☆☆

心えぐり度…☆☆☆

ロボットアニメ。こういうのを観ることはなかなかなかったけど、ロボットアニメなのにストーリー性とヒューマンドラマが入っているのが良い。かっけえ。

 

28. となりの怪物くん(2012秋)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆

心えぐり度…☆☆

少女漫画。別に少女漫画はそれほど好きってわけでもないけど、これはだいぶ面白い。「変人がなぜかめちゃくちゃ頭いい」やつ。OPが好き。

 

29. となりの関くん(2014冬〜春)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆☆

心えぐり度…☆

「となりの◯◯くん(さん)」って作品多いのよな。山田くんとか山田さんとか柏木さんとか吸血鬼さんとかトトロとか(ちなみにとなりの吸血鬼さんはいいぞ)。関くんは観てるだけでなぜかヒヤヒヤする。でもいちいち楽しそう。OPの最後(横井さんが「やめて」と入れるシーンで関くんがOK/録り直しを示すところ)が回によって違うのが推せる。

 

30. ブレンド・S(2017秋)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆☆

心えぐり度…☆

日常系……? 癒し。でも店長は変態。どうでもいいが、OP映像の"Service"(6回目のS)のところを小池百合子と"Social distance"にして、その後に小池百合子が「密です!」と言うコラ映像があって、それがめちゃくちゃツボった。

 

31. 徒然チルドレン(2017夏)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆☆

心えぐり度…☆☆☆☆

尊死。叫びたくなるレベル。青春が眩しすぎる。観ながらニヤニヤするキモオタクになってしまった。剛田がイチオシ(?)。

 

32. アホガール(2017夏)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆☆

心えぐり度…☆

うるさい。アホ。バナナは夜食。

 

33. 魔法少女まどか☆マギカ(2011冬)

頭空っぽにして見られる度…☆☆

心えぐり度…☆☆

まだ全話は見られていない。噂は聞いていたので覚悟していたが、予想を遥かに超えて衝撃的な内容だった。一部シーンがトラウマになりそう。

 

34. さんかれあ(2012春)

頭空っぽにして見られる度…☆☆

心えぐり度…☆☆

まだ全話は見られていない。ゾンビの書き方が絶妙に生々しい。果たして「ゾンビ少女」ってのは本当に可愛いのだろうか……? OPが割と名曲だと思っている。

 

35. バカとテストと召喚獣(2010冬)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆☆

心えぐり度…☆

バカテス。たぶんある程度バカになって観ないと面白さがわからない。設定とか考え出したら終わり。段ボール箱で授業なんか受けられるんですかねえ……? あとたまにちゃっかり義務教育以上の内容が問われてたりする。

 

36. とらドラ!(2008秋〜2009冬)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆

心えぐり度…☆☆☆☆

綺麗であり、かつ深いラブコメ。「青春」を感じられる。川嶋亜美が自販機の間に座っている姿が可愛い(?)。

 

37. さくら荘のペットな彼女(2012秋〜2013冬)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆☆

心えぐり度…☆☆☆☆

日常系で、ながら観にぴったり……と思っていたら意外と重い内容。変人だらけだけど青春。夢を追って頑張る姿と、それが叶わず挫折する姿、叶わぬ恋愛に心が痛めつけられる。裸が出てくる(?)ためかPG-12指定らしい。

 

38. とある科学の超電磁砲S(2013春〜夏)

頭空っぽにして見られる度…☆☆

心えぐり度…☆☆

ジャッジメントですの! 「最弱」と書いて「かみじょうとうま」と読む回があった。3期はまだ観ていない。

 

39. とある魔術の禁書目録II(2010秋〜2011冬)

頭空っぽにして見られる度…☆

心えぐり度…☆☆

とあるシリーズ、登場人物が多すぎてながら観してるだけだと覚えられないんだよな……。一方通行&打ち止めが推せる。3期はまだ観ていない。

 

40. 可愛ければ変態でも好きになってくれますか?(2019夏)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆☆

心えぐり度…☆

特定の性癖の人間に刺さりそう。主人公が最もまともなハーレムもの(?)ってのは珍しい。もはや変態すぎて羨ましくもない。

 

41. はたらく魔王さま!(2013春)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆

心えぐり度…☆

魔王がめちゃくちゃいい奴な作品。魔王がボロアパートに住むとか、謎に生々しい作品。転生モノにありがち「転生元と転生先で音声言語が同じという不可解な事態」を解決している。カツドゥゥゥン。

 

42. ノーゲーム・ノーライフ(2014春)

頭空っぽにして見られる度…☆

心えぐり度…☆

転生モノかー……ってなったけど普通に面白い。でも世界観がたまによくわからなくなる。ドラちゃん(ステフ)が推せる。1回ED映像にノイズが入って空が消える回があるけど、あれは軽いトラウマになる。

 

43. ゆるキャン△(2018冬)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆☆

心えぐり度…☆☆

富士山見にいきたい。キャンプ飯を楽しみたい。身延まんじゅう食べたい。温泉行きたい。絶景の夜景を見たい。

 

44. のんのんびより(2013秋)/のんのんびよりのりぴーと(2015夏)/のんのんびより ばけーしょん(2018/8)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆☆

心えぐり度…☆☆☆☆

頭空っぽにして観られるけど、地味に心をえぐられる気もする。純粋な小学生時代とか、田舎での自然に囲まれた豊かな暮らしとか、大人になって「忘れてしまったもの」を思い出させてくれる。特にばけーしょん、一夏の旅行で友達ができるけど別れを惜しまざるを得ない、心にくる。ちなみに2年前に最初に視聴した時はニコ動のコメントを見ながらだったのだが、セミの「死ね死ね死ね死ね死ね」とかBGM一部の「チンポロリン」とかがそれにしか聞こえなくなってしまった。

 

45. 五等分の花嫁(2019冬)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆

心えぐり度…☆

変換で一発で出てこない作品、ナンバーフォーくらい。面白いけど、この作品のオタクがやたら多かった(?)のは結局なんでなのかよくわからん。個人的には三玖派である。

 

46. まちカドまぞく(2019秋)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆

心えぐり度…☆

これで勝ったと思うなよー。日常系に近いが、設定は普通にシュール。てか魔法少女に借金とかする魔族とか謎でしかない(褒め言葉)。あとEDの映像がもはや一世代前。

 

47. 生徒会役員共(2010夏)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆☆

心えぐり度…☆

清々しいほど下ネタをぶっ込んでくる。中学生が喜びそうな内容(偏見)。これが秀知院の彼彼女らと同じ「生徒会」なのが……。来年映画の2本目を上映するってのがウケる(?)。

 

最後にアニメ以外も申し訳程度に。

 

A. 勇者ヨシヒコと魔王の城(2011夏)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆☆

心えぐり度…☆

クソドラマ(褒め言葉)。低予算でここまで面白さが出るのがすごい。メレブですら常識人なのがおかしい。個人的には仏が推し。

 

B. ゆるキャン△[ドラマ](2020冬)

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆☆

心えぐり度…☆

なんか批判もあったけど、実写化では成功した方だと思います。なでしこが完全にヤバい人だけど、まあそれは別に。「うわ何をするくぁwせdrftgyふじこlp」の再現度とか、大垣千秋のベストキャスティングとか。

 

C. ローカル路線バス乗り継ぎの旅

頭空っぽにして見られる度…☆☆☆☆

心えぐり度…☆☆

おでかけしたくなる。めちゃくちゃおでかけしたくなる。太川蛭子コンビが名コンビすぎる。ああおでかけしたい。路線バス乗りつぎしたい。鳥取とか関門トンネルとか木曽路とか室戸岬とか行きたい。旅テロ。

 

 

以上50作品。

変な記事を失礼しました。

 

来週からはまたまともな記事に戻る。